平成犬形男子と昭和猫形喪女の狭間で起きた恋愛バトル

香穂

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13 はじめてってやばい

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 やばい。


 庇護欲か保護欲か、いやむしろ母性本能だったのかもしれない。


 とにかく、がちでやばいー!


 董子さんを抱きしめてしまった。

 董子さんを抱きしめてしまった。


 やばい。
 動揺して二回言った。
 董子さんを抱きしめてしまった!
 やわらかかった!


 落ち着け、俺。
 このままだとただの変態後輩だ。
 董子さんは変態が嫌いだ。へらへらした男も嫌いだ。原さんみたいに頼りになる大人の男が好きなはず。
 とにかく落ち着け。
 董子さんの家まではなんとか着いた。まさかの入口脇の一階に大家さんが住んでいる、ちょっと変わったところだった。大きめの戸建てをアパートに改築したようで、郵便受けから察するに全部で六部屋しかない。
 車を路駐するかどうか迷ってた俺に、掃除中の大家のおばあちゃんが何事かと話かけてきて、事情を説明したら、特別に玄関前に停めてもいいと許可してくれた。おばあちゃんマジで神。


「最近は調子良さそうにしてたのにねえ」
「以前にも似たようなことがあったんですか?」
「そうだね。あんまり体が丈夫なほうじゃないみたいだよ。でもこの子が救急車呼ぶほどじゃないって言ったんなら、そうなんだろう。寝かせておいてやって」


 階段を上がる。
 本当はお姫さま抱っこというやつをしてみたかった。
 しかし現実は甘くない。
 俺の腕力が足りなかったし、何より董子さんは最後の力を振り絞って断固拒否した。おんぶも拒否された。
 現実は世知辛い。
 俺はヒーローになりそこねた。
 廊下を進むと、楠ノ宮の表札はすぐに見つかった。董子さんのバッグをあさり、鍵を拝借する。


 扉の向こうは、大人の女性の空間だった。


 白と黒、あとはグレーでまとめられた部屋。クールかつシンプルモダンだ。
 ふと、なんだか変だなと感じた。なんだろう。
 玄関には靴が一つもない。
 室内は玄関近くに水回り、その奥にダイニング兼リビング、このパターンだと引違い戸の向こうが寝室だ。
 すでに意識が朦朧としている董子さんの靴を脱がせて進む。
 引違い戸を開けるとベッドがあった。
 だが何故だ。
 何故ベッドに布団が無いのか。枕も無い。掛け布団も無い。
 なんだこのベッドは!
 とにかく董子さんを早く横にしてあげないと。
 剥き出しのマットレスの上に董子さんを寝かせ、隣の部屋に戻る。
 あった。何故かソファの上に掛け布団と枕がきっちりそろえてあった。
 それを手にして戻り、董子さんにかける。
 これでよし。
 あとはベルトやら下着のホックやらを緩めてあげたいところだが、さすがにレッドカードか。
 でも緊急事態だし、許してくれるかも。


「ありがとう。あとは大丈夫。もう帰って」


 弱々しい声。
 董子さんはかすかに目を開けて、そしてまた閉じた。
 下心を見透かされたのかと思ってびっくりした。やばいやばい。
 カーテンを引いて、念のために枕元にスマホを置く。
 ミッションクリア。
 あとは董子さんが起きた時、俺の勇姿を覚えててくれたらラッキーなんだけど、そこはだいぶあやしい。


 デートの誘い方を変えてみた。
 董子さんは最近、俺に冷たい。
 たぶん、俺のカノジョできました発言あたりから、急に態度がよそよそしくなった。
 とにかく冷たい。
 笑顔も硬い。
 横峯にはコーヒーをおごってあげるのに、俺にはない。横峯のドヤ顔がまじでムカつく。
 でも今日は、ちょっと違った。
 俺を見て笑ってくれたし、婚約者だって、嘘だけど、婚約者だって、婚約者だって言ってくれた。いくらなんでも嫌いなやつを婚約者とは言わないだろう。
 そしたら距離を縮めてみたくなった。
 遠回しに誘っても董子さんはオッケーしてくれない。だから董子さんマイスターの横峯がやってたみたいに、ストレートに誘ったら、ついにいいよって言ってくれた。
 横峯はまじで神だ。
 ていうか、董子さんは本当に、本気で、俺が誘ってることに気づいてなかったのか?
 これまでも?
 董子さんて、そんなに鈍かったっけ?
 でも、あの驚いた顔。そんな感じだった。
 俺のデートの誘い方は、そんなにマニアックだったか?


「ていうかこの部屋、本気で何もないな…」


 ソファやベッドなど、リネン系は白。家具は黒かグレー。素材はアイアンやガラスが多い。廊下脇にあったミニキッチンも、調理道具は白と黒で統一されていた。
 壁には黒いフレームがいくつも飾られている。そのどれもが風景写真。見ると、見覚えがあった。サクラダファミリア、ベルサイユ宮殿、万里の長城、カッパドキア、タージ・マハル、世界遺産が好きなんだろうか。
 テレビボードには、フレグランス系の小物。
 チェストの上には本。
 室内に観葉植物は見当たらないが、たしかハーブを育ててたはずだ。そんな話を聞いたことがある。ハーブティーを飲むのだと。寝室の奥がベランダだろうから、きっとプランターはそこだろう。


 違和感の正体に、近づいている気がする。
 他人の気配がまるでない。
 嘘だろ?
 まじか。がちで。そんな馬鹿な。
 フォトフレームを一枚ずつ確認するが、人物写真は一枚もない。カップボードの中に几帳面に並べられたコップはどれも形や色が違う。玄関収納には仕事用のパンプスが三足だけ。あとは今日はいていたスニーカー。他にはスリッパさえない。
 勢い余って洗面所も見た。バスタオルは棚にあるだけで二枚。フェイスタオルは五枚。
 洗面台に並ぶのは女性ものの洗顔用品。そして歯ブラシは一本だけ。
 

 男の気配がないのは喜ぶべきだ。
 でもこれは、やっぱりちょっとおかしくないか?
 来客をもてなすつもりが、まったく感じられない。
 男がいなくたって、友達や家族が遊びに来ることくらいあるだろう。
 それなのにスリッパもなければ、あれだけ写真が飾ってあるのに、誰かと一緒に撮った写真は一枚もない。
 この部屋には、董子さん以外の気配が感じられない。
 あるべき無駄なものが、まるでない。
 董子さんは一体どういう生活をしているんだろう。
 

 思い返せば、董子さんが友達の話をしたことはない。
 

 謎だ。
 俺は、本当に董子さんのことを何も知らないんだと、改めて思い知らされた。


 もし。
 もしも。
 俺が帰った後、具合が悪くなったりしたら、董子さんはスマホで誰に連絡を取るんだろう。
 董子さんには、頼れる人がいるんだろうか。


 ふと見たキッチンの洗いかごに、種類が違う皿が三枚並んでいた。


 三枚?


 そういえば婚約者発言で動揺して聞き流していたけど、誰か、何か、おかしなことを言ってなかったか?


 原夫婦が喧嘩をしたのは昨日。
 原さんが今朝、俺に電話してきたのは午前七時半。
 董子さんが、原さんから事情を聞いて、愛鈴を預かったのはどのタイミングだ?

 今朝、もしくは昨夜?


 社内に浮気相手が。
 ベッドリネンが剥がされたベッド。


 いやいやいや待て待て俺!
 董子さんに限ってそんな馬鹿なことはしない。
 いやでも、浮気は嫌だって言ってた。あれが自分の経験則からきてた発言だったとしたら。原さんと仲が良いのは知ってる。でも二人はただの同僚だって言ってたし。でも董子さんが倒れた理由が本妻との直接対決だったからだとしたら。


 ああああああもう!


 落ち着け、俺!
 きっとたぶん全然違うから!
 不倫の証拠を隠滅するために、毎日部屋を掃除する董子さんなんて、想像できない。その手伝いをさせるために俺を巻き込んだとか、もっと想像できない。
 そうだ。
 そうそう。俺を巻き込んだ時点で、二人は白だ。不倫のゴタゴタに後輩を巻き込むような人たちじゃない。


 なんだ。
 そうか。
 がちで焦ったー。やばー。


 疲労感が半端ない。
 でも俺の早とちりで良かった。やれやれ。
 となれば、残る問題は。


 董子さんが目を覚ました時、何があれば喜ぶかな。


 冷蔵庫を開ける。
 作りおき惣菜を入れたタッパーが4つ。あとは卵。牛乳。レタスが半玉。なんだか体に良さそうな赤とか黒が混ざった米。味噌と醤油。以上。
 なに食って生きてんだ、董子さんは。
 炊飯器がないのは話に聞いていた。米が炊ける鍋を買った時に、邪魔だから処分したらしい。
 たぶん、洗いかごで乾かしてある黒い鍋のことだ。蓋に掘ってある名前をネット検索したら、すぐに出てきた。有名なものらしい。
 なかなかチャレンジしがいのある内容だ。


 外に出て、部屋の鍵を締める。
 これでよし。


 階段を降りると、大家のおばあちゃんはまだそこで庭掃除をしていた。


「楠ノ宮さん、様子はどう?」
「寝てます。ご心配おかけしました」
「いいのよ。私はこれがお仕事だから」
「ところで、この近くに楠ノ宮さんの友達とか、知り合いとか、住んでたりしませんか?」
「友達? 見たことないわねえ。普段から誰かを家に呼んで騒いだりとか、するような子じゃないからねえ。引っ越しの時は、お母さんが田舎から出てきて手伝ってたようだけど」
「そうですか」
「あなたは? どういう関係なの?」
「俺はただの会社の同僚です」
「そうだったの。一人の時に倒れたんじゃなくて、本当に良かったわ」


 ありがとうね、と大家さんは笑う。
 もし董子さんが誰かに助けを求めるとして、それがこの大家のおばあちゃんなのだとしたら、なんだかとっても複雑だ。
 でもきっとたぶん、そうなんだろう。
 だから董子さんはここに住んでいる。


 庭先を黒猫が通る。
 おばあちゃんは顔見知りらしい。くろちゃん、と笑いかけていたけど、黒猫のほうはすまし顔で去っていった。
 まるで、誰かさんそっくりだ。


 運転席に乗り込み、エンジンをかける。


 俺は、大家のおばあちゃんには負けたくない。
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