あいにく、配役は辞退いたしました

チャビューヘ

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 この場所で、すべての歯車が狂い出すことを知っている。
 
 太陽の光が噴水の水しぶきをキラキラと反射させ、庭園には色とりどりの花が咲き乱れている。絵に描いたような美しい昼下がりだ。
 
 ヴェラは、石造りのベンチに座り、手元の包みを広げた。
 中身は、厨房の料理人に頼み込んで作ってもらった特製肉厚のカツサンドだ。ソースの香ばしい匂いが鼻をくすぐり、彼女の空腹を適度に刺激する。
 
「……よし、美味しい」
 
 一口噛みしめると、サクッとした衣の食感と肉の旨みが口いっぱいに広がった。
 
 かつてのヴェラであれば、こんなはしたない真似は決してしなかっただろう。
 婚約者である王子の好みを完璧に把握し、彼がいつここを通ってもいいように、完璧な刺繍を施したハンカチを握りしめ、健気に待ち続けていたはずだ。
 
 だが、今の彼女にとって、王子の顔色よりもカツサンドの温度の方が100倍は重要だった。
 
 時計の針が、運命の時刻へと近づいていく。
 あと5分もすれば、この庭園の角からテオ王子が現れる。
 そして同時刻、反対側の小道から、平民出身の特待生であるルミが、教科書を抱えて走ってくるはずだ。
 
 2人は曲がり角でぶつかり、教科書が散らばる。
 テオがそれを拾い、ルミと視線が合う。
 
 本来なら、その光景をヴェラが目撃し、嫉妬に狂ってルミを罵倒するところまでが、この「物語」のプロローグだ。
 
「ごちそうさまでした」
 
 ヴェラは最後の一口を飲み込むと、丁寧に包み紙を畳んだ。
 カバンにしまい、すぐさま立ち上がる。
 
 まだテオの姿は見えない。だが、遠くからこちらへ向かってくる足音が聞こえ始めていた。
 
 ヴェラは迷わず、2人が出会う予定の場所とは正反対の方向、寮へと続く近道へと足を向けた。
 
 背後で、ガシャンという音が響いた。
 
 おそらく、ルミが何かを落としたのだろう。
 続いて、「あ……」という可憐な声と、「怪我はないか?」というテオの、低く甘い声が聞こえてくる。
 
 周囲の学生たちが、何事かと足を止める気配がする。
 本来、ヴェラがその輪の中心に割り込み、高笑いと共にルミのプライドを傷つける場面だ。
 
 だが、ヴェラは一度も振り返らなかった。
 
 テオが誰を愛そうが、ルミがどれほど可憐な反応を見せようが、知ったことではない。
 
 この「物語」は、ヴェラという舞台装置がいて初めて成立する。
 
 糾弾する者がいなければ、それはただの「不運な衝突」だ。
 嫉妬する悪役がいなければ、悲劇の幕は上がるきっかけを失う。
 
 ヴェラは鼻歌を歌いたい気分を抑え、早足で角を曲がった。
 
 
 
 自室に戻ると、ヴェラはすぐさま着慣れたドレスを脱ぎ捨て、室内着に着替えた。
 
 鏡に映る自分は、驚くほど晴れやかな顔をしている。
 
 これまで彼女を縛り付けていた「婚約者の義務」や「淑女としての誇り」は、カツサンドの包み紙と一緒にゴミ箱へ捨ててきたつもりだ。
 
 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
 
「ヴェラ様、よろしいでしょうか。テオ殿下がお見えです」
 
 侍女の声に、ヴェラはわずかに眉を寄せた。
 
 早い。
 
 想定では、テオはルミを保健室へ送り届け、そこでひとしきり見つめ合った後に、夕方頃に「例の件」を報告しに来るはずだった。
 
 ヴェラはため息をつき、ドアを開けずに答えた。
 
「あいにく、ひどい頭痛で寝込んでおりますの。どなた様であっても、お通しすることはできませんわ」
 
「ですが……殿下は、先ほど庭園でヴェラ様をお見かけしたと仰っておりまして」
 
「人違いでしょう。わたくしは、今日一日ここから一歩も出ておりませんもの」
 
 嘘であることは明白だ。
 だが、ヴェラは言い切った。
 
 扉の向こうで、テオが息を呑む気配がした。
 
「ヴェラ、開けてくれ。君に謝らなければならないことがあるんだ」
 
 テオの声には、明らかな困惑が混じっていた。
 
 いつもなら、彼が少しでも謝罪の口にすれば、ヴェラは涙を流して彼を許し、より深く執着した。その執着が、テオをルミという「癒やし」へと向かわせる原動力になっていたのだ。
 
 だが、今のヴェラには、彼の謝罪を聞く時間すら惜しい。
 
「謝罪など、必要ございませんわ。殿下が何をなさろうと、わたくしの関知するところではございませんから」
 
「……何を言っているんだ。君はいつも、俺の行動をすべて把握したがっていたじゃないか」
 
「過去の話ですわ。わたくし、ようやく気づきましたの」
 
 ヴェラは鍵をかけ、ベッドに身を投げ出した。
 
「あいにく、配役は辞退いたしました。これからは、主役のお二人だけでご勝手になさってくださいませ」
 
 返答はなかった。
 
 扉の向こうで、テオがどのような表情をしているのか。
 
 それを想像することさえ、今のヴェラには無意味で、退屈なことだった。


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