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「女帝の計算」
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広間に戻ると、空気が変わっていた。
音楽が止まっている。給仕たちが壁際に退き、招待客が壇上に向かって整列し始めていた。
魔導灯の光が一段強くなった。壇上を照らすためだ。
宴の締めくくりの時間だ。
エリスは広間の東側の柱の陰にいた。
胸に革装の帳簿原本を抱え、脇に照合表の紙束を挟んでいる。
カイルたちを見つけると、小走りに駆け寄った。
「あのですね、王太子殿下がもう壇上に向かっています。時間がありません」
「帳簿はあるか」
「はい。原本と、整理した照合表」
カイルは照合表を受け取った。
エリスの手元には帳簿の原本が残っている。
状況証拠だ。確証ではない。
だが待っていれば王太子の宣言が先に来る。
先手を取るしかない。
「エリス、残りの書類の精査も続けてくれ。まだ目を通していない書簡類があるはずだ」
「はい。宴の間も見ます」
「リゼット。俺が喋る。いいか」
「好きにしなさい」
リゼットの声は落ち着いていた。
だが目は広間の壇上を見ていた。
セレスティーヌが王太子のかたわらに立っている。
紫のドレス。微笑み。完璧な立ち姿。
王太子が壇上の中央に立った。
金髪が魔導灯の光を受けて輝いている。
広間が静まった。
「皆様、本日はお集まりいただき感謝する」
王太子の声は通った。穏やかで、威厳がある。
「和解と親睦の宴も終わりに近づいた。ここで一つ、重要な提案を」
カイルが歩き出した。
招待客の列を抜け、壇上の前に出た。
百を超える視線が集まる。
「失礼します、殿下。その前に一言よろしいでしょうか」
広間がざわめいた。
王太子が宣言の途中で遮られることなど、通常はあり得ない。
王太子の眉が僅かに動いた。だがすぐに笑顔に戻った。
「ヴェストリア卿。何かな」
「和解の宴に相応しい話をお持ちしました」
カイルは照合表を掲げた。
「王立魔法学院の経理記録です。グラーフ元学院長の罷免に伴い開示された公式書類です」
広間が静まった。
「この記録には、アッシュフォード公爵家から学院への寄付金が記されています。過去十年分」
セレスティーヌの微笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
だがすぐに戻った。
柔らかく、穏やかに。
「寄付金の時期と金額が、ハルバート侯爵の財務支出と一致しています。ハルバート家の支出の翌月に、同額がアッシュフォード家を経由して学院に入っている。十年間、例外なく」
広間にざわめきが広がった。
貴族たちが互いに目を交わしている。
「不正資金の一部がアッシュフォード家を経由していた。その可能性を示す記録です」
カイルは照合表を開き、該当するページを示した。
「和解を語るなら、この事実の精査が先ではないでしょうか」
沈黙が落ちた。
三秒。五秒。
セレスティーヌが壇上を一歩降りた。
微笑みが戻っている。完璧な微笑み。
「あら。ヴェストリア様。随分と大胆な推測をなさるのね」
声は柔らかかった。だが響きが変わっていた。
母親の声から、裁判官の声に。
「学院への寄付はアッシュフォード家が代々行ってきたもの。時期の一致は偶然ですわ。それを不正の証拠のように語るのは、いささか礼を失していらっしゃいませんこと?」
セレスティーヌは広間を見回した。
「寄付の記録を不正と結びつけるなら、他の寄付者も同罪になりますわよ。この中にも学院に寄付をされた方はいらっしゃるでしょう?」
令嬢たちの何人かが頷いた。
空気が揺れた。カイルの言葉が尖りすぎているように聞こえ始めている。
王太子が口を開いた。
「ヴェストリア卿。和解の宴で根拠の薄い告発をするのは感心しないな。王室が主催する場で、五大公爵家の名誉を傷つけるのは侮辱に等しい」
王太子の声は穏やかだった。
だが「侮辱」という言葉が重石のように落ちた。
招待客の視線がカイルから外れ始めた。
目を伏せる者。扇で口元を隠す者。
誰もカイルの味方につきたくない。
王室と五大公爵家の両方を敵に回す勇気のある者はこの場にいない。
カイルは孤立した。
数分前のリゼットと同じ場所に立っている。
壇上の王太子が見下ろしている。
セレスティーヌが微笑んでいる。
勝利の確信が滲む、静かな笑み。
「そもそも、問題の本質はそこではありませんわ」
セレスティーヌの声が広間に響いた。
「今宵この場で起きたことを、皆様はご覧になったでしょう。令嬢が一人、魔力に当てられて倒れた。クロムウェル令嬢の魔力は制御不能。それを庇い立てするこの方の判断力こそ、問われるべきではなくて?」
視線がリゼットに向いた。
壁際に立つ銀髪の令嬢。
孤立した姿が、セレスティーヌの言葉を裏書きしていた。
カイルの唇が開きかけた。
だが言葉が出る前に、足音が聞こえた。
リゼットが歩いていた。
壁際を離れ、招待客の列を割り、壇上に向かって。
背筋は真っすぐ。足音は一定。
誰にも止められない歩き方だった。
リゼットが壇上の前に立った。
セレスティーヌと向き合った。
若い銀髪と、熟年の金髪。
冷たい美貌と、温かく見える微笑み。
広間の全員が息を止めた。
「私の魔力が危険だと仰るなら」
リゼットの声は静かだった。
だが広間の隅まで届いた。
怒りの魔力が、声に乗っていた。
空気が震えるほどの。だが壊すほどではない。
完璧な制御。
「ご覧に入れましょう」
音楽が止まっている。給仕たちが壁際に退き、招待客が壇上に向かって整列し始めていた。
魔導灯の光が一段強くなった。壇上を照らすためだ。
宴の締めくくりの時間だ。
エリスは広間の東側の柱の陰にいた。
胸に革装の帳簿原本を抱え、脇に照合表の紙束を挟んでいる。
カイルたちを見つけると、小走りに駆け寄った。
「あのですね、王太子殿下がもう壇上に向かっています。時間がありません」
「帳簿はあるか」
「はい。原本と、整理した照合表」
カイルは照合表を受け取った。
エリスの手元には帳簿の原本が残っている。
状況証拠だ。確証ではない。
だが待っていれば王太子の宣言が先に来る。
先手を取るしかない。
「エリス、残りの書類の精査も続けてくれ。まだ目を通していない書簡類があるはずだ」
「はい。宴の間も見ます」
「リゼット。俺が喋る。いいか」
「好きにしなさい」
リゼットの声は落ち着いていた。
だが目は広間の壇上を見ていた。
セレスティーヌが王太子のかたわらに立っている。
紫のドレス。微笑み。完璧な立ち姿。
王太子が壇上の中央に立った。
金髪が魔導灯の光を受けて輝いている。
広間が静まった。
「皆様、本日はお集まりいただき感謝する」
王太子の声は通った。穏やかで、威厳がある。
「和解と親睦の宴も終わりに近づいた。ここで一つ、重要な提案を」
カイルが歩き出した。
招待客の列を抜け、壇上の前に出た。
百を超える視線が集まる。
「失礼します、殿下。その前に一言よろしいでしょうか」
広間がざわめいた。
王太子が宣言の途中で遮られることなど、通常はあり得ない。
王太子の眉が僅かに動いた。だがすぐに笑顔に戻った。
「ヴェストリア卿。何かな」
「和解の宴に相応しい話をお持ちしました」
カイルは照合表を掲げた。
「王立魔法学院の経理記録です。グラーフ元学院長の罷免に伴い開示された公式書類です」
広間が静まった。
「この記録には、アッシュフォード公爵家から学院への寄付金が記されています。過去十年分」
セレスティーヌの微笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
だがすぐに戻った。
柔らかく、穏やかに。
「寄付金の時期と金額が、ハルバート侯爵の財務支出と一致しています。ハルバート家の支出の翌月に、同額がアッシュフォード家を経由して学院に入っている。十年間、例外なく」
広間にざわめきが広がった。
貴族たちが互いに目を交わしている。
「不正資金の一部がアッシュフォード家を経由していた。その可能性を示す記録です」
カイルは照合表を開き、該当するページを示した。
「和解を語るなら、この事実の精査が先ではないでしょうか」
沈黙が落ちた。
三秒。五秒。
セレスティーヌが壇上を一歩降りた。
微笑みが戻っている。完璧な微笑み。
「あら。ヴェストリア様。随分と大胆な推測をなさるのね」
声は柔らかかった。だが響きが変わっていた。
母親の声から、裁判官の声に。
「学院への寄付はアッシュフォード家が代々行ってきたもの。時期の一致は偶然ですわ。それを不正の証拠のように語るのは、いささか礼を失していらっしゃいませんこと?」
セレスティーヌは広間を見回した。
「寄付の記録を不正と結びつけるなら、他の寄付者も同罪になりますわよ。この中にも学院に寄付をされた方はいらっしゃるでしょう?」
令嬢たちの何人かが頷いた。
空気が揺れた。カイルの言葉が尖りすぎているように聞こえ始めている。
王太子が口を開いた。
「ヴェストリア卿。和解の宴で根拠の薄い告発をするのは感心しないな。王室が主催する場で、五大公爵家の名誉を傷つけるのは侮辱に等しい」
王太子の声は穏やかだった。
だが「侮辱」という言葉が重石のように落ちた。
招待客の視線がカイルから外れ始めた。
目を伏せる者。扇で口元を隠す者。
誰もカイルの味方につきたくない。
王室と五大公爵家の両方を敵に回す勇気のある者はこの場にいない。
カイルは孤立した。
数分前のリゼットと同じ場所に立っている。
壇上の王太子が見下ろしている。
セレスティーヌが微笑んでいる。
勝利の確信が滲む、静かな笑み。
「そもそも、問題の本質はそこではありませんわ」
セレスティーヌの声が広間に響いた。
「今宵この場で起きたことを、皆様はご覧になったでしょう。令嬢が一人、魔力に当てられて倒れた。クロムウェル令嬢の魔力は制御不能。それを庇い立てするこの方の判断力こそ、問われるべきではなくて?」
視線がリゼットに向いた。
壁際に立つ銀髪の令嬢。
孤立した姿が、セレスティーヌの言葉を裏書きしていた。
カイルの唇が開きかけた。
だが言葉が出る前に、足音が聞こえた。
リゼットが歩いていた。
壁際を離れ、招待客の列を割り、壇上に向かって。
背筋は真っすぐ。足音は一定。
誰にも止められない歩き方だった。
リゼットが壇上の前に立った。
セレスティーヌと向き合った。
若い銀髪と、熟年の金髪。
冷たい美貌と、温かく見える微笑み。
広間の全員が息を止めた。
「私の魔力が危険だと仰るなら」
リゼットの声は静かだった。
だが広間の隅まで届いた。
怒りの魔力が、声に乗っていた。
空気が震えるほどの。だが壊すほどではない。
完璧な制御。
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