魔の女王

香穂

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第二五話

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「義姉上様がお産みになられた神の御子を、世継ぎとしてお育てするのも、なかなかに魅力的なお話ですけれどねえ」





 前をゆく少年の肩がぴくりと震えたが、それだけだった。

 それがどういう意図での発言だったのかタキにはわからない。振り返ったタキに、トウジュはにっこりと微笑んでみせる。

 そのしぐさが、なぜか故郷にいる姉弟子を思わせた。どことなく似ている気がする。強いて言えば、柔らかな物腰に刃を隠しているその雰囲気が。

 そしてその雰囲気に違わず、トウジュからはそれ以上の情報提示はなかった。愛想の良い笑顔だけで問題無用で送り出される。

 対岸に渡ると、茂みの隙間を縫うようにして小道があった。カジュリは伸び放題の枝葉をかきわけ、時折後ろに続くタキと王を気にかけながらも――薄暗がりの中、柔和な笑みを浮かべた白い仮面がこちらを振り返る様は、なかなか空恐ろしい――躊躇うことなく奥へ奥へと進んでゆく。なるほどあの華奢な王妃には厳しい道のりだろう。

「王の姉君は、神と婚姻を結んでおいでなのですか?」

「……神とはそなたの相棒のことだぞ」

「ゼンの?」

 少年の瞳は実に剣呑だった。

「マナ使いは神ではなかったと記憶しているのですが」

「そなたの記憶ほど不確かなものはなかろう。さりとて事の真偽はどうあれ、ゼン様は来訪神として崇められている。姉上は神嫁として神の子を産むことも、選択肢の一つとしておられたのであろうな。余に逆らう者がいたとて、神の子に逆らうことはできまい」

「王の後ろ盾とするために神の子を産むと? 王を傀儡にして、神の子の母として君臨するため、ではなくて?」

「姉上に限ってそれはない。……実のところ、姉上は国政にさして興味がないのではなかろうかと思う。月神女の名も母上に譲っておしまいになられた。ああ、そういうところはトウジュに似ている。あれも世継ぎ問題が早々に解決するのであれば、産むのは己でなくともかまわないと本気で思っている節がある。さすが姉上と言うべきか。幼い頃より手元に置いて育てられただけのことはある」

「育てた? 姉君が、王妃を?」

「うむ。あれは遠縁の娘でな。神女としての能力を姉上に見初められ、つい先頃まで東の城で、姉上のお傍に仕えていたのだ。だからあれは余とそう変わらぬ教育を受けている。長くお傍にいた分、姉上のお考えに近いのは、あれの方だろうがな」

 不満そうだ。

「ときに姉君はおいくつで?」

「……そこにおるカジュリとそう変わらん」

 顔だけではなく年頃も似た娘を側妃に仕立てたのか。

 本来は妃ではなく、影武者として用意した娘だったのかもしれない。不意にそんな考えが過ぎった。

 影武者ならば顔だけではなく、しぐさや雰囲気が似ていてもおかしくはない。むしろそうするように教育されているはずだ。俗世から隔離された生活を送っていただろうから、余計な口出しをする親類縁者もいない。よって箔をつけるためにどこの家の養子にしたところで何の問題もない。

 王が姉を慕う気持ちに目を付けた者にとっては、またとない逸材に違いない。

 そうでもなければ、床上手などと評されることもないだろう。

 高貴な身分にある娘ならば卒倒するか、あるいはそもそもその言葉の意味さえ理解できないであろう類のことだ。王や王妃に気後れしない態度も、このような茂みに覆われた小道を臆することなく進んでいくのも、平民の出であるとすれば頷ける。

 せめてそれが王母の企てたことであれば良いのだが。

 タキは王の姉について何も思い出せない。弟が己を慕う気持ちを利用し、男の扱いに手慣れた己の影武者を、弟王の寵姫にしようと目論むような女性でないことを願うばかりだ。

「姉君はお若い頃から先見の明があったのですね。王妃様を育てたということでしたが、当時の姉君もまた幼くあったでしょうに」

「うむ。しかし師とするのに申し分なかったぞ。この十年、トウジュのように常にお傍にあることはできなかったが、余も姉上に様々なことを教えていただいた。……そのせいでトウジュと気が合うのも癪なのだがな」

「お待ちください。十年、と?」

「ああ、そうだ。十年前、神託を受けた姉上は、我が母におっしゃられたそうだ。そなたの子がいずれ王になるであろう、と。その神託を信じ、母は密かに資金や兵力を集め、来るべき時が来るのを待っておられた。それゆえに一の兄が父上を弑し奉り、二の兄を殺めてしまわれた時、誰より早く行動を起こすことができたのだ。一の兄は負けるべくして負けたのだよ。二の兄もまた、母の願いのために……」

 十年。

 人にとってそれは長いのか、短いのか。

 兎にも角にも神託の導きに従い、十年の時を経て王母の願いは叶えられたというわけだ。どうやら血生臭い出来事もあったようだし、妃の顔やしぐさが気に喰わないと騒いでいる程度のことは、可愛らしいものなのかもしれない。

 それにしても王の姉に興味を惹かれる。一体どのような人物なのだろう。

「姉君はなかなかの策士のようですね。今はどちらにおられるのですか?」

「今時分は西の拝所におられるのではないだろうか。太陽が沈む頃合いは儀式だなんだと忙しい。……ああ、そうか。そなたは忘れてしまっているのだな。姉上は当代の月神女だ。だが間違えるなよ。今この城で月神女と言えば母上になる。ゼン様は母上がお嫌いなようだから、そなたも母上には近づかないほうが良かろう」

「表向きは御母上が月神女で、その実、裏では姉上が月神女としてお勤めをされていると?」

「そうだ」

「何故そのようなことに?」

 当然の疑問だと思うが、王は重々しく口を閉ざしてしまった。

 ならば聞くべき相手は一人しかいない。

「カジュリ殿。どういうことですか?」

「えっ、……あの、わたくしの口から申し上げることは」

「心配には及びません。僕の質問に応えたところで、王に咎められることはないと約束しましょう」

 それでも白い仮面はちらちらと何度も王を振り返っていたが、王が否定もしなければ肯定もしないところを見て、ようやくおずおずと話し始めた。

「わたくしもその、詳しいことは存じませんの。ですが我が君の即位式でも月神女の役割を担っておられたのは王母様でしたわ。慣例としては王の姉妹が月神女を務めるものですけれど、義姉上様はすでに神嫁という重要なお役目がおありでいらっしゃいますし、王母様が月神女になることも例外的に認められたのやも、と……」

「要は、やんごとなき方々のお考えは、よくわからないということですね」

「ええ、まあ。義姉上様もそれで良しと思っていらっしゃるようにお見受けしております。となれば尚更、わたくしのような者が口を出すことではありませんもの」

「なるほど。では、たとえば神使様である僕がこのまま表へ出て行って、カーヤカーナに会いたいと大声で叫んだとしたら、どちらが来るのでしょうね?」

 それは、と口ごもったカジュリに代わって、王が言った。眉間のしわの寄り方がすごい。若いのに苦労人だなと思った。

「姉上であろう。まずは用向きを聞いて、問題がなければ後から母上がお出ましになられる。問題があれば、母上は外せない用があるとでも言って、そのまま姉上が話をされるはずだ。何故かはわからぬが、姉上はいつも進んで危険の渦中に身を置かれる」

「きみのために、あえてそうなさっているのではないのですか?」

「それで姉上にどのような益がある? 王になればご恩返しができると思っていたが、どうにもうまくいかぬ。すべてを手に入れられる地位にありながら何も望まず、あえて危険に身をさらす姉上のために何ができるのか、余には今でもわからない。月神女の名を母上に好きに使わせていることも、カジュリはああ言ったが、みな腹の底では何を思っているかわかったものではない。火種になりそうなことはせぬほうが良いと再三申し上げたのだがな」

 それは確かに手強そうだ。

 そういえば僕は、誰の願いを叶えるためにここに来たのでしょうねえ。

 重要なことに思い至って、タキはさすがに困惑した。

 マナ使いとしてあるまじきことだ。願いを叶えるべき相手のことを忘れてしまうなど。

 とはいえ頭の中の魔物は温情と言うものを持ち合わせていない。綺麗さっぱり、魔物が頭に住み着いた以降のことは何も思い出せない。

 ……まあ、焦っても仕方がない。ひとまずゼンを探すとしますか。

 小道の先には石垣があった。特にかわりばえのない石垣で、そこには当然のように扉などはない。カジュリいわく、タキはいつもこの石垣を越えてゼンの元へ帰っていくのだそうだ。正直なところ石壁を超える程度のことであれば、彼らの手助けがなくても戻れたのだが、ここはおとなしく礼を述べておくべきだろう。

 近くに生えていた防風林を足掛かりに、石垣の上に飛び移る。

 どうせまた来るのであろうな、という溜息交じりの王の言葉には苦笑するしかなかった。

 できれば次に会う時は、その目的を覚えたままでいたいものだ。

 王とカジュリとはそこで別れた。

 石垣の向こう側には開けた庭が広がっていた。王の屋敷が近いためだろう、見回りの隊士の数が異様に多い。これは地上より屋根づたいに進んだ方が良いだろうかと思案していたところで、誰何の声が飛んだ。

 見れば、二人組の隊士が庭先に立っていた。抜刀している。

「……もしや貴殿は、神使様ではありませぬか?」

 その呼び方には覚えがある。頷くと、隊士は途端に態度を変えた。刀を鞘に戻して非礼を詫び、どうぞこちらへ、と屋敷の中へ招く。

 これは一体どういうことだろう。

 神使というものは、王の私的な場所への出入りが許されているのか。いや、つい先ほど王たちの計らいで抜け道を案内されたばかりだ。そうとは考えにくい。

 立ち去るべきか否か、迷ったのはほんの一瞬だった。

 この先に何が待っているのか非常に興味深い。逃げるのは、危険が明確になってからでも遅くはないだろう。

 タキは石垣から飛び降り、隊士に勧められるまま縁側から屋敷の中へ上がった。すぐに女官が現れ、さらに奥へと誘われてゆく。

 廊下を右へ左へと幾度も曲がると、もはや王の屋敷からどれだけ離れたのか判別がつかなくなった。見るものすべてが美しく、細部に至るまで入念に手入れされているが、これといって特徴的なものはなく、どこもかしこも似たような景色に見えてしまう。廊下も庭も、無数に広がる部屋も、先程見たものと今ここで目にしているものと、一体どこが違うのか皆目見当もつかない。

 先導する女官はふたり。後ろには先程の隊士がそのままついてきている。他に人影はなく、やけに静かな場所だ。

「どこへ向かっているのですか?」

 女官の一人がこちらを顧みた。

「まもなく神がこの屋敷へお越しになられます。それまでゆるりとお過ごしいただくよう、主から申しつかっております」

「主とは?」

「月神女カーヤカーナ様にございます」

 聞き覚えがある名だ。

 ここで言う月神女は、……王の母君のことでしょうか?

 ふと、鼻孔をくすぐる香りに意識を奪われた。

 芳しい。草花、いや香木だろうか。甘く、けれど清々しい。それはふわりと周囲に漂い、次第に強くなってゆく。不快になるどころか妙に気になる。一体どこから漂ってくるのだろう。

 女官たちは青畳の部屋にタキを招き入れた。

 促されるままに腰を下ろす。周囲の戸はすべて開け放たれていて、夜風が肌に心地良い。薄暗い部屋に、手燭を掲げた女官が次々と火を灯してゆく。

 もう一人の女官が酒を勧めてくる。盃を手に取り、酒を呑む。辛口だ。

 視線をめぐらせる。部屋を満たす香りの発生源は、すぐに見つかった。

「随分と手の込んだ香炉ですね」

 飾り棚の上にあったそれは、両手に乗るほどの大きさだった。

 ゆるやかな曲線は、淡い緑に紺碧を混ぜ込んだような不思議な色をしている。その造形の端正さもさることながら、複雑な意匠に心を奪われる。海を模しているのだろうか。いくつもの流線が描かれる。燭台の灯りを受けて光沢を放つその姿は、さながら月夜にゆらめく水面のようだ。

 もっと近くで見ようと体を動かした時、異変に気づいた。

 熱い……?

 妙に体が火照っているような気がする。

 思うより強い酒だっただろうか。まだ数口しか飲んでいないのに眩暈がした。

 庭先で松明が爆ぜる。

 とたんに周囲が暗くなった。――否、瞼が重いのだ。瞬きのひとつひとつに時間がかかるせいで、室内が暗くなったように感じただけだ。心なしか動悸も激しい。

 女官が立ち上がり、香炉を手に取ると、再びタキの傍らに戻ってきて座った。

「こちらをご所望でございますか? どうぞ手に取って香を聞いてみてくださいまし」

 香炉の蓋部分にはいくつもの隙間があった。そこから微かに熱気が漂っている。

 香木は熱によって強い香りを放つ。香炉の中には灰と、熱された香木が入っているはずだ。

 伸ばした指先が、なぜか目標を見誤った。

 女官の手の中から香炉が落ちる。身頃や膝に灰がぱっと散らばった。

「まあ、大変。お怪我はございませんか?」

 腕の中に倒れこんできたタキを、女官はよろめきながらもなんとか支える。

 女性特有のやわらかな体躯が、甘い香りが、なぜか心を騒ぎ立てる。とにかく身を起こさねばと思うのに、体制を崩した時とっさに掴んだ彼女の腕から手を放すことができない。

 まるで香炉ではなく、はじめから彼女を求めていたかのように。

「新しいお召し物をご用意いたしましょう」

 もう一人の女官が部屋を辞す足音。それは次第に遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。

 いつの間にか室内にも、外にも、タキと女官以外の人影はなくなっていた。

 するりとタキの腰帯をほどいてゆく白い指先。次いで袷に入り込んだ掌が、やけにゆっくりと素肌の上を撫でた。耳に吐息がかかる。軽やかな声が嗤った。

「汚れてしまいましたわね。すぐに清めてさしあげます」

 女官は軽やかに告げる。

 その咽喉元に噛みつきたい。

 その衝動のままに、彼女の体を床の上に押し倒した。

「きみは、女官ではありませんね?」

「ええ。わたくしは神女ですわ。あなた様のお世話を仰せつかっております」

「神女……」

 しなやかに仰け反る首筋に舌を這わせると、薄い皮膚が泡立った。甘い嬌声が耳朶を撫ぜる。嫌がるどかろか、その先をうながすかのように。

 試しに、このまま流れに吞まれてしまおうか。

 好奇心が刺激されて仕方がない。

 ――が、さすがに危険か。

 なにしろ彼女の言動はすこぶる怪しい。

 彼女が言うところの神はゼンのことだろう。

 タキはマナの流れを読むことによって、ゼンの気配を感じることができる。彼女はそのことを知る由もないはずだ。そしてゼンはこちらへ近づくどころか、どうやら離れていっている。

 十中八九、これは罠だ。

 しかしタキをかどわかしたところで誰に利があるというのか。

 いや、解るはずだ。すでにその答えをタキは知っている。

 神の子、という言葉が脳裏を過る。

 彼女の主は王母だ。

 王母が求めているのは僕か、あるいは僕の子種か……。

 神に連なるタキの子を宿した神女がいれば、それは確かに縁起が良いかもしれない。

 しかも神嫁よりも早く身籠れば周囲の注目度も増すだろう。

 王母は神嫁に対抗するための力を欲し、タキをこの屋敷に引き入れた、と考えると、説得力のある筋書きになる。

 やれやれ。マナ使いは子種を持っていないというのに。それもこれもゼンが嫁など娶るから厄介なことになるんですよ。あとで文句を言っておかないと。

 タキはおもむろに身を起こした。急に途切れた愛撫に、神女は不思議そうな顔をしている。

 はじめて触れる女性の肌は興味深く、できればもっと探求してみたかったというのが本音だが、これ以上ここに留まるのは良策とは言えない。

 己が乱した着物の袷を整え、彼女の上から退く。

 体は気だるいし、眩暈もする。

 だがそれが何だ。このまま媚薬に負けて、次に目が覚めれば腕の中に王母がいた、なんてことになれば、ゼンに何を言われるかわかったものではない。それはご免被る。

「どうなさいましたの?」

「残念ですが、ここまでです。良い夢を」

 身を屈めてそっとくちづけ、彼女の悲鳴を抑え込む。

 気絶させる方法はいくつか知っているが、申し訳ないことに、そのどれもが少なからず衝撃を伴う。できることと言えば痛みを最小限に留めることくらいだ。

 完全に意識を失った神女をその場に残し、タキは庭へと向かう。

 熱に浮かされふらつく足元がなんとも情けない。廊下の柱に手をつき、呼吸を整える。

 その手を、誰かにつかまれた。

「夜はまだこれからでしてよ。そのように急がずともよろしいではございませんか」

「そうですわ。必ずやご期待にお応えしてみせますから」

 腰にやわらかな腕がまわる。

 また違う女性だ。

 一体何人出てくるのか。先程結びなおしたばかりの腰帯をほどいたのがどの女性なのか、もはや区別がつかなくなってきた。ともかくタキの行く手を阻む女性は三人も増えていた。

 タキの体にからみつきながら、彼女たちは妖艶に嗤う。

 ――これは、なかなか手強い。

 タキは焦ると同時に、相棒の貞操を心から案じた。
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