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幕間 アヤ
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王城に神が現れた。
東の神女アガリエ様が東からお連れになった。
私は神女としての才覚はないにも等しいけれど、くだんの青年が人ではないことはわかる。
不思議な気配をまとった御方で、色素の薄い双眸はすべてを見透かしているかのように澄んでいて、どこか近寄りがたい。
私は守人クムイとしてお二方にお仕えすることになった。
長く城を離れていたアガリエ様には専属護衛がいなかったこと、なにより神と婚姻を結ばれたことへの祝儀として、王妃様から贈られたのだ。
長年お仕えし、お世話にもなった王妃様の元を離れるのは忍びなかったけれど、これも王妃様の命だ。逆らうことは許されない。
それどころかお二方のお役に立たなければ、王妃様の顔に泥を塗ることにもなってしまう。
アガリエ様は身支度や湯浴み、禊でさえもご自分でなさるため、傍仕えの数は驚くほど少なかった。それでは体裁が保てないこともありましょう――傍仕えの数は、それだけ多くの者を養う財力があるということを示すとして、時には権威を示すものとなる――と上役に進言する者もいたが、四六時中、傍に人の気配があることを神が良しとしないのだと説明があった。
なるほど確かに神は自由奔放で、すぐに石塀を越えてどこかへ行ってしまわれる。
当初の印象とは随分違う御方だった。
さすがに私もあの猫のような魔物の足には遠く及ばない。護衛の面目が丸潰れとなり、同僚たちはとても憤慨していた。神の悋気を畏れて、そのなさりように異を唱えることができた者は、一人としていなかったけれど。
そのためお二方の屋敷に仕える人数は、さらに当初の半分にまで減った。
守人の私が残されたのは、護衛としての能力のほかに、日常的な雑務もこなすことができるからだ。朝早くから屋敷を隅から隅まで掃除し、洗濯を済ませ、時には台所で食事や茶菓子を作って、主の帰宅をただただ待った。
やがて王が身罷り、騒乱の末に王妃様は王母様となられた。
私は変わらずアガリエ様と神のお傍に仕えていた。
あれは、そんなある朝のこと。
朝餉の席に神の姿はなかった。明け方に散歩へ行くと告げたきり、朝餉の時間を迎えても戻ってこなかったので、仕方がないとアガリエ様は――正式にはカーヤカーナ様とお呼びすべきなのだが、ご本人はこの頃もまだ東の神女アガリエの名を使っておられた――お一人で座しておられた。
特に珍しいことではなかった。神は時折そうして姿を消す。
私は台所から一人分の膳を貰い受け、アガリエ様の前に置くと、そこから少しだけ取り分けて租借した。ここでは毒見は私の役目だ。問題がないことを確かめてから、女官がアガリエ様に改めて膳を差し出した。
代り映えのない朝の風景。
そのはずだった。
でもこの日、一口食べて、アガリエ様の箸が止まった。
「そなた、名は何と言う」
視線は私に向けられている。
「アヤと申します」
「アヤか」
「はい」
そう呟いて、アガリエ様は何事もなかったかのように食事を再開された。
アガリエ様は普段傍仕えの名など気にされない。馴染みの者も持たず、用を申し付けるにしてもその時々で傍にいる者を使う。
ただ女官たちが言うには、全員の名は把握されているはずなのだ。ということは私の名を知っていて、その上で問いかけておられたということになる。
そこに意味がないわけがない。
アガリエ様は月神女。この国で一番の神女で、神嫁でもあらせられる御方。
力のある神女は、真の名を使ってまじないをかけることができる。呪うことも。
アヤという名であるかと問われ、是と応じた瞬間、私の魂は真の名によって縛られた。
しがない私の霊力でもそれだけは明確に理解できた。
真綿でそっと心臓の奥を包まれているかのような、不思議な感覚だ。
でも何故なのだろう。
その理由は、数日後にわかった。
人払いをして二人きりになった部屋で向かい合って座す。そうしてアガリエ様の口から直々に申し渡された。
「わたくしに忠誠を誓うなら、恨みを晴らす機会を与えよう」
恨み。
何のことかわからない。
「そなたの娘の父親について調べた。兄と契りを結んだ自覚はなさそうだが、どうだ?」
「……兄?」
「そなたの父は、後継ぎであった己の兄を焼き殺し、遺された兄の妻を娶って家督も継いだ。だが兄の嫡男を取り逃がすとは詰めが甘い。生き延びた嫡男は父の仇を討つため、仇の娘であるそなたに近づいた。手引きしたのはおそらく母御であろう。これは推測だが、夫を殺したのが義理の弟であり、その義弟の謀略にはまって子をなしたことを、母御は息子と再会するまで知らなかったのではなかろうか」
「お待ちください。何を仰せになられているのかわかりかねます。夫の両親はすでに他界していると聞いております」
「そなたの母御と兄は、そなたを利用して家を取り潰しにするつもりだった、と言っている」
「家、を?」
「質問を変えよう。そなたが毒見役を買って出るのは何故だ?」
「危険なお役目は手当てをいただけるからです。娘の病を治すため、どうしても高価な薬を買う必要があるのです」
「先日そなたが毒見をした膳には、毒が盛られていた」
「そんなはずはありません。私が毒見をしたところを、アガリエ様もご覧になられていたはずです」
「そうだ。たしかにそなたは食べた。だが毒に耐性があるそなたの体は、そもそも毒が効かない。よって膳に毒が盛られていてもそなたには気づけない。随分と毒漬けにされているようだが、本当に心当たりはないのか?」
病弱で、薬を手放せなかった幼少期。それでも不思議と彼に会う日は気分が良くなった。会いに来ない父母。元守人だという老婆。屋敷を抜け出して彼と遊ぶようになっても、妊娠が発覚しても、乳母は何も言わず身の回りの世話をしてくれていた。失った味覚のこと。
彼の言葉を思い返す。
信頼していた相手に父母は惨殺された。屋敷には火を放たれ、家人も皆殺しにされた、と言っていた。
「そなたは知らぬであろうから言っておくが、我が国の識字率は決して高くない。つまり文字を読み書きすることができず、文をしたためることができない者が大半だ。特に医術師というものは教養や知識が必要な職務ゆえ、相応の身分でないとなれるものではない。守人クムイにしてもそうだ。まずは後ろ盾とする家が重要視される。我が身を預けるのに、得体の知れない者を雇うわけにはいかないのでな。そなたの実家は中流階級だが後ろ盾とするには申し分ない。だがだからこそ、そなたの振る舞いが家の今後を左右する。膳に盛られた毒でわたくしや、あるいは義母上の身に何かあれば、そなただけではなく、そなたの実家にも咎が及ぶ。母御や兄はそれを待っていたのであろうが、そなたに何も告げなかったことが災いした。義母上に下賜された装飾品を父親に渡したのは、そなたの意志だな?」
「御意。娘の薬代が必要で、他に伝手もございませんでした。……それが、何か?」
もう何年も前の出来事だ。
以来、彼と娘は父の庇護下で暮らしている。
「そなたの父親は、その時はじめて病に伏しているはずのそなたが、あろうことか王城に務めており、上質の装飾品を身に着けるような高貴な主君に仕えていることを知った。そうして母御や兄の企みに気づき、そなたの娘とともに処断した」
「処断……? 娘からは、最近手習いをはじめたと、文が届いたばかりです。夫からも」
「娘に会ったのはいつが最後だ?」
「八年前、城へ上がる前に別れたきり、会うことが叶わず」
城へ上がればなかなか里帰りは許されないが、生涯出ることができないわけではない。
けれど数少ない好機に娘はたびたび体調を崩し、薬代が必要になった。
彼と娘が実家の庇護を受けるようになってからは、心配せずとも元気にやっているからと、父親から里帰りを断られ、結局一度も帰ることができず時だけが過ぎていった。
アヤの知る娘はまだ赤子のまま、彼の腕に抱かれて泣きじゃくる姿のままだ。
もう二度と、娘にも、彼にも会えないなんて。
そんな残酷なことがあるだろうか。
「わたくしの言うことが信用ならないか?」
信じたくない。
でもアガリエの手元にある報告書は、アヤの同僚が作成したものに違いない。身辺調査も守人クムイの仕事の一つ。その仕事の正確さをアヤも知っている。
信じたくないと思うのに、頬を涙が流れ落ちた。
アガリエは立ち上がり、躊躇いなく二人の間にあった距離を詰める。床の上に広げたのは報告書だ。そこに記されていた文字は、彼女の話と寸分違わぬものだった。
「義母上も惨い仕打ちをなさる」
アガリエ様の義母は、王母で、アヤにとっては元雇い主だ。
「義母上はそなたの毒に強い体質をご存知で、わたくしを毒殺するための手駒として利用した。当然そなたの素性も調べているはずだ。それがそなたの娘が殺される前だったのか、それとも後だったかは知らないが」
お優しい、お優しい王母様。
娘の恩人であるあなた様のためなら、どんなことだってしようと誓って、お仕えしてきたのに。
「わたくしの真名はウタだ」
驚きのあまり涙が止まった。
高貴な身分にある姫君が、一介の護衛に真の名を明かすなどありえない。
「どうした。聞こえなかったか?」
「……いえ、その」
「問われれば応じよう。そこに記されたことが事実であると証明するために」
私は神女としての素養がないに等しい。だからいくら真の名を知っていても、私がアガリエ様を呪詛することは不可能だ。
でも口外することはできる。
力ある神女に教え、呪詛をしてもらうことも。
真の名を明かすことはとても危険なことだ。
アガリエ様のように他者から羨望を受ける立場にあれば尚更。
その危険をアガリエ様は犯した。
私のために……?
「ウタ様」
「なんだ」
「畏れながら、しばしお傍を離れることをお許しいただけますでしょうか」
「好きにせよ。ただし手抜かりは許さん。それからこれを」
役に立てば良いが、と言って、アガリエ様は身に着けていた装飾品を全て私に下賜してくださった。
「思うところはあるだろうが、義母上のことはわたくしの預かりにさせてもらう。まだ生きていてもらわねば困るのでな」
混乱していて、正直なところ王母様に対してどのような感情を持っているのか、自分でもよくわからない。今はとにかく実家へ戻り、事の真相を確かめたかった。私は首肯した。
下がろうとした私に、アガリエ様は意外なことを仰せになった。
「アヤ。わたくしにも娘がいる」
初耳だ。
アガリエ様は静かに微笑まれた。私がはじめて見るアガリエ様の心からの笑みだった。
「わたくしはこれから稀代の悪女になる予定だ。ゆえにわたくしがあの子に会うことは今生でも、常夜の国でも、決して在り得ぬこと。……心残りといえば、それくらいだな」
アガリエ様の娘。いや、それより気がかりなのは、稀代の悪女になると仰せになられたことだ。一体何をお考えなのか。
疑念は膨らむけれど、どうやら今はそれ以上話してくださるおつもりはないらしい。口を閉ざされたアガリエ様を問いただす身分に私はいない。その時まで待つしかないのだろう。
アガリエ様は私のことをどこまでご存知だったのか。
家を取り潰しに追い込み父を破滅に追いやっても、彼や娘が、そして母までもすでに殺されていたことを知り、慟哭しても。彼や娘とともに過ごした家。不審火により焼失したというその家の跡地には、とうの昔に新しい家が建っており、そこに私たち家族以外の、幸せそうに笑う家族が住んでいるのを目の当たりにした時も。
――城へ戻れというアガリエ様の命令を、私は忘れなかった。
アヤ。わたくしにも娘がいる。
その言葉だけが脳裏に残る。
両手が血に塗れ、目の前が真っ暗になって何も考えられなくなっても。
まじないのように。
まるで呪いのように。
私の娘。
私の、娘。
「わたくしも親殺しの罪科を再び、……いや、三度背負おうと思う」
お傍へ戻った私に、アガリエ様は仰った。
わたくしも、ということは、私が父を死に追いやってきたことをすでに耳にしておられるのだろう。
そして私も知っている。
アガリエ様を産むために母妃が命を落としたこと、父王が呪詛されるのを知りながらあえて阻まなかったこと、義理の母である王母様をこれから殺めようとしていることも。
アガリエ様は私が命令に背くなどとは微塵も考えておられない。
よく戻ったと、労う一言もない。
ただ淡々とした口調で計画の詳細が語られてゆく。
それでもかまわない。
私はこの御方のために残りの命すべてを賭けよう。
もう他に、私を必要としてくれるものなど、在りはしないのだから。
東の神女アガリエ様が東からお連れになった。
私は神女としての才覚はないにも等しいけれど、くだんの青年が人ではないことはわかる。
不思議な気配をまとった御方で、色素の薄い双眸はすべてを見透かしているかのように澄んでいて、どこか近寄りがたい。
私は守人クムイとしてお二方にお仕えすることになった。
長く城を離れていたアガリエ様には専属護衛がいなかったこと、なにより神と婚姻を結ばれたことへの祝儀として、王妃様から贈られたのだ。
長年お仕えし、お世話にもなった王妃様の元を離れるのは忍びなかったけれど、これも王妃様の命だ。逆らうことは許されない。
それどころかお二方のお役に立たなければ、王妃様の顔に泥を塗ることにもなってしまう。
アガリエ様は身支度や湯浴み、禊でさえもご自分でなさるため、傍仕えの数は驚くほど少なかった。それでは体裁が保てないこともありましょう――傍仕えの数は、それだけ多くの者を養う財力があるということを示すとして、時には権威を示すものとなる――と上役に進言する者もいたが、四六時中、傍に人の気配があることを神が良しとしないのだと説明があった。
なるほど確かに神は自由奔放で、すぐに石塀を越えてどこかへ行ってしまわれる。
当初の印象とは随分違う御方だった。
さすがに私もあの猫のような魔物の足には遠く及ばない。護衛の面目が丸潰れとなり、同僚たちはとても憤慨していた。神の悋気を畏れて、そのなさりように異を唱えることができた者は、一人としていなかったけれど。
そのためお二方の屋敷に仕える人数は、さらに当初の半分にまで減った。
守人の私が残されたのは、護衛としての能力のほかに、日常的な雑務もこなすことができるからだ。朝早くから屋敷を隅から隅まで掃除し、洗濯を済ませ、時には台所で食事や茶菓子を作って、主の帰宅をただただ待った。
やがて王が身罷り、騒乱の末に王妃様は王母様となられた。
私は変わらずアガリエ様と神のお傍に仕えていた。
あれは、そんなある朝のこと。
朝餉の席に神の姿はなかった。明け方に散歩へ行くと告げたきり、朝餉の時間を迎えても戻ってこなかったので、仕方がないとアガリエ様は――正式にはカーヤカーナ様とお呼びすべきなのだが、ご本人はこの頃もまだ東の神女アガリエの名を使っておられた――お一人で座しておられた。
特に珍しいことではなかった。神は時折そうして姿を消す。
私は台所から一人分の膳を貰い受け、アガリエ様の前に置くと、そこから少しだけ取り分けて租借した。ここでは毒見は私の役目だ。問題がないことを確かめてから、女官がアガリエ様に改めて膳を差し出した。
代り映えのない朝の風景。
そのはずだった。
でもこの日、一口食べて、アガリエ様の箸が止まった。
「そなた、名は何と言う」
視線は私に向けられている。
「アヤと申します」
「アヤか」
「はい」
そう呟いて、アガリエ様は何事もなかったかのように食事を再開された。
アガリエ様は普段傍仕えの名など気にされない。馴染みの者も持たず、用を申し付けるにしてもその時々で傍にいる者を使う。
ただ女官たちが言うには、全員の名は把握されているはずなのだ。ということは私の名を知っていて、その上で問いかけておられたということになる。
そこに意味がないわけがない。
アガリエ様は月神女。この国で一番の神女で、神嫁でもあらせられる御方。
力のある神女は、真の名を使ってまじないをかけることができる。呪うことも。
アヤという名であるかと問われ、是と応じた瞬間、私の魂は真の名によって縛られた。
しがない私の霊力でもそれだけは明確に理解できた。
真綿でそっと心臓の奥を包まれているかのような、不思議な感覚だ。
でも何故なのだろう。
その理由は、数日後にわかった。
人払いをして二人きりになった部屋で向かい合って座す。そうしてアガリエ様の口から直々に申し渡された。
「わたくしに忠誠を誓うなら、恨みを晴らす機会を与えよう」
恨み。
何のことかわからない。
「そなたの娘の父親について調べた。兄と契りを結んだ自覚はなさそうだが、どうだ?」
「……兄?」
「そなたの父は、後継ぎであった己の兄を焼き殺し、遺された兄の妻を娶って家督も継いだ。だが兄の嫡男を取り逃がすとは詰めが甘い。生き延びた嫡男は父の仇を討つため、仇の娘であるそなたに近づいた。手引きしたのはおそらく母御であろう。これは推測だが、夫を殺したのが義理の弟であり、その義弟の謀略にはまって子をなしたことを、母御は息子と再会するまで知らなかったのではなかろうか」
「お待ちください。何を仰せになられているのかわかりかねます。夫の両親はすでに他界していると聞いております」
「そなたの母御と兄は、そなたを利用して家を取り潰しにするつもりだった、と言っている」
「家、を?」
「質問を変えよう。そなたが毒見役を買って出るのは何故だ?」
「危険なお役目は手当てをいただけるからです。娘の病を治すため、どうしても高価な薬を買う必要があるのです」
「先日そなたが毒見をした膳には、毒が盛られていた」
「そんなはずはありません。私が毒見をしたところを、アガリエ様もご覧になられていたはずです」
「そうだ。たしかにそなたは食べた。だが毒に耐性があるそなたの体は、そもそも毒が効かない。よって膳に毒が盛られていてもそなたには気づけない。随分と毒漬けにされているようだが、本当に心当たりはないのか?」
病弱で、薬を手放せなかった幼少期。それでも不思議と彼に会う日は気分が良くなった。会いに来ない父母。元守人だという老婆。屋敷を抜け出して彼と遊ぶようになっても、妊娠が発覚しても、乳母は何も言わず身の回りの世話をしてくれていた。失った味覚のこと。
彼の言葉を思い返す。
信頼していた相手に父母は惨殺された。屋敷には火を放たれ、家人も皆殺しにされた、と言っていた。
「そなたは知らぬであろうから言っておくが、我が国の識字率は決して高くない。つまり文字を読み書きすることができず、文をしたためることができない者が大半だ。特に医術師というものは教養や知識が必要な職務ゆえ、相応の身分でないとなれるものではない。守人クムイにしてもそうだ。まずは後ろ盾とする家が重要視される。我が身を預けるのに、得体の知れない者を雇うわけにはいかないのでな。そなたの実家は中流階級だが後ろ盾とするには申し分ない。だがだからこそ、そなたの振る舞いが家の今後を左右する。膳に盛られた毒でわたくしや、あるいは義母上の身に何かあれば、そなただけではなく、そなたの実家にも咎が及ぶ。母御や兄はそれを待っていたのであろうが、そなたに何も告げなかったことが災いした。義母上に下賜された装飾品を父親に渡したのは、そなたの意志だな?」
「御意。娘の薬代が必要で、他に伝手もございませんでした。……それが、何か?」
もう何年も前の出来事だ。
以来、彼と娘は父の庇護下で暮らしている。
「そなたの父親は、その時はじめて病に伏しているはずのそなたが、あろうことか王城に務めており、上質の装飾品を身に着けるような高貴な主君に仕えていることを知った。そうして母御や兄の企みに気づき、そなたの娘とともに処断した」
「処断……? 娘からは、最近手習いをはじめたと、文が届いたばかりです。夫からも」
「娘に会ったのはいつが最後だ?」
「八年前、城へ上がる前に別れたきり、会うことが叶わず」
城へ上がればなかなか里帰りは許されないが、生涯出ることができないわけではない。
けれど数少ない好機に娘はたびたび体調を崩し、薬代が必要になった。
彼と娘が実家の庇護を受けるようになってからは、心配せずとも元気にやっているからと、父親から里帰りを断られ、結局一度も帰ることができず時だけが過ぎていった。
アヤの知る娘はまだ赤子のまま、彼の腕に抱かれて泣きじゃくる姿のままだ。
もう二度と、娘にも、彼にも会えないなんて。
そんな残酷なことがあるだろうか。
「わたくしの言うことが信用ならないか?」
信じたくない。
でもアガリエの手元にある報告書は、アヤの同僚が作成したものに違いない。身辺調査も守人クムイの仕事の一つ。その仕事の正確さをアヤも知っている。
信じたくないと思うのに、頬を涙が流れ落ちた。
アガリエは立ち上がり、躊躇いなく二人の間にあった距離を詰める。床の上に広げたのは報告書だ。そこに記されていた文字は、彼女の話と寸分違わぬものだった。
「義母上も惨い仕打ちをなさる」
アガリエ様の義母は、王母で、アヤにとっては元雇い主だ。
「義母上はそなたの毒に強い体質をご存知で、わたくしを毒殺するための手駒として利用した。当然そなたの素性も調べているはずだ。それがそなたの娘が殺される前だったのか、それとも後だったかは知らないが」
お優しい、お優しい王母様。
娘の恩人であるあなた様のためなら、どんなことだってしようと誓って、お仕えしてきたのに。
「わたくしの真名はウタだ」
驚きのあまり涙が止まった。
高貴な身分にある姫君が、一介の護衛に真の名を明かすなどありえない。
「どうした。聞こえなかったか?」
「……いえ、その」
「問われれば応じよう。そこに記されたことが事実であると証明するために」
私は神女としての素養がないに等しい。だからいくら真の名を知っていても、私がアガリエ様を呪詛することは不可能だ。
でも口外することはできる。
力ある神女に教え、呪詛をしてもらうことも。
真の名を明かすことはとても危険なことだ。
アガリエ様のように他者から羨望を受ける立場にあれば尚更。
その危険をアガリエ様は犯した。
私のために……?
「ウタ様」
「なんだ」
「畏れながら、しばしお傍を離れることをお許しいただけますでしょうか」
「好きにせよ。ただし手抜かりは許さん。それからこれを」
役に立てば良いが、と言って、アガリエ様は身に着けていた装飾品を全て私に下賜してくださった。
「思うところはあるだろうが、義母上のことはわたくしの預かりにさせてもらう。まだ生きていてもらわねば困るのでな」
混乱していて、正直なところ王母様に対してどのような感情を持っているのか、自分でもよくわからない。今はとにかく実家へ戻り、事の真相を確かめたかった。私は首肯した。
下がろうとした私に、アガリエ様は意外なことを仰せになった。
「アヤ。わたくしにも娘がいる」
初耳だ。
アガリエ様は静かに微笑まれた。私がはじめて見るアガリエ様の心からの笑みだった。
「わたくしはこれから稀代の悪女になる予定だ。ゆえにわたくしがあの子に会うことは今生でも、常夜の国でも、決して在り得ぬこと。……心残りといえば、それくらいだな」
アガリエ様の娘。いや、それより気がかりなのは、稀代の悪女になると仰せになられたことだ。一体何をお考えなのか。
疑念は膨らむけれど、どうやら今はそれ以上話してくださるおつもりはないらしい。口を閉ざされたアガリエ様を問いただす身分に私はいない。その時まで待つしかないのだろう。
アガリエ様は私のことをどこまでご存知だったのか。
家を取り潰しに追い込み父を破滅に追いやっても、彼や娘が、そして母までもすでに殺されていたことを知り、慟哭しても。彼や娘とともに過ごした家。不審火により焼失したというその家の跡地には、とうの昔に新しい家が建っており、そこに私たち家族以外の、幸せそうに笑う家族が住んでいるのを目の当たりにした時も。
――城へ戻れというアガリエ様の命令を、私は忘れなかった。
アヤ。わたくしにも娘がいる。
その言葉だけが脳裏に残る。
両手が血に塗れ、目の前が真っ暗になって何も考えられなくなっても。
まじないのように。
まるで呪いのように。
私の娘。
私の、娘。
「わたくしも親殺しの罪科を再び、……いや、三度背負おうと思う」
お傍へ戻った私に、アガリエ様は仰った。
わたくしも、ということは、私が父を死に追いやってきたことをすでに耳にしておられるのだろう。
そして私も知っている。
アガリエ様を産むために母妃が命を落としたこと、父王が呪詛されるのを知りながらあえて阻まなかったこと、義理の母である王母様をこれから殺めようとしていることも。
アガリエ様は私が命令に背くなどとは微塵も考えておられない。
よく戻ったと、労う一言もない。
ただ淡々とした口調で計画の詳細が語られてゆく。
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諸国を旅するのを生き甲斐としながらも、その実態は、酒と女が好きで、いつかは楽して暮らしたいと願う、どこにでもいる平凡なオッサンだ。
そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。
捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。
腕には、守るべきメイドの少女。
眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。
―――それは、ただの不運な落下のはずだった。
崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。
その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。
死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。
だが、その力の代償は、あまりにも大きい。
彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”――
つまり平和で自堕落な生活そのものだった。
これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、
守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、
いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。
―――その勘違いと優しさが、やがて世界を揺るがす。
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