【完結】冷たい王に捨てられた私は、海峡の街で薫り高く生きる

チャビューヘ

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第10話:薫りの祝祭

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 祭りの朝は、鐘の音で始まった。

 街中に響く、華やかな音色。

 リリアーナは工房の窓から、広場を見下ろした。

 すでに人が集まり始めている。

 東方の絹。西方の羊毛。

 異なる言葉。異なる祈り。

 でも今日、すべてが一つになる。

 彼女の香りで。

 心臓が、速く打つ。

 不安ではない。

 期待だ。

「リリアーナ」

 父の声が扉の向こうから。

「準備はいいか」

「はい」

 彼女は香炉の最後の確認をした。

 三つの香炉。

 三つの時間。

 三つの祈り。

「行こう」

 広場は人で埋め尽くされていた。

 何百人。

 いや、千人は超えている。

 中央の石舞台に、リリアーナは立った。

 視線が、四方八方から刺さる。

 息が、詰まりそうになる。

 でも――

 彼がいる。

 舞台の脇、領主の席。

 ダミアーノが、静かに頷いた。

 それだけで、胸が温かくなった。

 リリアーナは深呼吸した。

 そして、最初の香炉に手を伸ばした。

 火打ち石が火花を散らす。

 芯に、炎が灯った。

 柑橘とハーブの香りが立ち上る。

 ベルガモットの明るさ。

 バジルの緑。

 まるで朝日が雨を貫くような、鮮やかな光。

 香りが、広場を満たし始めた。

 人々がざわめく。

 最前列の商人が目を見開いた。

 隣の貴婦人が前に身を乗り出す。

 波紋のように、驚きが広がっていく。

「なんて爽やかな」

「まるで春の朝だ」

「これは……東方の柑橘か?」

「いや、この街の柑橘だ」

 リリアーナは微笑んだ。

 そう。

 これは、この街の香り。

 東でも西でもない、アルカナの香り。

 正午。

 太陽が真上に昇った時。

 香りが変わり始めた。

 柑橘の明るさが薄れ、別の何かが立ち上る。

 シナモンとローズ。

 スパイスの温もり。

 花の優しさ。

 それらが折り重なり、新しい世界を作る。

 広場が、静かになった。

 誰もが、目を閉じている。

 記憶を辿るように。

 東方商人ファリドが、震える手で顔を覆った。

「母の……」

 彼の声が掠れる。

「母の、香りだ」

 西方商人ジョヴァンニが、隣で頷いた。

「私の祖母も、この組み合わせを……」

 二人の視線が交差する。

 長い沈黙。

 そして、ゆっくりと。

 二人は頷き合った。

 時が経つ。

 香りがまた変わる。

 今度は深く、重く。

 でも優しい。

 白檀の木香。

 ローズの甘やかさ。

 これは消えない香り。

 衣服に染み込み、髪に残り、記憶に刻まれる。

 夕暮れが近づいていた。

 オレンジ色の光が、広場を染める。

 人々の顔が、金色に輝く。

 ファリドが立ち上がった。

 ジョヴァンニが身構える。

 広場が、また静まり返った。

 ファリドの手が、懐に入る。

 護衛たちが剣の柄を握る――

 彼が取り出したのは、小さな木箱だった。

「我が一族の宝だ」

 ファリドの声が震えている。

「五代にわたり受け継いだ、最高級の沈香」

 彼はジョヴァンニの前に跪いた。

 木箱を差し出す。

「東の心を、西へ」

 ジョヴァンニの目が見開かれた。

 彼の手も震えていた。

 長い、長い沈黙。

「受け取れない」

 ジョヴァンニの声は掠れていた。

「こんな……これは王への献上品だ」

「だからこそ」

 ファリドが顔を上げる。

 その目に涙が光っていた。

「平和は、どんな王よりも価値がある」

 ジョヴァンニの膝が折れた。

 彼もまた跪き、両手でその箱を受け取る。

「西の商人として、東の兄弟として」

 彼の声が広場に響く。

「この贈り物を受け、我らも心を開こう」

 二人の手が、箱の上で重なった。

 広場が沸き立った。

 拍手。

 歓声。

 涙。

 ダミアーノが立ち上がる。

「この香りこそ、我らの街の未来だ」

 彼の声は静かだが、誰もが聞いた。

「東と西が一つになる、その証だ」

 広場全体が、一つの呼吸をした。

 人々がリリアーナの元に押し寄せた。

「素晴らしい!」

「こんな香りは初めてだ!」

「この香り、売ってくれるのか?」

「フィオーレ商会万歳!」

 リリアーナは泣きそうになった。

 前世では、誰からも必要とされなかった。

 でも今――

 こんなにも多くの人々が。

「分子結合がこれほど安定するなんて!」

 錬金術師ギルドの長が目を輝かせた。

「ベルナール大師でさえ成し遂げなかった」

 老齢の香料師が膝を折る。

 リリアーナは慌てて手を差し伸べた。

「どうか、お立ちください」

「いいや」

 老師は首を振った。

「お前は本物だ。この老いぼれは、敬意を示さねばならん」

 群衆が散り始めた頃。

 リリアーナは一人、香炉を片付けていた。

 まだ僅かに残る香り。

 白檀とローズ。

 手が止まった。

 誰かが、隣に跪いている。

 振り向く。

 父だった。

 フランチェスコは無言で、もう一つの香炉を手に取った。

 布で丁寧に拭き始める。

 その手つきが、母の工房を思い出させた。

 リリアーナは呼吸を忘れた。

 父が工房の道具に触れるのを、見たことがない。

「この香り」

 父が呟いた。

「マリアが最後に作ったものと、同じ構成だな」

 リリアーナの手が震えた。

「お母様の……」

「ああ」

 父は香炉を見つめたまま。

「白檀は東。ローズは西。お前の母は、二つを繋ごうとしていた」

 彼の指が香炉の縁を撫でる。

「でも私は、理解できなかった」

 風が吹いた。

 残り香が、二人を包む。

「あの人が何を目指していたのか」

 父の声が震える。

「今日、やっと分かった」

 リリアーナの目から涙が零れた。

「お父様……」

「お前はやり遂げたんだ、リリアーナ」

 父が初めて、娘を見た。

 その目は潤んでいた。

「母が夢見た、その先まで」

 フランチェスコは立ち上がった。

 そして、娘の頭にそっと手を置く。

 香炉を磨く手。

 それが今、自分に触れている。

 リリアーナの涙が止まらなくなった。

「明日から、お前が工房長だ」

 父の声は静かだった。

「フィオーレの香りは、お前が決めろ」

 それは、全ての承認だった。

 リリアーナは父の手に、自分の手を重ねた。

 二人の影が、夕日の中で一つになる。

 言葉はもう、要らなかった。

 夜。

 丘の上は静かだった。

 街の喧騒が遠い。

 リリアーナは地面に座り、膝を抱えていた。

 三メートル離れた場所に、ダミアーノ。

 月光が彼の横顔を照らしていた。

 疲労の影が目の下にある。

 彼も、この数日休んでいないのだろう。

 リリアーナは気づいてしまった。

 彼の疲れた顔さえ、見ていたいと。

 危険な考えだった。

「今日は、見事だったな」

 ダミアーノの声が夜に溶けた。

 いつもより低く、柔らかい。

 リリアーナの心臓が跳ねた。

 なぜ。

 彼はただ褒めただけなのに。

 なぜ胸が苦しい。

「ありがとう、ございます」

 自分の声が震えている。

 恥ずかしい。

 沈黙。

 でも、気まずくない。

 二人の呼吸が、ゆっくりと同じリズムになっていく。

 ダミアーノが少し近づいた。

 二メートル。

 リリアーナは動けなかった。

 もう一度、彼が動く。

 一メートル半。

 彼女は彼の体温を感じた。

 触れていないのに。

 空気が震えている。

 ダミアーノの手が動いた。

 伸ばせば届く距離。

 リリアーナの手まで、あと少し。

 彼の手が止まった。

 宙に浮いたまま。

「リリアーナ」

 彼の声は掠れていた。

「俺は……」

 そこで言葉が切れた。

 彼の手が、ゆっくりと引かれていく。

 リリアーナの胸が締め付けられた。

 違う。

 これは感謝じゃない。

 これは友情でもない。

 彼の手が近づいただけで息ができない。

 彼の声を聞くと心臓が暴れる。

 彼がいない未来を想像すると、世界が色を失う。

 ああ。

 これは。

「私は……」

 リリアーナも言葉を失った。

 30年、愛されなかった。

 もう一度、誰かを愛するなんて。

 もう一度、失う恐怖に耐えるなんて。

 でも。

 この人となら。

 もしかしたら。

 怖い。

 とても、怖い。

 月が雲に隠れた。

 一瞬の暗闇。

 そしてまた現れた時。

 ダミアーノがこちらを見ていた。

 彼の目に、何かがあった。

 苦しそうな、切なそうな。

 希望と諦めが混ざった、何か。

 彼も同じだ、とリリアーナは思った。

 彼も怖がっている。

 彼も傷ついている。

 彼も、もう一度誰かを信じることに怯えている。

 だから、まだ触れない。

 だから、まだ言葉にしない。

 でも。

 この沈黙は、何よりも雄弁だった。

 どれくらい、そうしていただろう。

 やがてダミアーノが立ち上がった。

「遅い。戻ろう」

 彼の声は、いつもの調子に戻っていた。

 でも手が、かすかに震えていた。

 リリアーナも立ち上がる。

 彼が手を差し出す。

 躊躇。

 そして、彼女はその手を取った。

 一瞬だけ。

 立ち上がるためだけ。

 でも彼の手は温かかった。

 そして彼は、必要以上に長く、握っていた。

 二人は無言で丘を下りた。

 何も変わっていない。

 すべてが変わっていた。

 その夜。

 領主館の一室。

 バルトロメオは、窓の外を睨んでいた。

 あの小娘の勝利。

 民衆の歓声。

 すべてが、彼の計画を台無しにした。

 扉が開いた。

 フードを被った人影。

「準備は整った」

 低い声。

「三日後の夜会で。彼女は消える」

 バルトロメオは頷いた。

「苦しませろ」

 彼の目に、狂気が宿っていた。

「あの小娘が泣き叫ぶのを、見たい」

 人影は無言で去った。

 バルトロメオは月を見上げた。

「最後の幸せを、噛み締めておけ」

 彼は呟いた。

「明日からは、地獄だ」
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