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「名前のない感情」
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グラーフの罷免は、二日で決まった。
教授会議が全会一致で可決した。
帳簿に記された貴族の名前は二十を超え、金額の総計は学院の年間予算に匹敵した。
三十年間にわたる情報売買。
教義を盾に真実を隠蔽し、学生を退学に追い込んできた男の聖域は、跡形もなく崩れた。
エリスの退学処分も撤回された。
過去に退学させられた学生たちへの調査も始まると、新任の学院長代行が発表した。
禁書庫は封印を解かれ、学術研究のために開放された。
検閲されていた文献の目録が再整備され、欠番だった四百二十番台の論文集が一般閲覧区画に戻された。
エリスが泣いたのは、その発表の直後だった。
渡り廊下の柱の陰で、声を殺して泣いていた。
カイルとリゼットは何も言わずに隣にいた。
嵐は過ぎた。
だが、知るべきことは増えた。
禁書庫から持ち出した古代文献を、三人は学院の空き教室で読み進めた。
エリスが古い書体を解読し、リゼットが論理構造を整理し、カイルがゲーム知識と照合する。
文献の大部分は、補正システムの観測原理を記述していた。
フィリアは世界を「物語」として認識し、登場人物の行動を筋書きに沿わせる力を持つ。
補正は自動的に発動し、逸脱が大きいほど強い力で元の軌道に戻そうとする。
そして最終頁に、一文があった。
『物語が終わるとき、観測者は次の物語を求める』
エリスの指が、その一行で止まった。
「観測者。フィリアを操っている存在がいる」
「フィリア自体は装置にすぎない。誰かがそれを使って、この世界を物語として観測している」
カイルは文面を見つめた。
ゲームの外側。プレイヤーの向こう側。
前世の自分がコントローラーを握っていたとき、画面の中の世界は誰かに観測されていた。
その観測の力が、この世界を物語として縛っている。
「観測者を見つければ、補正システムを止められるかもしれない」
「かもしれない、ね。確証はありませんわ」
リゼットの声は冷静だった。
だが否定はしなかった。
「でも、手がかりはここにはもうない。学院の文献はこれが限界。観測者の正体は、別の場所で探すしかありませんわね」
エリスが頷いた。
「あのですね、地方の修道院にはまだ検閲を逃れた断簡があるかもしれません。ルーカスが見つけたのも地方の修道院でした。つまり、学院の外に情報が散らばっている可能性が」
「それは次の仕事だな」
カイルは文献を閉じた。
今回の成果は十分だ。
フィリアの正体。補正の仕組み。リゼットの魔法がシステムに干渉できるという事実。
そして、観測者の存在。
縦軸が、一段階進んだ。
夕方、エリスが教室を出た後、カイルとリゼットは二人になった。
窓の外に冬の夕焼けが広がっている。
学院の尖塔が茜色に染まっていた。
聖灯の石像が、夕陽を受けて赤く光っている。
昨日までとは違う光だった。
権威の象徴ではなく、ただの石が夕陽に照らされている。それだけの景色だ。
リゼットは窓際に立っていた。
夕陽を見ている。
銀髪が茜色に染まっていた。
「カイル」
「ん?」
「あなたに聞きたいことがある」
リゼットは窓から離れた。
カイルの前に来た。
向かい合う。
近い距離だった。
「前に言ったわよね。私が笑っている世界が見たい、と」
「ああ」
「あれは本気?」
「本気だ」
「なぜ」
カイルは後頭部に手を伸ばしかけて、やめた。
ごまかさない。
「わからない。理屈じゃないんだ。前世で君を見たとき、ただ、間違っていると思った。この結末は間違っていると。それだけだった」
「前世」
リゼットの目が僅かに見開かれた。
だがすぐに戻った。
「いつか、ちゃんと話すと言ったわね」
「ああ。まだ全部は話せない。でも、嘘はつかない」
「知っている。あなたの嘘は下手だから」
リゼットの口の端が、ほんの少し持ち上がった。
笑みとは呼べないほどの、微かな動き。
だがカイルには見えた。
リゼットの右手が伸びた。
カイルの右腕に触れた。
袖の上からだ。
だが紋様の位置を正確になぞった。
手首から肘、肘から肩。
あの夜、宿舎で触れたときと同じ軌跡。
だが力が違った。
あのときは紋様の広がりを確かめるように、指先だけで。
今は、掌ごと。別の理由で。
「増えた」
「ああ。鎖骨の下まで来ている」
リゼットの指が止まった。
肩の上。打撲の痕が薄く残る、紋様の先端。
「約束して」
声が小さかった。
命令ではなかった。
「次に増えたら、すぐ言って。隠さないで。一人で数えないで」
「わかった」
リゼットの手が離れた。
窓から差し込む夕陽が、二人の間を照らしていた。
リゼットは一歩退いた。
何かを言いかけて、やめた。
もう一度口を開きかけて、また閉じた。
胸の中に、名前のつけられないものがある。
利害の一致では説明できない。
共犯という言葉でも足りない。
信頼とも違う。もっと厄介で、もっと温かい何か。
リゼットはそれに名前をつけなかった。
つけてしまえば、認めることになる。
今はまだ、認めるわけにはいかない。
「帰りましょう。王都に戻るわ」
リゼットは教室を出た。
いつもの背筋。いつもの歩幅。
何も変わっていないように見えた。
カイルは窓の外を見た。
夕陽が沈みかけている。
学院の尖塔が、長い影を落としていた。
扉を叩く音がした。
エリスだ。
息を切らしている。
「カイル。あのですね、今、学院に早馬が来ました。王都からの急報です」
「何があった」
「王太子エドワードが動き始めたと。つまり、ハルバートの蟄居処分の見直しを王室に請願したそうです。それだけじゃない」
エリスは息を整えた。
「王太子が、王立魔法学院の新しい学院長候補を推薦すると声明を出した。学院の人事に王室が直接介入する。あのですね、つまり」
「グラーフが消えた穴を、王太子が埋めようとしている」
「はい。禁書庫の文献を、王室の管理下に置くつもりかもしれません」
カイルは拳を握った。
一つの嵐が去ったと思えば、次の嵐が来る。
王太子エドワード。
婚約騒動のとき撤退した男が、再び動き出した。
だが今は、三人いる。
補正システムの一端を知った。
リゼットの力の意味を知った。
観測者の存在を知った。
王都に戻る。
次の戦いが待っている。
カイルは教室の灯りを消した。
窓の向こうで、最後の夕陽が沈んでいく。
冬の星が一つ、尖塔の上に光り始めていた。
教授会議が全会一致で可決した。
帳簿に記された貴族の名前は二十を超え、金額の総計は学院の年間予算に匹敵した。
三十年間にわたる情報売買。
教義を盾に真実を隠蔽し、学生を退学に追い込んできた男の聖域は、跡形もなく崩れた。
エリスの退学処分も撤回された。
過去に退学させられた学生たちへの調査も始まると、新任の学院長代行が発表した。
禁書庫は封印を解かれ、学術研究のために開放された。
検閲されていた文献の目録が再整備され、欠番だった四百二十番台の論文集が一般閲覧区画に戻された。
エリスが泣いたのは、その発表の直後だった。
渡り廊下の柱の陰で、声を殺して泣いていた。
カイルとリゼットは何も言わずに隣にいた。
嵐は過ぎた。
だが、知るべきことは増えた。
禁書庫から持ち出した古代文献を、三人は学院の空き教室で読み進めた。
エリスが古い書体を解読し、リゼットが論理構造を整理し、カイルがゲーム知識と照合する。
文献の大部分は、補正システムの観測原理を記述していた。
フィリアは世界を「物語」として認識し、登場人物の行動を筋書きに沿わせる力を持つ。
補正は自動的に発動し、逸脱が大きいほど強い力で元の軌道に戻そうとする。
そして最終頁に、一文があった。
『物語が終わるとき、観測者は次の物語を求める』
エリスの指が、その一行で止まった。
「観測者。フィリアを操っている存在がいる」
「フィリア自体は装置にすぎない。誰かがそれを使って、この世界を物語として観測している」
カイルは文面を見つめた。
ゲームの外側。プレイヤーの向こう側。
前世の自分がコントローラーを握っていたとき、画面の中の世界は誰かに観測されていた。
その観測の力が、この世界を物語として縛っている。
「観測者を見つければ、補正システムを止められるかもしれない」
「かもしれない、ね。確証はありませんわ」
リゼットの声は冷静だった。
だが否定はしなかった。
「でも、手がかりはここにはもうない。学院の文献はこれが限界。観測者の正体は、別の場所で探すしかありませんわね」
エリスが頷いた。
「あのですね、地方の修道院にはまだ検閲を逃れた断簡があるかもしれません。ルーカスが見つけたのも地方の修道院でした。つまり、学院の外に情報が散らばっている可能性が」
「それは次の仕事だな」
カイルは文献を閉じた。
今回の成果は十分だ。
フィリアの正体。補正の仕組み。リゼットの魔法がシステムに干渉できるという事実。
そして、観測者の存在。
縦軸が、一段階進んだ。
夕方、エリスが教室を出た後、カイルとリゼットは二人になった。
窓の外に冬の夕焼けが広がっている。
学院の尖塔が茜色に染まっていた。
聖灯の石像が、夕陽を受けて赤く光っている。
昨日までとは違う光だった。
権威の象徴ではなく、ただの石が夕陽に照らされている。それだけの景色だ。
リゼットは窓際に立っていた。
夕陽を見ている。
銀髪が茜色に染まっていた。
「カイル」
「ん?」
「あなたに聞きたいことがある」
リゼットは窓から離れた。
カイルの前に来た。
向かい合う。
近い距離だった。
「前に言ったわよね。私が笑っている世界が見たい、と」
「ああ」
「あれは本気?」
「本気だ」
「なぜ」
カイルは後頭部に手を伸ばしかけて、やめた。
ごまかさない。
「わからない。理屈じゃないんだ。前世で君を見たとき、ただ、間違っていると思った。この結末は間違っていると。それだけだった」
「前世」
リゼットの目が僅かに見開かれた。
だがすぐに戻った。
「いつか、ちゃんと話すと言ったわね」
「ああ。まだ全部は話せない。でも、嘘はつかない」
「知っている。あなたの嘘は下手だから」
リゼットの口の端が、ほんの少し持ち上がった。
笑みとは呼べないほどの、微かな動き。
だがカイルには見えた。
リゼットの右手が伸びた。
カイルの右腕に触れた。
袖の上からだ。
だが紋様の位置を正確になぞった。
手首から肘、肘から肩。
あの夜、宿舎で触れたときと同じ軌跡。
だが力が違った。
あのときは紋様の広がりを確かめるように、指先だけで。
今は、掌ごと。別の理由で。
「増えた」
「ああ。鎖骨の下まで来ている」
リゼットの指が止まった。
肩の上。打撲の痕が薄く残る、紋様の先端。
「約束して」
声が小さかった。
命令ではなかった。
「次に増えたら、すぐ言って。隠さないで。一人で数えないで」
「わかった」
リゼットの手が離れた。
窓から差し込む夕陽が、二人の間を照らしていた。
リゼットは一歩退いた。
何かを言いかけて、やめた。
もう一度口を開きかけて、また閉じた。
胸の中に、名前のつけられないものがある。
利害の一致では説明できない。
共犯という言葉でも足りない。
信頼とも違う。もっと厄介で、もっと温かい何か。
リゼットはそれに名前をつけなかった。
つけてしまえば、認めることになる。
今はまだ、認めるわけにはいかない。
「帰りましょう。王都に戻るわ」
リゼットは教室を出た。
いつもの背筋。いつもの歩幅。
何も変わっていないように見えた。
カイルは窓の外を見た。
夕陽が沈みかけている。
学院の尖塔が、長い影を落としていた。
扉を叩く音がした。
エリスだ。
息を切らしている。
「カイル。あのですね、今、学院に早馬が来ました。王都からの急報です」
「何があった」
「王太子エドワードが動き始めたと。つまり、ハルバートの蟄居処分の見直しを王室に請願したそうです。それだけじゃない」
エリスは息を整えた。
「王太子が、王立魔法学院の新しい学院長候補を推薦すると声明を出した。学院の人事に王室が直接介入する。あのですね、つまり」
「グラーフが消えた穴を、王太子が埋めようとしている」
「はい。禁書庫の文献を、王室の管理下に置くつもりかもしれません」
カイルは拳を握った。
一つの嵐が去ったと思えば、次の嵐が来る。
王太子エドワード。
婚約騒動のとき撤退した男が、再び動き出した。
だが今は、三人いる。
補正システムの一端を知った。
リゼットの力の意味を知った。
観測者の存在を知った。
王都に戻る。
次の戦いが待っている。
カイルは教室の灯りを消した。
窓の向こうで、最後の夕陽が沈んでいく。
冬の星が一つ、尖塔の上に光り始めていた。
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