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八章 シュエット・ミリーレデルの失恋

107 傾いた天秤②

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 シュエットが地に沈みそうなくらい深いため息を吐くと、目の前にスッと手を差し出された。

 白い手袋をはめた、男の人の手だ。

 エナメルの靴に、ミッドナイトブルーのジャケットも目に映る。

 見上げれば、焦りを顔ににじませたエリオットが、シュエットを見下ろしていた。

「ごめん、シュエット」

 綺麗なアーチ型の眉が、申し訳なさそうにヘニャリとしている。

 走ってきたのだろう。エリオットの息は乱れ、呼吸するたびに肩が上下していた。

「エリオット」

「待たせて、ごめん。でも、あの……」

 差し出された手が、わずかに下がる。

 シュエットを待たせてしまったから、もうダンスに誘う資格なんてないと思っていそうだ。

(むしろ、私の方にその資格がないというのにね)

 エリオットの頭上に、ションボリと下がった猫耳が見えるようだ。

 今日の彼の髪は、いつもと違ってちゃんとセットされているのに。

 言い淀むエリオットに、気づけばシュエットは「怒っていないから」と返していた。

(駄目なのに。ここはちゃんとお断りして、帰らなきゃいけない場面なのに)

 シュエットがそんなことを考えているとも知らず、エリオットの表情がパッと明るくなる。

 下げかけて宙に浮いていた手が、再びシュエットへ差し出された。

「一曲お相手いただけますか?」

 シュエットが拒絶するとは微塵も思っていない。

 とろけるほどに甘く微笑みながら見つめてくるエリオットに、

(……その顔は、ずるい)

 真正面から偽りなく愛情を向けられて、拒否できるほどシュエットは大人じゃない。

 相手のためとか、自分のためとか、いろんな考えをすべてを放り出す。

 ただ、本能のままに。

(エリオットがほしい。エリオットと一緒にいたい。たとえつかの間の夢でも良いから……!)

 これで、最後にするから。

 エリオットにする、最後のわがままにするから。

 そう、言い聞かせて。

「……ええ、喜んで」

 じわりと涙が滲む。

 嬉しくて泣いているのだと勘違いしてくれたら良い。

 別れを惜しんで泣いているのだと、今は知られたくない。

 シュエットは笑顔で、差し出されていた手のひらに自分の指を乗せた。

 確かめるように握られた手は、まるで大事に守られているようで余計にたまらなくなる。

 思わずヒュッと息を飲むシュエットの腰を、エリオットが支えた。

「緊張している?」

「大丈夫。エリオットがリードしてくれるのでしょう?」

「もちろん。今日はお姫様みたいな気分にさせてあげるから」

「それは楽しみね」

 迫り上がってくる涙を振り切るように、シュエットはエリオットに体を寄せる。

 鼻の奥がツンと痛んだが、彼女は気づかないふりをした。
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