魔の女王

香穂

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第二九話

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 西へ沈む太陽は死者が住まう常夜の国ニルヤネリヤへ向かう。

 一日の終わり、波の彼方で織りなされる光の饗宴に、誰もが心を奪われて息を呑む。

 薄い藍に混ざり合う鮮やかな朱。水平線が白んだのはほんの一瞬のことで、気づけば空には宵が広がり、寄せては返す波音だけが響いていた。

 日々、太陽は生まれて、死ぬ。

 だからこそこの世に在る太陽の最期を見守るのは、西の神女イリにとって重要な役目だ。

 ゆえに本来ならば一日の終わりには海辺に赴き、太陽の神に祈りを捧げることが、イリの日課だった。

 けれど今、城壁の上に設けられた簡易の祭壇を前に、イリは唇を噛みしめた。

 ただでさえ乏しい供物は、食糧不足ゆえこの後すぐ下げ渡される。

 周りに控えるのも神女ではなく隊士だ。

 西の神女にとってこの儀式は慣例であるため、それを知る者がイリの命を狙うかもしれないとシシは危惧している。そのためイリがどれほど懇願しようとも、城の外に出ることはおろか、この場に神女を伴うことさえ許されなかった。シシの主君はイリだが、彼に逆らえば己の身が危ういことくらいイリも理解している。

 民は、イリを憎んでいるのだそうだ。

 天が雨を降らせないのは、西の神女たるイリが役目を疎かにしているせいだと。

 くわえて王都へ出向いたのはこの窮状を王へ直訴するためだったが、それもまた民の目には真っ先に逃げ出したかのように映ったようだ。イリとともに政を担っていた城主が逃亡したことは事実ゆえ、そう認識されても仕方のない状況ではあるが、イリはまだ納得できていなかった。

 だって他にどうすればよかったの?

 不作や不漁が続き食糧が不足した。数年をかけてゆるやかに、だが着実にこの西の地では飢饉が起きていた。だからイリは城で蓄えていた食糧を民に配布するよう命じた。

 彼らは心から喜んだのだ。

 その顔を見てイリも嬉しかった。イリ様のおかげで命を永らえることができた、感謝いたします、と涙を流して喜ばれるたび、己の判断は正しかったのだと思った。

 それなのに今、どれほど言葉を重ねても、イリの言葉は言い訳にしか聞こえないのだそうだ。

 旱が続き、困窮した民は再びイリに助けを求めた。

 けれどすでに城にイリの姿はなく、嘆願に来る民すべてに配れるほどの食糧もなかった。そして王の代替わりによる混乱が収まらないうちに、追い打ちをかけるようにして疫病が広がり、王都では月神女カーヤカーナが夜ごと贅沢な宴を開き、祈りを捧げることを忘れて色事に溺れているとの噂が流れた。

 その不満や不安が暴動を引き起こすまで、さほど時間はかからなかった。

 城の門を閉ざすと決断したのはシシだ。

 そうすることで暴徒や疫病から、城の中にいる者たちを守った。

「どうして民を見捨てたの? 他に助ける手立てがあったかもしれないのに! せめてもう少し、もう少し門を閉じるのを待つことができれば、もっと多くの民を城の中に入れることができたはずよ」

 城に戻った折、イリはそう言ってシシを責めた。

 タキとともに城下の惨状を目の当たりにした直後だった。己の愛した町から漂う死臭に、心が悲鳴を上げていた。

 そんなイリを制したのは、共にこの西の城で神事を担ってきた神女仲間だった。

「イリ様は何もご存知ないから、そのように仰せになることがおできになれるのです。シシ様がたがどれほど苦心して策を講じ、民を助けようとなさっていたことか。シシ様がご決断くださらなければ、城の中にまで病が広がり、今こうしているわたくし共も無事ではおりませんでした。どうか斎場の庭をご覧になってくださいまし。海に還してやることもできず、土を掘って埋めることしかできなかった我らが、どれほど口惜しかったか、イリ様ならばおわかりいただけると存じます」

 あれからイリは、斎場の庭に足を運ばない日はない。

 護衛を伴って城壁を降り、歩き慣れた石畳の道を進む。以前は周囲に色鮮やかな花が咲き、その花を守るようにして防風林が生えていたが、この旱で姿を消して久しい。枯れ枝が残る道の向こうにくだんの庭が見えてくる。

 土が剝き出しになった庭だ。

 以前はここでよく男たちが武術の鍛錬をしていた。

 王城では武芸に秀でた神女が守人クムイとなり、月神女や高貴な生まれにある子女の護衛を任されていたが、この西の城では斎場に足を踏み入れることを許された男たちがいる。

 シシもそのひとりだ。

 彼は武人でありながら神にも仕える、王国でも珍しい男性祭祀の担い手だった。

 土地柄か、武骨で豪胆な男が多かった。武芸を極め、その妙技を捧げることもまた神事であるとシシは言っていたけれど、はたして本当にそれだけだったのか。彼らは祈るよりも武芸の鍛錬に費やす時間の方がはるかに長かった。

 けれど今、ここにあの頃の面影はない。

 庭のいたるところに不自然に盛られた土。その下に眠る亡骸の正確な数をイリは知らない。ただ当時の話から察するに、両手の指の数では到底足りないだろう。両足の指を追加しても、きっと足りない。

 肩が震え、こぼれそうになる嗚咽を堪える。

 乾いた土の上に膝をつき、手を合わせたけれど、ついぞ祈りは声にならずに涙に呑まれてしまった。

 ここに眠る多くは城の内側で病に感染し、あるいは暴動による負傷が原因で命を落とした者たちだ。イリがよく知る神女もいれば隊士も、傍仕えの者も含まれている。今この城において家族や友人を亡くしていない者など、誰一人としていないだろう。

 土を踏む足音が背後に近づいてくる。

 振り向かなくてもわかる。父王に命じられて西の神女の座についてからずっと、彼はイリを守るため、いかなる時でも傍にいてくれた。

「シシ。まだお礼も、謝罪もしていなかったわね」

「さて、姫様に謝罪される覚えはありませんが」

「わたくしがそなたに留守を任せたばかりに、つらい決断を強いてしまったわ。本来ならば西の神女として、わたくしが下さなくてはならないことだったのに。……正確にはわたくしとセイシュだけれども。あの愚か者は一体どこへ行ってしまったのやら」

「身の危険をいち早く察知したのですから、なかなか賢い御方ではありませんか。我らもセイシュ様とともに城を出ていれば、あるいはもっと多くの者を救うことができたのかもしれません」

「民なくして国は成り立たない。セイシュの元にはもう誰も集わないでしょう。生き延びたところであの者に一体何が残るというのか。いくら賢くても、あれの行いは上に立つ者がすべきことではないわ」

 西の城主セイシュとは、イリと共にこの城を統治していた男のことだ。古くからこの地に根づく豪族の出で、祭祀はイリが、政は彼が司っていた。

 武人であるシシの役目は本来、城の主たるイリとセイシュに仕え、隊士を統括して城を守ることだ。

 けれどイリが不在の間にセイシュが行方をくらました所為で、すべての判断をシシが下すことになってしまった。

 不在の間に西の地がどうなるか案じることはないのか。そう問うてきた妹の顔が脳裏に過る。

「姫様は俺の主君です。主君が臣下に頭を下げる必要はありません。それに感謝申し上げるべきは我らの方ですよ。よくぞこの地を見捨てずお戻りになりましたね。姫様を信じ、待っていた者たちも救われましょう」

「……わたくしを、待っていたの?」

「民は知らずとも、城に仕える者は皆、姫様が民の幸せを願い、心を砕いていたことを知っていますからね。どれほど状況が悪くなろうとも、姫様ならば必ずやお戻りになられると信じていましたよ。まさか人ならざる御方と、魔物に乗って城壁を飛び越えてくるとは、さすがに予想だにしませんでしたけどね」

 ますます涙が止まらない。

 すると今度は叱られた。

「さっさと泣き止みなさい。姫様がそのように頼りない御姿をさらしていては、皆が不安に思います」

「本当にそうね。アガリエなら、きっとこんな情けないことにはならなかったでしょうに、不甲斐ないわ」

「……」

「シシ?」

 不自然な沈黙に顔を上げる。シシは顎に指をあて、眉間の皺を深くした。

「そのアガリエ様なのですが」

「アガリエが、なに?」

「俺はお会いしたことがありませんが、……不思議な方ですね。我らを助けてくださるおつもりなのか、それとも滅ぼすおつもりなのか、はかりかねます」

「どういうこと?」

「詳しくは後程お話いたしましょう。さあ、ゼン様やタキ様もそろそろお越しになられる頃。参りましょう」

 差し出された武骨で、けれど優しい手に、イリはそっと己の手を重ねて立ち上がった。
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