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第六帖 忍道
6-2 師弟
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◆◇
「知らぬ」
藤林翁の答えは、短かった。
男との勝負のあと、まっすぐ師の庵に行った菊羽は、共に暮らしていた頃と変わらない生活を送っていた白翁にこのことを伝え、男の素性に心当たりはないか、また自分の技が通用したことを話したのだった。
庵に着いたのは昼過ぎで、師はまだ眠っていた。
件の書を編纂しながら寝てしまった様子だった。
その師に布をかけて待とうかとしたところで白翁は起きて、菊羽に水を汲んでこさせた。
菊羽はいくぶんか術も使って、すぐに水を用意した。
水を操る術は、ここで藤林翁に教わったものだった。
無から――水のないところから生み出すのは至難のわざだが、さきほどは幸い朝露の水気の多い場所であったこともあり、修行で得た技を扱うことができた――そのことを師に言う時の菊羽は嬉しさの滲む調子になっていた。
白翁はわずかに肩をすくめて、続ける。
「関わっていたのじゃろうが、そんなものいちいち覚えておらん。もっともその風の術や、躯を飾るすべ、というのはなかなか面白そうではあるが、な」
「けっこうな使い手でしたよ。それにあの趣向はちょっと私は……」
師の言葉にやや呆れた声を返しながら、菊羽は師に持っていた二巻の書を差し出した。
ここに来るまでの山道で着直した小袖も、町娘ふうに結った髪も、そのままだった。
「役立ったか」
「おそれいります」
菊羽はそう言って、頭を下げた。
ほっ、と白翁は笑声をあげて、液体の入った椀を出しつつ弟子を促した。
「よう戻った。体を休めつつ、これまでのこと話してくれ」
もう一度菊羽は礼をして、椀を取った。
多めにひと口飲んで、咳き込む。
「さ――酒じゃないですかっ」
「役目も果たした、こうして書も無事に返した、じゅうぶん一人前に務めたのじゃ。祝杯のひとつくらいあげてもよかろう」
菊羽は目を丸くして「あ――ありがたきお言葉っ!」と椀を置いた。
「よいよい」
師はまた笑う。
「若い娘が儂を忘れず戻ってくるだけで、喜ばしいことじゃ」
「娘では――」
そう言いつつ、菊羽の目には以前ほど抗う色は強くなくなっていた。
「それで、よい肴になるくらいの土産話はあるのじゃろうな」
菊羽が頷く。
白く濁った、甘味の勝っている酒を、あらためて恐る恐る舐めるように飲みながら、菊羽は口を開いた。
「帰国してすぐ、私は妹姫さまに仕えることとなりました――」
話し終えた頃には、陽はすっかり傾いていた。
菊羽の師は、実に満足げに歯を見せていた。
「大勢は掴んでおったが、そのような面白いことになっておったとは。おぬしと姫との契り、師として立ち会うて見届けねばならなかったか」
「そんなことは……師といえど、あれはふたりだけの秘めごとゆえ」
声をあげて白翁が笑う。
「若い娘ふたりのこととは、実に佳い話であった」
分け合って――大半は師の腑に収まったが――呑んでいた酒は、ほぼ空になっていた。
「――して」
すう、と白翁が声を鎮めた。
「ただあれを届けるためだけに、結んだ姫と別れてきたのではあるまい」
積んだ束の上に無造作に置いた、菊羽から返ってきた書を示す。
菊羽が息を呑む。
目尻から頬にかけてほんのりと赤くなっており、視線も浮いていたが、その言葉にふらついていた姿勢を正した。
「あ――あの」
やや、ろれつが回っていなかった。
頭を振る。
菊羽にとって、初めての酒であった。
ほほ、と酒熱を帯びた笑声をこぼして白翁が弟子に近寄る。
「おなごの酔うさまは憂いの」
「からかわ……ないで、ください。わたしは、おなごでは……」
ふらついた菊羽は、師に抱きかかえられる格好になっていた。
「この体でまだ言うか。酔うてさらに女の匂いを醸しておるではないか。
――菊羽。高須か、甲賀へ行くために、ここへ戻ったな」
「あ……っ」
吐息のように頷う弟子に、師はまた笑って頷く。
「戻るすべなど、ないかも知れぬぞ」
「それでも……確かめ、とう、ございま……す」
菊羽は揺らぐ声で、意志を発する。
「それに――お師さまの、教えを得……た私、も、伊賀のもの、です。みすみす、甲賀のものに、されるままなど……」
「心得違いをしておるな」
えっ、と酒に浮かされたまなこで菊羽は白翁を見上げた。
「山向こうと、敵対しておるわけではないぞ」
菊羽が目を丸くする。
この庵のある山を超えた先は、甲賀の地である。
「そもそも、忍びに決まった敵などおらんよ」
師の口調は、穏やかだった。
「その時々の状況で諍うこともあろうが、常に争っている相手などはおらぬ」
「そう――なの、です……ぁ?」
か、と言い切る前に首がかくんと落ちた。
藤林翁は目を細めて、菊羽を抱え上げた。
崩れた菊羽の襟裾を直しながら運び、寝床に横たえる。
「行ってくるとよい。おぬしの腕があれば、みすみす屍をさらすこともあるまい」
菊羽の髪を解き、帯を緩め、小袖をはだける。
肌に残って固まっていた血を、湿らせた布で拭き取ってゆく。
「先に、風呂の用意をさせればよかったかな」
そう呟きながら、菊羽が楽に呼吸できるよう、介抱していた。
「――ま、若い娘を眺めながら一杯、というのも乙なものか」
空になっていた瓶を手に台所へ行って酒を詰めなおして、また菊羽のそばに戻る。
頭に近いところに座り、瓶から直接呑む。
振り返って、積まれた書の山に帰還したふたつを見る。
「父も娘も、良き弟子で、嬉しいことじゃ」
と、喉の奥でまた笑って、また瓶を傾けるのだった。
「知らぬ」
藤林翁の答えは、短かった。
男との勝負のあと、まっすぐ師の庵に行った菊羽は、共に暮らしていた頃と変わらない生活を送っていた白翁にこのことを伝え、男の素性に心当たりはないか、また自分の技が通用したことを話したのだった。
庵に着いたのは昼過ぎで、師はまだ眠っていた。
件の書を編纂しながら寝てしまった様子だった。
その師に布をかけて待とうかとしたところで白翁は起きて、菊羽に水を汲んでこさせた。
菊羽はいくぶんか術も使って、すぐに水を用意した。
水を操る術は、ここで藤林翁に教わったものだった。
無から――水のないところから生み出すのは至難のわざだが、さきほどは幸い朝露の水気の多い場所であったこともあり、修行で得た技を扱うことができた――そのことを師に言う時の菊羽は嬉しさの滲む調子になっていた。
白翁はわずかに肩をすくめて、続ける。
「関わっていたのじゃろうが、そんなものいちいち覚えておらん。もっともその風の術や、躯を飾るすべ、というのはなかなか面白そうではあるが、な」
「けっこうな使い手でしたよ。それにあの趣向はちょっと私は……」
師の言葉にやや呆れた声を返しながら、菊羽は師に持っていた二巻の書を差し出した。
ここに来るまでの山道で着直した小袖も、町娘ふうに結った髪も、そのままだった。
「役立ったか」
「おそれいります」
菊羽はそう言って、頭を下げた。
ほっ、と白翁は笑声をあげて、液体の入った椀を出しつつ弟子を促した。
「よう戻った。体を休めつつ、これまでのこと話してくれ」
もう一度菊羽は礼をして、椀を取った。
多めにひと口飲んで、咳き込む。
「さ――酒じゃないですかっ」
「役目も果たした、こうして書も無事に返した、じゅうぶん一人前に務めたのじゃ。祝杯のひとつくらいあげてもよかろう」
菊羽は目を丸くして「あ――ありがたきお言葉っ!」と椀を置いた。
「よいよい」
師はまた笑う。
「若い娘が儂を忘れず戻ってくるだけで、喜ばしいことじゃ」
「娘では――」
そう言いつつ、菊羽の目には以前ほど抗う色は強くなくなっていた。
「それで、よい肴になるくらいの土産話はあるのじゃろうな」
菊羽が頷く。
白く濁った、甘味の勝っている酒を、あらためて恐る恐る舐めるように飲みながら、菊羽は口を開いた。
「帰国してすぐ、私は妹姫さまに仕えることとなりました――」
話し終えた頃には、陽はすっかり傾いていた。
菊羽の師は、実に満足げに歯を見せていた。
「大勢は掴んでおったが、そのような面白いことになっておったとは。おぬしと姫との契り、師として立ち会うて見届けねばならなかったか」
「そんなことは……師といえど、あれはふたりだけの秘めごとゆえ」
声をあげて白翁が笑う。
「若い娘ふたりのこととは、実に佳い話であった」
分け合って――大半は師の腑に収まったが――呑んでいた酒は、ほぼ空になっていた。
「――して」
すう、と白翁が声を鎮めた。
「ただあれを届けるためだけに、結んだ姫と別れてきたのではあるまい」
積んだ束の上に無造作に置いた、菊羽から返ってきた書を示す。
菊羽が息を呑む。
目尻から頬にかけてほんのりと赤くなっており、視線も浮いていたが、その言葉にふらついていた姿勢を正した。
「あ――あの」
やや、ろれつが回っていなかった。
頭を振る。
菊羽にとって、初めての酒であった。
ほほ、と酒熱を帯びた笑声をこぼして白翁が弟子に近寄る。
「おなごの酔うさまは憂いの」
「からかわ……ないで、ください。わたしは、おなごでは……」
ふらついた菊羽は、師に抱きかかえられる格好になっていた。
「この体でまだ言うか。酔うてさらに女の匂いを醸しておるではないか。
――菊羽。高須か、甲賀へ行くために、ここへ戻ったな」
「あ……っ」
吐息のように頷う弟子に、師はまた笑って頷く。
「戻るすべなど、ないかも知れぬぞ」
「それでも……確かめ、とう、ございま……す」
菊羽は揺らぐ声で、意志を発する。
「それに――お師さまの、教えを得……た私、も、伊賀のもの、です。みすみす、甲賀のものに、されるままなど……」
「心得違いをしておるな」
えっ、と酒に浮かされたまなこで菊羽は白翁を見上げた。
「山向こうと、敵対しておるわけではないぞ」
菊羽が目を丸くする。
この庵のある山を超えた先は、甲賀の地である。
「そもそも、忍びに決まった敵などおらんよ」
師の口調は、穏やかだった。
「その時々の状況で諍うこともあろうが、常に争っている相手などはおらぬ」
「そう――なの、です……ぁ?」
か、と言い切る前に首がかくんと落ちた。
藤林翁は目を細めて、菊羽を抱え上げた。
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「行ってくるとよい。おぬしの腕があれば、みすみす屍をさらすこともあるまい」
菊羽の髪を解き、帯を緩め、小袖をはだける。
肌に残って固まっていた血を、湿らせた布で拭き取ってゆく。
「先に、風呂の用意をさせればよかったかな」
そう呟きながら、菊羽が楽に呼吸できるよう、介抱していた。
「――ま、若い娘を眺めながら一杯、というのも乙なものか」
空になっていた瓶を手に台所へ行って酒を詰めなおして、また菊羽のそばに戻る。
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