平成犬形男子と昭和猫形喪女の狭間で起きた恋愛バトル

香穂

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15 想定外の証人

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 口止め料はイチゴアイスと相場は決まっている。


 夜も弱いが、朝にも弱い。
 だからスマホのアラームはまず午前四時から鳴り始める。つぎは四時半。五時。五時半。六時で今までとは違う音が鳴り、ここでようやく起きる。
 ところが六時のアラームより早く、メッセージの着信音がした。
 こんな朝早くに?
 夢うつつでごろごろしていた意識に入ってきた音。非常事態だろうか。だとしたら両親かもしれない。孫をと望む両親も、ひ孫をと望む祖父母ももう若くない。何かあったのかも。
 上半身を起こしてスマホを手に取る。


 おはようございます
 今日は仕事に行きますか?


 まさかの佐倉くんだった。


 朝だ。そして昨日は佐倉くんにお世話になった。私がご飯を食べて寝た後、いつまでこの部屋にいたのか知らないが、夕方に目を覚ました時、すでに彼は帰った後だった。


 おはよう
 行くつもりです


 すると、すぐに返信がきた。


 七時半に車で迎えに行きます

 迎え?

 電車乗るの、しんどいんじゃないですか?

 大丈夫

 でももう準備しちゃったんで。じゃあ、またあとで


 そこで連絡は途切れた。


 …迎え?
 あの子の目の前で倒れたから、責任を感じてしまったのだろうか。悪いことをした。
 とにかく来るものは来る。仕方ない。


「本当に来たの」
「アポの時間ぴったりですよ」
「さすが営業の鑑。はい、コーヒー。ペットボトルで申し訳ないけど」


 ほめると嬉しそうに笑う。しっぽがあればぶんぶんに振っているところだろう。


「おはよう、楠ノ宮さん。昨日は大変だったみたいだけど、大丈夫?」
「大家さん、おはようございます。なんとか大丈夫そうです」


 大家さんは早起きだ。
 にっこり笑って、とんでもないことを言う。


「良い人がいて、よかったねえ」


 この良い人のカテゴリーが何なのかは、曖昧にしておくのがベストだ。
 お付き合いしている人がいるの結婚はするのしないの結婚式はいつなの妊娠はしたのか否かこどもの予定はいつなのか。
 うんざりする一連の質問をされると、私としては居心地が悪くなる。付かず離れずの程よい干渉具合が大家さんの魅力だ。
 たとえ私があの部屋に引っ越してきて、一度も友人を招いたことがなくても、男の影ひとつなくても、表札の苗字が変わらなくても、放っておいてほしい。
 でもここで全力否定するとかえって怪しい。
 私も独り身が長い。ここはうまくはぐらかしておくべきだと理解している。
 だから私は、そうですね、では、と軽く会釈して、さっさと車に乗り込んだ。
 こういう時は、その場からさっさと離れるのが得策だ。
 佐倉くんは慣れた手つきでハンドルを切る。


「昨日はありがとう。助かった。ゼリーとか色々買ってきてくれた分、ちゃんと払うから、いくらだったか教えてね」
「いいですよ、それくらい」
「でも」
「あ、じゃあ、体調が戻ったら、ご飯行きましょう。おごってください」
「それじゃいつになるかわかんないから」
「いつでもいいですよ」


 二十代は健康をあまく考えすぎだ。
 私の回復を待っていたら、きっと季節が変わる。
 膝に置いていたピンクのリュックがまぶしい。
 こどもの成長は早いらしい。きっとその頃、愛鈴ちゃんはもっとしゃべれるようになって、活発に動き回ってることだろう。私の成長はこんなにも緩やかなのに。うらやましい。


「なんですか、そのリュック」
「愛鈴ちゃんの忘れ物。乾いてよかった」
「でも今日、原さん休みですよ」
「うん。昨日連絡あった。さすがに休むって。佐倉くんにも迷惑かけて、ごめんって謝ってたよ」
「まあ、俺は特に何もしてませんからね。ところで昨日の」
「あ、途中でコンビニ寄ってくれる?」


 あえて話を遮った。
 昨日の婚約者話のことには触れられたくない。
 佐倉くんは、了解です、とだけ言って、それ以上は何も追求してこなかった。


 いつもより早く着いた事務所は、まだ誰もいなかった。よかった。二人で出勤なんて、変な噂が立ったら困る。
 そう胸を撫で下ろしていた矢先、横峯が出社してきた。


「珍しいー。佐倉さんがこんなに早く出社してるなんてー」
「俺だってたまには早く来るんだよ」
「今日は矢が降りますねー。楠ノ宮さんは、体調大丈夫なんですか?」


 昨日は体調不良ということで急遽休みを取ったのだ。
 それがまさか本当に倒れることになろうとは。


「なんとか。ごめんね、急に休んで。いま作業はどんな感じ?」
「急ぎのは私が代わりに対応しといたので、問題ないと思うんですけど、ここと、ここは、今日早めに連絡が欲しいそうです。こっちの資料は楠ノ宮さんの確認待ちです」


 横峯を育てておいて本当に良かった。
 それに、横峯が来てくれたおかげで、佐倉くんと二人きりで話をする時間もなくなった。
 二人でいるのは、嬉しいけど、疲れる。
 何を話せば笑ってくれるかなとか、いま何を考えてるんだろうとか、佐倉くんの目に映る自分はどう見えてるのだろうかとか、やっぱり気になってしまうから。


 仕事を処理していくうちに、だんだんと気持ちがオンへと切り替わる。
 一枚一枚書類を確認し、処理してゆく。そうしていると、みんなが出社する頃には、いつとの仕事モードになれた。
 仕事はいい。
 自分のすべきことが明確だ。だから熱中していられる。
 午前中はいつも何かと忙しい。
 そうこうするうちに、気づけばそろそろ正午。


「戻りましたー」
「おかえりなさい」


 佐倉くんが帰社して、まっすぐに自分のデスクに向かった。


「楠ノ宮さん、今日お昼はどうするんですか?」
「私は今日は調子戻ってないから食べない。横峯、行けそうならお昼行ってきて」
「はーい。佐倉さん、何か買ってきましょうか?」
「…じゃあ、なんか適当に。ラリちゃんのおすすめで」
「ラリ言うな。キラリです、横峯キラリ!」


 給湯室に向かう背中はなんだか寂しげだ。外回りで疲れたのだろうか。


「あ、原さーん。どうしたんですかー?」


 横峯の声につられて顔を上げる。
 なんと事務所の入口に原さんが立っていた。
 その腕に愛鈴ちゃんを抱いている。
 なぜか原さんは弱りきった顔をしていて、愛鈴ちゃんは泣きじゃくってぐちゃぐちゃな顔をしていた。


「みんな、今日は急に休んで本当にごめんな。奥さんは病院連れてったから、とりあえずは大丈夫だから」


 奥さんの具合が悪く、愛鈴ちゃんの面倒を見ないといけなくなったという理由で、原さんは今日休みを取っていた。
 とはいえ自分の仕事が気になるらしく、デスクの上の書類をパラパラとチェックしている。


「原さん、どうしたんですか? なにか急ぎの仕事でもあったんですか?」
「いや、愛鈴がどうしても董子さんに会いたいって言って聞かなくて。朝から泣きっぱなしで、もう本当に勘弁してほしいよ。ほら、愛鈴。董子さんだよー」


 本当に会いたいと言っていたのだろうか。
 愛鈴ちゃんは、私の顔を見ようとしない。
 なんだ。どうした。私はこの場合、どうすれば。


「あ、そうだ。愛鈴ちゃん、これ忘れ物!」


 デスクに保管してあった愛鈴ちゃんのピンクのリュックを取り出す。


「ちゃんと洗っておいたから、まだ使えると思うよ」
「愛鈴、こういう時はなんて言うんだっけ?」


 愛鈴ちゃんはようやく顔を上げ、自分のリュックを見るなり泣き止んだ。
 久々に再会した親友かのように、大事そうにその腕に抱き締める。


「こんなくさ」


 こんなくさ?


「あっれー、原さん? 愛鈴ちゃんもいるじゃんか。どうしたんですか?」


 こんなくさ、に嫌な予感がした。
 振り向くと、佐倉くんが給湯室から戻ってくるところだった。
 まずい。
 これは、ひじょうに、まずい。


 愛鈴ちゃんは、とっておきの笑顔で叫んだ。


「こんやくしゃ!」
「婚約者? 愛鈴、そんな言葉どこで覚えたんだ?」
「とうこちゃんの、こんなくさ!」




 時が止まった。
 そんな気がした。




 口止めを、しておくべきだったのは、まさかのこの愛くるしい三歳児だったとは。




 原さんはもちろん全社員の視線が私に集まる。
 いや、私と佐倉くんに。


「えー? 楠ノ宮さんと佐倉さんて、そういう関係だったんですかー?」


 横峯、声がでかい。


 とりあえず、
 穴があったら入って、
 そのまま別の出口から出て、
 別の人生を歩んでいけたらどんなにいいか。


「こんやくしゃー!」
 


 もはや絶望しかない。
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