平成犬形男子と昭和猫形喪女の狭間で起きた恋愛バトル

香穂

文字の大きさ
14 / 17

14 カルビはもう食べれません

しおりを挟む
 人は産まれたその瞬間から、死に向かって生きていく生き物らしい。だとしたら私は、猫のようにしなやかに、ひっそりとした最期を迎えたい。


 目が覚めると自室だった。
 倒れたのは久しぶりだ。

 佐倉くんがご飯を食べたいと言った。迷惑をかけたんだから、おごるつもりでいた。
 なのに駐車場に着いて、車から降りた瞬間、目の前が青くなって赤くなって、暗くなった。
 私のこの症状は、貧血とは、少し違う。
 明確な原因は今なおわからない。
 精神的なものだと医者は言うが、私としてはさほどストレスを溜めているつもりもなく、突然こうして倒れることのほうが、よほどストレスなのだが。
 忌々しい。
 かといって、どうすることもできない。
 原因がわかれば、こんなにもやもやした気持ちでいることもないだろうに。
 恋愛だってそうだ。
 これが正解だって決まっていれば、こんなに悩むこともない。
 恋愛の仕方は誰も教えてくれない。正解もない。なんて、酷すぎる。そんな面倒なものを、なぜみんな自分で好んでするのか。私からすれば絶対に触れたくない分野だ。だからこれまでも避けてきた。それなのに。 


 上半身をゆっくり起こす。
 眩暈はない。吐き気はまだ残っているが、実際嘔吐することはほとんどない。それは過去の経験からしてわかっている。
 服を脱ぎ、部屋着にしているワンピースに着替える。
 隣の部屋はいつものように静寂に満ちていた。
 佐倉くんは、ちゃんと帰ったようだ。
 良かった。
 カップボードから常温水のペットボトルを取り出して、少しずつ胃に流し込む。
 なんとか、洗濯機を回すくらいはできそうだ。
 風呂場から水に浸かっていたベッドリネンを引っ張り出して、服もろとも洗濯機に突っ込む。本当はおねしょの痕跡を確認してから洗いたかったが、今はこれが精一杯だ。
 洗剤を投入し、スタートボタンを押す。
 これでよし。洗い終わりまで約一時間。
 隣の洗面台でメイクを落とす。顔を洗って、歯磨きをすると少しさっぱりした。
 倒れた時に薬は飲んだ。おそらくあれから二時間は経過している。徐々に効果が出てきているのかもしれない。
 だとしたら後できることは、洗濯が終わるまで横になっておくことだけだ。
 ソファに座って、何をするでもなく部屋を見渡す。
 あとは、何を片すんだったか。
 愛鈴ちゃんが汚したベッドリネンは洗った。食器も洗った。駄目にした朝食も捨てたし。ああ、そういえば愛鈴ちゃんのピンクのリュックがまだベランダにある。洗って、干してたんだった。そういえばおねしょで汚した愛鈴ちゃんのパンツも洗濯機の中だ。乾いたら返してあげないと。


 なんだか、寂しい。


 あんなに大変だったのに、私には何も残っていない。
 でも私以外のみんなは今、家族や恋人と過ごしてるんだなって考えると、妙に切なくなった。
 私は今日もまた、ひとり。
 お母さんごっこなんて、婚約者ごっこなんて、するんじゃなかった。
 自分で選んだ道。もう引き返せない。なのに他の誰かの人生に触れる時、どうしようもなく動揺する自分がいる。


 洗濯機がごうんごうんと音を立てる。
 がちゃり。


 …がちゃり?


 いつの間にかうたた寝していたらしい。
 重い頭を起こすと、玄関に人影が見えた。


「董子さん、何してんすか!」
 

 佐倉くんだ。
 なんで?


「あああ、無理に起き上がらなくていいから!」
「でも…」
「いいから!」


 強い口調で言われて、びっくりした。
 職場では私が先輩だから、佐倉くんにそんな風に言われることなんてない。
 しぶしぶソファに寝転がる。
 佐倉くんは迷うことなく寝室へ行き、枕と布団を持ってきて肩からかけてくれた。


「顔色はだいぶマシになったけど、気分は?」
「大丈夫」
「うん。董子さんの大丈夫は信用ならないんだった。すぐご飯できるから、ちょっと待ってて」
「ご飯?」
「栄養取ったほうが良さそうだったから。まぁ、鍋でご飯を炊ける自信がなかったから、米はレトルトなんだけど」


 佐倉くんは玄関に放り出していた買い物袋からレトルトのお米を取り出し、慣れた様子で電子レンジに入れると、続いてアイスやプリン、ゼリーなんかを取り出して、冷蔵庫の隙間につめこみはじめた。
 あの子は一体何をしてるんだろう。
 こんな、私なんかの部屋で。
 本当に良い子だ。
 新しい恋人が早く見つかるといい。
 結婚します運命の恋だったんですこどもができたんですと言えるような可愛い女の子に。早く。


 お米の匂い。
 卵を割る音。混ぜる音。
 お味噌と、梅干しの酸味。
 くつくつと煮込む。
 お粥かな。


「できましたよ。起きれますか?」


 起きれる。
 でも食べられる気がしない。
 スプーンを手に取ることもできない私に、佐倉くんはじゃあこれは、ともう一度キッチンへ引っ込んでから、小皿を持ってきて、お茶碗から半分だけそこに移した。
 それでも食べられずにいると、今度はスプーンにひとくちだけ。
 ひとくち。
 それがどれだけ辛い作業なのか、佐倉くんにはきっとわからない。


「無理ですか?」
「食べたら、吐くと思う」
「吐いてもいいですよ」
「でも」
「大丈夫ですから」
「でも」


 迷惑かけたくない。
 でもせっかくの好意を無駄にしたくない。


「董子さん覚えてますか? 俺が新人の頃、飲み会で酔っ払って、自分のジャケットに赤ワインこぼしちゃったこと。董子さん、めっちゃ怒ってたけど、染み抜きまでしてくれたじゃないですか。はじめて案件でクレーム起こした時は、色々アドバイスくれたり。デスクが汚かったら掃除してくれたり。誰かの面倒見るのは迷惑だって思ってないのに、自分は迷惑をかけてるって?」 
 

 そうかも。


「俺だって、迷惑だなんて思ってないですよ」


 そうなの、かな。


 スプーンを手に取り、口に運ぶ。
 咀嚼に驚くほど時間がかかった。
 佐倉くんはそれを見て冷蔵庫から飲み物を取り出した。栄養ドリンク、コーヒー、炭酸水、水。迷うことなくコーヒーに手を伸ばして、その苦味でお粥の味をかき消した。


「まずかった?」


 そうじゃない。
 ただ、食べ物を摂取する行為がつらい。ペットボトルのコーヒーの安定した苦味くらいがちょうどいい。
 その苦味も水を飲んで流す。
 疲れた。
 気づけばソファに横になっていた。
 キッチンから後片付けをする音。せっかく作ってくれたのに申し訳ない。


 ごめんね。
 

「いつから体調悪かったんですか?」


 佐倉くんと目が合う。
 怒ってる?


「倒れた時」
「倒れた時? 俺が飯食いたいって言った時、無理してたとかじゃなくて?」
「うん。急に。いつも、倒れる時はそんな感じ」
「いつも? そんな何度も倒れるんですか? 俺、元気な董子さんしか知らないんすけど」


 だって、私が事務所で暗い顔をしていたら、佐倉くんたちは気疲れするだろう。そういう年齢だ。


「次からは言ってくださいね」
「大丈夫」
「全然信用ならないなあ。薬とか飲まなくていいんですか?」
「寝る前に飲んだから、もうちょっと様子見。もう大丈夫だから、本当に帰っていいよ」
「了解です。はい、もう寝てください。それとも俺の気配があったら気になりますか?」
「わかんない」


 だって、寝るときに、男の人が傍にいるなんて、ほとんどはじめてだから。


「おやすみなさい」


 うん。
 おやすみなさい。


 その日は久しぶりにぐっすり眠れた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

迷子を助けたら生徒会長の婚約者兼女の子のパパになったけど別れたはずの彼女もなぜか近づいてくる

九戸政景
恋愛
新年に初詣に来た父川冬矢は、迷子になっていた頼母木茉莉を助け、従姉妹の田母神真夏と知り合う。その後、真夏と再会した冬矢は真夏の婚約者兼茉莉の父親になってほしいと頼まれる。 ※こちらは、カクヨムやエブリスタでも公開している作品です。

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

それは、ホントに不可抗力で。

樹沙都
恋愛
これ以上他人に振り回されるのはまっぴらごめんと一大決意。人生における全ての無駄を排除し、おひとりさまを謳歌する歩夢の前に、ひとりの男が立ちはだかった。 「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」 その婚姻は、天の啓示か、はたまた……ついうっかり、か。 恋に仕事に人間関係にと翻弄されるお人好しオンナ関口歩夢と腹黒大魔王小林尊の攻防戦。 まさにいま、開始のゴングが鳴った。 まあね、所詮、人生は不可抗力でできている。わけよ。とほほっ。

イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。

楠ノ木雫
恋愛
 蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……

溺婚

明日葉
恋愛
 香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。  以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。  イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。 「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。  何がどうしてこうなった?  平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

好きな人の好きな人

ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。" 初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。 恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。 そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。

処理中です...