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「招待状」
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王都に戻った翌朝、雪が降っていた。
ヴェストリア家の別邸の窓から見える屋根が白く染まっている。
暖炉の火だけが音を立てていた。
カイルは着替えの途中で手を止めた。
鏡に映る自分の首筋に、薄い紋様の線が走っている。
鎖骨の下から上に向かって、つたのように。冬服の襟を立てれば隠せる。
だが、あと数ミリ。
顎の下まで伸びれば、どんな襟でも足りなくなる。
カイルは襟を正した。
隠せるうちは、隠す。
リゼットとの約束は守る。増えたら報告する。
だが今は、王都に戻ったばかりだ。他にやることがある。
朝食の席で、使用人が銀の盆に乗せた封書を運んできた。
王室の紋章入りの封ろうだ。
重い紙。上質な手触り。
「冬季大舞踏会への招待状ですわ」
向かいの席でリゼットが同じ封書を開いていた。
クロムウェル公爵家にも届いている。
「主催は王太子殿下。名目は『和解と親睦の宴』ですわ」
リゼットの声は平坦だった。
「ハルバート事件とグラーフ事件の関係者を一堂に集める、と」
だが招待状を持つ指先に、僅かに力がこもっている。
「和解、ね」
「断れば王室への不敬。出席すれば王太子の用意した舞台に上がることになる」
カイルは招待状の文面を読み返した。
丁寧な言い回し。格式に則った書式。一分の隙もない。
だからこそ逃げ場がない。
ゲームの第3章にこのイベントはなかった。
運命の軌道から外れた結果、新しい策略が生まれている。
「出るしかないな」
「ええ。問題はどう出るか、ですわ」
リゼットは紅茶のカップを置いた。
音がしなかった。完璧な所作。
だが視線はカイルの襟元に一瞬だけ留まった。
「紋様は」
「大丈夫だ。襟で隠れる」
「そう」
それ以上は聞かなかった。
約束があるからだ。増えたら自分から言う。
リゼットはそれを信じている。信じると決めた。
午後、舞踏会の準備会合が王宮の小広間で開かれた。
出席者は招待を受けた貴族の代表者たち。席順、進行、警備の打ち合わせ。
形式上は事務的な集まりだった。
小広間に入った瞬間、空気が変わった。
中央の長卓の上座に、一人の女性が座っていた。
金髪を高く結い上げ、深緑のドレスをまとっている。
年齢は四十代後半。顔立ちは穏やかで、口元には微笑が浮かんでいた。
周囲の令嬢たちが花に集まる蝶のように、彼女の両脇に並んでいる。
セレスティーヌ・アッシュフォード公爵夫人。
王太子エドワードの叔母。
五大公爵家の一角を率いる女。
カイルはゲームの記憶を探った。
名前はあった。だが登場は少なかった。
宮廷の背景に時折名前が出る程度の、目立たない存在だった。
それ自体が異常だ。
五大公爵家の当主格が、ゲーム上でほぼ空気扱いになる理由がない。
セレスティーヌの視線がリゼットを捉えた。
「あら。クロムウェル公爵家のリゼットさん」
声は柔らかかった。
母親が迷子の子供に声をかけるような、温かい響き。
「お可哀想に。学院で色々とご苦労されたと聞いておりますわ。お若いのに大変でしたわね」
リゼットは軽く頭を下げた。
「お気遣い恐れ入ります、セレスティーヌ様。ですが、もう済んだことですわ」
「まあ、しっかりしていらっしゃること。でもね、無理はなさらないで。何かあればいつでもこのセレスティーヌを頼ってくださいな」
セレスティーヌは微笑んだ。
温かい笑顔だった。目元に皺が寄り、頬が持ち上がる。
完璧な善意の表情。
だが、カイルの背中に冷たいものが走った。
理由はわからない。
ゲームの記憶にも根拠はない。
ただ、この女の笑みは暖炉の火に似ている。
近づけば暖かい。だが炉の奥は見えない。
会合は滞りなく進んだ。
席順が決まり、入場の順序が確認された。
セレスティーヌは終始にこやかに場を仕切り、どの家にも丁寧に声をかけた。
別邸に戻る馬車の中で、リゼットが口を開いた。
「あの方、学院の件を知っていたわ」
「ああ。俺たちが何をしたか、細かく把握している」
「それだけじゃない。令嬢たちの配置を見た?」
リゼットの目が細くなった。
「あの方の両脇にいた子たちは、五大公爵家の関係者ばかり。あれは後見人の配置ですわ」
リゼットの指が膝の上で組まれた。
「令嬢たちを通じて社交界の情報を掌握している。噂の流通経路も、あの方の手の中ですわ」
「つまり」
「あの方が『お可哀想に』と言った瞬間から、噂は動き始めている。そう考えるのが自然ですわ」
馬車が石畳の上を揺れた。
窓の外で雪が舞っている。
リゼットの予測は正しかった。
翌日から、社交界に噂が広がり始めた。
クロムウェル公爵令嬢の魔力は制御不能。
学院で石壁を粉砕した。
近くにいるだけで魔力に当てられる。
怒り属性は危険すぎる。
噂の出所は特定できなかった。
誰もが「聞いた話」として語り、原典は霧の中に消えている。
三日目の夕方。
カイルが別邸の庭を歩いていたとき、垣根の向こうから声がした。
「あの」
小さな声だった。
振り向くと、若い令嬢が立っていた。
栗色の髪。きゃしゃな体つき。目が大きく、おびえたように揺れている。
見覚えがあった。準備会合で、セレスティーヌの隣に座っていた令嬢の一人だ。
「あの、ヴェストリア様。少しだけ、お時間を」
声が震えていた。
冬の寒さのせいだけではない。
「フィオナ・メルヴィルと申します。男爵家の」
令嬢は周囲を確認した。
誰もいないことを確かめてから、半歩だけ近づいた。
「あの方の言うことを、信じないでください」
「あの方?」
「セレスティーヌ様です。あの方は、優しいお顔で人を壊す方です」
フィオナの声は小さかった。
だが、目だけが真っすぐにカイルを見ていた。
「舞踏会は罠です。クロムウェル令嬢を、社交界から消すための」
雪が二人の間に落ちた。
垣根の葉が白く染まっていく。
フィオナは唇を噛んだ。
何かを言おうとして、飲み込んだ。
そして背を向け、足早に去っていった。
カイルは庭に立ったまま、雪を見ていた。
一つの嵐が去り、次の嵐が来る。
今度の相手は、笑顔で人を殺す女だ。
ヴェストリア家の別邸の窓から見える屋根が白く染まっている。
暖炉の火だけが音を立てていた。
カイルは着替えの途中で手を止めた。
鏡に映る自分の首筋に、薄い紋様の線が走っている。
鎖骨の下から上に向かって、つたのように。冬服の襟を立てれば隠せる。
だが、あと数ミリ。
顎の下まで伸びれば、どんな襟でも足りなくなる。
カイルは襟を正した。
隠せるうちは、隠す。
リゼットとの約束は守る。増えたら報告する。
だが今は、王都に戻ったばかりだ。他にやることがある。
朝食の席で、使用人が銀の盆に乗せた封書を運んできた。
王室の紋章入りの封ろうだ。
重い紙。上質な手触り。
「冬季大舞踏会への招待状ですわ」
向かいの席でリゼットが同じ封書を開いていた。
クロムウェル公爵家にも届いている。
「主催は王太子殿下。名目は『和解と親睦の宴』ですわ」
リゼットの声は平坦だった。
「ハルバート事件とグラーフ事件の関係者を一堂に集める、と」
だが招待状を持つ指先に、僅かに力がこもっている。
「和解、ね」
「断れば王室への不敬。出席すれば王太子の用意した舞台に上がることになる」
カイルは招待状の文面を読み返した。
丁寧な言い回し。格式に則った書式。一分の隙もない。
だからこそ逃げ場がない。
ゲームの第3章にこのイベントはなかった。
運命の軌道から外れた結果、新しい策略が生まれている。
「出るしかないな」
「ええ。問題はどう出るか、ですわ」
リゼットは紅茶のカップを置いた。
音がしなかった。完璧な所作。
だが視線はカイルの襟元に一瞬だけ留まった。
「紋様は」
「大丈夫だ。襟で隠れる」
「そう」
それ以上は聞かなかった。
約束があるからだ。増えたら自分から言う。
リゼットはそれを信じている。信じると決めた。
午後、舞踏会の準備会合が王宮の小広間で開かれた。
出席者は招待を受けた貴族の代表者たち。席順、進行、警備の打ち合わせ。
形式上は事務的な集まりだった。
小広間に入った瞬間、空気が変わった。
中央の長卓の上座に、一人の女性が座っていた。
金髪を高く結い上げ、深緑のドレスをまとっている。
年齢は四十代後半。顔立ちは穏やかで、口元には微笑が浮かんでいた。
周囲の令嬢たちが花に集まる蝶のように、彼女の両脇に並んでいる。
セレスティーヌ・アッシュフォード公爵夫人。
王太子エドワードの叔母。
五大公爵家の一角を率いる女。
カイルはゲームの記憶を探った。
名前はあった。だが登場は少なかった。
宮廷の背景に時折名前が出る程度の、目立たない存在だった。
それ自体が異常だ。
五大公爵家の当主格が、ゲーム上でほぼ空気扱いになる理由がない。
セレスティーヌの視線がリゼットを捉えた。
「あら。クロムウェル公爵家のリゼットさん」
声は柔らかかった。
母親が迷子の子供に声をかけるような、温かい響き。
「お可哀想に。学院で色々とご苦労されたと聞いておりますわ。お若いのに大変でしたわね」
リゼットは軽く頭を下げた。
「お気遣い恐れ入ります、セレスティーヌ様。ですが、もう済んだことですわ」
「まあ、しっかりしていらっしゃること。でもね、無理はなさらないで。何かあればいつでもこのセレスティーヌを頼ってくださいな」
セレスティーヌは微笑んだ。
温かい笑顔だった。目元に皺が寄り、頬が持ち上がる。
完璧な善意の表情。
だが、カイルの背中に冷たいものが走った。
理由はわからない。
ゲームの記憶にも根拠はない。
ただ、この女の笑みは暖炉の火に似ている。
近づけば暖かい。だが炉の奥は見えない。
会合は滞りなく進んだ。
席順が決まり、入場の順序が確認された。
セレスティーヌは終始にこやかに場を仕切り、どの家にも丁寧に声をかけた。
別邸に戻る馬車の中で、リゼットが口を開いた。
「あの方、学院の件を知っていたわ」
「ああ。俺たちが何をしたか、細かく把握している」
「それだけじゃない。令嬢たちの配置を見た?」
リゼットの目が細くなった。
「あの方の両脇にいた子たちは、五大公爵家の関係者ばかり。あれは後見人の配置ですわ」
リゼットの指が膝の上で組まれた。
「令嬢たちを通じて社交界の情報を掌握している。噂の流通経路も、あの方の手の中ですわ」
「つまり」
「あの方が『お可哀想に』と言った瞬間から、噂は動き始めている。そう考えるのが自然ですわ」
馬車が石畳の上を揺れた。
窓の外で雪が舞っている。
リゼットの予測は正しかった。
翌日から、社交界に噂が広がり始めた。
クロムウェル公爵令嬢の魔力は制御不能。
学院で石壁を粉砕した。
近くにいるだけで魔力に当てられる。
怒り属性は危険すぎる。
噂の出所は特定できなかった。
誰もが「聞いた話」として語り、原典は霧の中に消えている。
三日目の夕方。
カイルが別邸の庭を歩いていたとき、垣根の向こうから声がした。
「あの」
小さな声だった。
振り向くと、若い令嬢が立っていた。
栗色の髪。きゃしゃな体つき。目が大きく、おびえたように揺れている。
見覚えがあった。準備会合で、セレスティーヌの隣に座っていた令嬢の一人だ。
「あの、ヴェストリア様。少しだけ、お時間を」
声が震えていた。
冬の寒さのせいだけではない。
「フィオナ・メルヴィルと申します。男爵家の」
令嬢は周囲を確認した。
誰もいないことを確かめてから、半歩だけ近づいた。
「あの方の言うことを、信じないでください」
「あの方?」
「セレスティーヌ様です。あの方は、優しいお顔で人を壊す方です」
フィオナの声は小さかった。
だが、目だけが真っすぐにカイルを見ていた。
「舞踏会は罠です。クロムウェル令嬢を、社交界から消すための」
雪が二人の間に落ちた。
垣根の葉が白く染まっていく。
フィオナは唇を噛んだ。
何かを言おうとして、飲み込んだ。
そして背を向け、足早に去っていった。
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