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王都から届いた報せは、早春の柔らかな日差しを切り裂くような、不吉な冷気を帯びていた。
「……テオ殿下が、自ら軍を率いてこちらへ? バルデラス様たちの無様な帰還に、よほど業を煮やされたようね」
ヴェラは温室の長椅子で、ネフが持ってきた報告書に目を通した。隣ではカノが、ヴェラの足元を冷やさないよう、温めた石を忍ばせた毛布を丁寧に整えている。昨夜、名前を呼び合った後の気恥ずかしさは、今や「共犯者」としての深い信頼へと昇華されていた。
「殿下の行軍速度から計算すると、北方の境界に到達するのは三日後。……ヴェラ、どうされますか。私が境界で迎え撃ち、雪の中に沈めてきても構いませんが」
カノの言葉は冗談ではなかった。彼の瞳の奥には、主人の安眠を妨げる者への容赦ない殺気が宿っている。
「いいえ、カノ。わたくしたちの手を汚す必要はありませんわ。……ヴァレリアナ。貴女に預けていた、あの『王宮の防衛遺物』の改造は終わったかしら?」
温室の隅で、複雑な魔導回路を弄っていたヴァレリアナが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて顔を上げた。
「完璧です、ヴェラ様! 王都が誇る『聖域の鐘』は、今や広範囲の魔力を強制放電させる『魔力吸引器』へと生まれ変わりました。これを作動させれば、殿下の軍勢は屋敷に近づくことさえできません。馬を動かす魔導具も、騎士たちの強化魔法も、すべてこの北方の空気に吸い取られてしまいますわ」
「素晴らしいわ。……テオ殿下は、わたくしを『救い出すべき配役』として、劇的な再会を夢見ていらっしゃるのでしょうけれど」
ヴェラは、カノの差し出した温かい果実水を一口飲み、窓の外の白銀の世界を見つめた。
一方、王都の街道では、狂気に染まった第一王子の行軍が続いていた。
「……ヴェラ。待っていろ。俺を拒絶し、あのようなイチゴで愚弄した報いは、あの男の首で払わせてやる。お前は再び俺の側で、国のために祈る聖女に戻るのだ」
青白い顔のテオは、馬車の中で激しく咳き込みながら、ヴェラの肖像画を握りしめていた。彼の背後には、ルミの甘言と神殿の圧力によって動かされた、数百の兵たちが連なっている。
彼らは信じていた。自分たちが正義の軍勢であり、北方に囚われた公爵令嬢を救い出す主役であると。
だが、ヴェラの思考は、すでにその先の「晩餐」へと向いていた。
「あいにく、配役は辞退いたしました。殿下の独りよがりの救出劇に付き合うほど、わたくしの時間は安くありませんの。……カノ、三日後の夕食は、温室で採れた新鮮なハーブをたっぷり使ったラム肉のローストにしましょう。不快な雑音が届かないよう、ヴァレリアナに『静寂の結界』も強化させてちょうだい」
「承知いたしました。……それからヴェラ。食後のデザートには、私が昨夜から仕込んでおいた蜂蜜漬けのナッツを。貴女の甘い夜を邪魔させるわけにはいきません」
カノがヴェラの指先に、自身の唇をそっと寄せる。
それは騎士の誓いよりも重く、恋人の囁きよりも熱い、確かな独占の証。
王都の主役たちがどれほど劇的な結末を望もうとも、ヴェラがその脚本を「生活の資材」として消費し続ける限り、その物語が輝くことは二度とない。
あいにく、この舞台に客席はございません。
ヴェラは、自分を包み込むカノの温もりに身を委ね、襲い来る「運命」を、ただの「日常の掃除」として処理する決意を固めるのだった。
「……テオ殿下が、自ら軍を率いてこちらへ? バルデラス様たちの無様な帰還に、よほど業を煮やされたようね」
ヴェラは温室の長椅子で、ネフが持ってきた報告書に目を通した。隣ではカノが、ヴェラの足元を冷やさないよう、温めた石を忍ばせた毛布を丁寧に整えている。昨夜、名前を呼び合った後の気恥ずかしさは、今や「共犯者」としての深い信頼へと昇華されていた。
「殿下の行軍速度から計算すると、北方の境界に到達するのは三日後。……ヴェラ、どうされますか。私が境界で迎え撃ち、雪の中に沈めてきても構いませんが」
カノの言葉は冗談ではなかった。彼の瞳の奥には、主人の安眠を妨げる者への容赦ない殺気が宿っている。
「いいえ、カノ。わたくしたちの手を汚す必要はありませんわ。……ヴァレリアナ。貴女に預けていた、あの『王宮の防衛遺物』の改造は終わったかしら?」
温室の隅で、複雑な魔導回路を弄っていたヴァレリアナが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて顔を上げた。
「完璧です、ヴェラ様! 王都が誇る『聖域の鐘』は、今や広範囲の魔力を強制放電させる『魔力吸引器』へと生まれ変わりました。これを作動させれば、殿下の軍勢は屋敷に近づくことさえできません。馬を動かす魔導具も、騎士たちの強化魔法も、すべてこの北方の空気に吸い取られてしまいますわ」
「素晴らしいわ。……テオ殿下は、わたくしを『救い出すべき配役』として、劇的な再会を夢見ていらっしゃるのでしょうけれど」
ヴェラは、カノの差し出した温かい果実水を一口飲み、窓の外の白銀の世界を見つめた。
一方、王都の街道では、狂気に染まった第一王子の行軍が続いていた。
「……ヴェラ。待っていろ。俺を拒絶し、あのようなイチゴで愚弄した報いは、あの男の首で払わせてやる。お前は再び俺の側で、国のために祈る聖女に戻るのだ」
青白い顔のテオは、馬車の中で激しく咳き込みながら、ヴェラの肖像画を握りしめていた。彼の背後には、ルミの甘言と神殿の圧力によって動かされた、数百の兵たちが連なっている。
彼らは信じていた。自分たちが正義の軍勢であり、北方に囚われた公爵令嬢を救い出す主役であると。
だが、ヴェラの思考は、すでにその先の「晩餐」へと向いていた。
「あいにく、配役は辞退いたしました。殿下の独りよがりの救出劇に付き合うほど、わたくしの時間は安くありませんの。……カノ、三日後の夕食は、温室で採れた新鮮なハーブをたっぷり使ったラム肉のローストにしましょう。不快な雑音が届かないよう、ヴァレリアナに『静寂の結界』も強化させてちょうだい」
「承知いたしました。……それからヴェラ。食後のデザートには、私が昨夜から仕込んでおいた蜂蜜漬けのナッツを。貴女の甘い夜を邪魔させるわけにはいきません」
カノがヴェラの指先に、自身の唇をそっと寄せる。
それは騎士の誓いよりも重く、恋人の囁きよりも熱い、確かな独占の証。
王都の主役たちがどれほど劇的な結末を望もうとも、ヴェラがその脚本を「生活の資材」として消費し続ける限り、その物語が輝くことは二度とない。
あいにく、この舞台に客席はございません。
ヴェラは、自分を包み込むカノの温もりに身を委ね、襲い来る「運命」を、ただの「日常の掃除」として処理する決意を固めるのだった。
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