オネおじと俺の華麗なる日常

純鈍

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47.ある日『後輩の弟、未幸2』

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 後輩とのデートから一週間が経った土曜日の午前十時のことだ。

『靖彦、助けてくれ、君のところのマンションのエントランスで転んだ』

 未幸から一分前にメールが来ていた。

 ――罠だよな……?

「分かりやすいくらいの罠だよな? おかしいもんな?」

 じゃなきゃ、なんだよ、この会社員の上司みてぇな口調で自分の醜態晒してるメール。

「何ぶつぶつ言ってんの?」

 スマホを見つめながらぶつぶつ呟いていたため、ソファで爪の手入れをするあつ子に怪しまれた。

「いや、別に」

 そう言いながらもリビングの中を同じ格好でうろうろする。

 99パーセント罠だとは分かっている。だが、もし残りの1パーセントだったら、どうする? 転んで怪我をしていたら……

「あつ子、救急箱ってどこだっけ?」

 1パーセントのことを考えて、一応救急箱を持って行こうと思い、スマホから顔を上げてあつ子に尋ねた。

「玄関の棚の中にあるけど、なに? あんた、また怪我したの?」

 両手の先に息を吹きかけながら、あつ子が訝しげに眉間に皺を寄せる。

「違う。取り敢えず、借りてくから」

 リビングから出て、ちゃちゃっと玄関の棚から透明BOXの救急箱を拝借し、急いで靴を引っ掛ける。あつ子に何かを言われると思ったからだ。

「え? また出掛けるの?」

 案の定、何かを言われたが「すぐ戻るから」とニコッと笑っておいた。俺に似合わない表情だとは思うが、奴が追いかけて来なかったってことは意味があったってことで、良しとしよう。

 心の中で静かに頷きながら、部屋から出てエレベーターに乗り、すぐにエントランスに向かった。

 エントランスに着くなり住民用の休憩スペースでソファに脱力して座り、目を瞑っている未幸を発見した。

「おい、大丈夫か? そんなに派手な転び方したのか?」

 驚いて、救急箱をガタガタと騒がせながら駆け寄る。

「ん?」

 俺の声を聞いて、未幸はゆっくりと目を開けた。

「ん? 大丈夫……?」

 ゆっくりと未幸の口が動く。

 ――同じ言葉を繰り返すんじゃねぇよ。俺が聞いてんだよ。「大丈夫ってなんだ?」みてぇな言い方すな。

「だってお前、転んだって……」
「ああ、転んだけど、元気だ。さあ、行こう」
「え、ちょ……!」

 俺が救急箱を目の前に突き付けると、その手を掴んで未幸は立ち上がった。そして、そのままマンションから出て行く。

 ――やっぱり罠かよ! 100パーセントかよ!

 俺の腕を掴んだまま、ご機嫌そうに未幸がズンズンと前に進んでいく。

「どこに行くつもりだよ? 俺、救急箱しか持ってねぇんだけど」

 救急箱を取るために代わりに手に持っていたスマホを床に置いたまま出て来たことを思い出した。つまり、俺はやっぱり救急箱しか持ってねぇ。

「お忍び温泉旅行第二弾だ。君は何も気にしなくて良いよ」

 ――また言ってるよ、こいつ。後輩のターンが終わったと思ったら、今度は未幸か……。

「この前兄貴に捕まって懲りたんじゃなかったのかよ?」

 前回、未幸は後輩に捕まって計画をぶち壊しにされていた。俺だったら諦める。まあ、計画を立てさえもしないと思うが。

「前に言っただろ? 次は絶対に君とお忍び旅行してやるって」

 頑固かよ? 馬鹿かよ? 頭良いはずなのに、どっからそんな馬鹿な自信が出てくんだよ? 顔に出てんぞ?

「また直ぐに捕まるぞ?」
「だと思うだろう? だから、今日は汐留を使わないんだ。公共の交通手段を使って移動する」

 ――いや、それ、普通だろ? なに「偉いだろ?」みてぇな顔してんだよ?

「へ、へぇ、上手くいくと良いな(俺は別にどうでも良いけど)」

 それより、島の訪問医師みてぇに救急箱を持って歩かされてる俺の身にもなれ。BOXが透明だから中身が丸見えで、ひと目で救急箱って分かるんだよ、これ。

「上手くいくさ。まずはここからバスに乗って駅まで行くぞ」
「いや、駅、歩いて行ける距離なんだけど?」

 バス停、三つくらいで着くぞ? 途中のバス停で停車している間に歩いた方が早いと思うぞ?

「そんなことは知ってる。カモフラージュだ、靖彦」

 バス停のところに立って、未幸が険しい顔をする。バスに乗ったことがないから乗りたいんだと思っていたが、なんだか急にスパイ映画みてぇな展開になってきたな。

 バス停三つでカモフラ出来るか?

「お前、本気なんだな」
「ああ、本気さ」

 爽やかサッカー青年と視線が合致する。こいつは本気だ、と思うと同時に馬鹿だな、と思った。瞬間、バスが俺たちの目の前に停車した。

「二人分お願いします」

 意外にも、運転手にそう言ったのは未幸だった。一人が二人分を払うときにどうしたら良いかも知ってるし、運賃はICカードで支払っているし、バスには乗り慣れているのか? 

 ガラガラの車内で、後ろの横長の席に座る。

 目的地は三つ目の“はず”だが、やっぱり、未幸は馬鹿だな。

「楽しみだな、靖彦」
「ああ」

 どうだかな。

 ご機嫌な未幸は気が付いていない。

 バスが一つ、二つと停まらずに三つ目のバス停まで来た。

「しまった……!」

 バスが停車する直前で急に未幸が声を上げた。

「ああ、そうだな」

 俺は、このバスに乗った時から、その“しまった”の原因を知っている。停車ボタンは既に押されていたため、俺は平然と立ち上がった。

「まさか靖彦、気付いて……どうして言ってくれなかったんだ?」

 座席から立ち上がりながら未幸が唖然とした口調で言う。

「聞かれなかったから」

 性格の悪いやつの言い方だが、未幸には少し嫌われた方が丁度良い気がして、この言い方を選んだ。

「降りて、逆のバスに乗り直そう」

 未幸がそう言う通り、俺たちは逆のバスに乗っていた。つまり、いくら乗っていても駅には着かない。

「ああ、そうしてもらえると助かる」

 そのままマンションの近くで降りて、家に帰らせてもらうぜ。

「靖彦、こっちだ」

 慌てて向かいのバス停に移動して、駅に向かう方のバスに乗り込む。そして、今度は降車扉の近くの座席に座った。

「スタートは出遅れたが、良いカモフラージュになっただろう」

 ミスを美化する自信家が俺の隣に座っている。ポジティブな部分は尊敬出来るところだと思う。まあ、それ以上にすげぇ人も居るが……

「それは、どうなんだろうな」

 誰も降りる人間が居ないのに、バスは二つ目のバス停で停車した。窓側に座る俺には乗ってくる人間の姿が見えていた。

「君たち、次で降りてもらおうか」

 バスに乗ってきたその人間は俺たちの横に立つとニッコリと笑いながら言った。

「兄貴……」

 警察官みてぇな雰囲気を纏った後輩だった。

 そんな雰囲気を出されてしまっては、バスから降りざるを得ない。運転手や他の数少ない乗客に怪しまれるからだ。

「なんで?」

 バスから降りるなり未幸が言った。

「なんだか、嫌な予感がしてね。やこくんの様子を見てたんだ」

 ――ストーカーじゃねぇか! ぜってぇ俺が部屋から出た瞬間に後追いかけて来てただろう?

 歩きながら後輩がずっとニコニコなのが逆に怖い。一人だけ早歩きして逃亡したい気分だぜ。

「くそ……。――なあ、兄貴は靖彦に意地悪されたことあるか? 俺は今日されたぜ?」

 おいおい、なんか始まったぞ? 多分だけどよ、逆のバスに乗ってることを言わなかったことだろうな。少し嫌われるためにしたことが逆にレアなことで捉えられてんのツラいんだが?

 後輩は意地悪云々とか言わないよな? 寧ろ俺に意地悪してんの、あんただも……

「ずっとされてるさ。年中無休でね」

 どこを張り合ってんだよ!? 兄弟で自信満々に張り合ってんじゃねぇよ! いや、分かり合ってんのか?

「あの、俺、帰りますね? 救急箱を定位置に戻さないといけないので」

 聞いてたけど、聞いてなかったような顔をして俺は前を歩く二人に言った。

 救急箱を定位置に返すために早く帰らなきゃいけねぇってなんだよ? どんな重大なミッションだよ? 我ながらクソな理由だな。

「それは大事だね。ごめんね、やこくん」

 振り向いた後輩が申し訳無さそうな顔をした。

「いえ」

 ――全然大事じゃないんすけど。笑いそうになるから、シュールな雰囲気出すのやめてくんねぇかな?

「靖彦! 俺への恩返しはどうした!」

 拗ねているのか、こちらを振り向かない未幸、清々しいほどに恩着せがましい。だが、確かに恩はある。

「ごめんな、未幸。他のことじゃ駄目か?」

 俺、休日は外にあんまり出たくねぇんだよな、面倒臭ぇから。

「じゃあ、俺と……!」

 急に振り向いた未幸がグッと距離を詰めてきて、俺の両手を取った。

「言わせないよ?」

 瞬間、後輩が威圧的に未幸の後ろに立った。空気が変わって、その瞳の冷たさがマジでサイコパスだと思った。それに、持ってねぇのに未幸の首筋に、突き付けられたナイフが見える気までして……。

 ――この人はやっぱりバケモノだ。

「……っ」

 未幸が、ぐぬぬという顔をする。どうやら、その空気に打ち勝てなかったみたいだ。そっと手も離れて、ゆっくりと下に落ちていく。

「それじゃあ、やこくん、またね」

 いつもの表情に戻って、後輩は俺のために道を空けた。「ど、どうも」なんて挙動不審になりながら俺はその道を進んだ。

「靖彦! 次こそは君とお忍び温泉旅行してやるんだからな!」

 背後で未幸が叫んでいる。

「次は無ぇよ……」

 そう小さく呟いて、俺はその場から颯爽と去った。

 ――んだよ、この毎回の茶番……。

 玄関の扉を開けた瞬間、あつ子と目が合った。

「そんなに頻繁に何も言わずに一人で出掛けて何なの? 反抗期なの?」

 どうやら、ずっと玄関で俺が帰ってくるのを待っていたらしい。こんな寒いところで待ってたら、そりゃ機嫌も悪くなるよな、と思う。

 でも、なんか、あつ子を見るとホッとすんなぁ。最近、落ち着いて見てなかったもんな。

「ねぇ聞いてんの?」
「いや、聞いてない」

 救急箱を持ったまま、俺は真っ正面からあつ子に抱き着いた。

「えっ、ちょ、ちょっと、あんた何してんのよ?」
「いつもの仕返し」

 顔は見えねぇが奴は慌てているに違いない。ナメクジと俺の気持ちを味わわせてやる。

「離しなさい」
「やだね」

 ――はぁ……、自分でやってんのに心臓うっせ。

「あんた、どっかで頭打った?」

 急に頭をガッと両手で鷲掴みにされた。頭を打っているかもしれないやつにやってはいけないだろ、それ。

「は?」

 勿論、頭は打っていないため、この反応になる。

「1+1は?」
「馬鹿にしてんのか? 2だ」

 今時、幼稚園生でも分かるぜ。

「じゃあ、14×26は?」
「分かんねぇよ、難しいの出すな」

 暗算出来ねぇ。電卓持って来い。

「あんたが好きなものは?」
「あつ、子」

 あああああああああ! リズムに乗ってたら言っちまった! 普段の俺ならぜってぇ言わねぇことぉぉぉおおお!

「やっぱ、頭打ってるじゃないの! 病院行くわよ?」
「ちょ、待て、待てよ!」

 この後、あつ子を大人しくさせるのに苦労した。取り敢えず、冷たくする作戦でどうにか乗り切った。

 全世界の温泉同好会と本当は心が燃えてる俺が泣いた。
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