【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

チャビューヘ

文字の大きさ
24 / 34

砂糖菓子の悪意と踏みにじられた指先

しおりを挟む
 朝日が窓から差し込む前から、私は目を覚ましていた。

 眠れなかった。
 昨夜の紫色の煙が、瞼の裏にこびりついて離れない。

 机の引き出しを開ける。
 器の中の液体は、まだ不気味な紫色を保っていた。
 これが証拠。義兄様を蝕んでいた毒の、動かぬ証拠。

 今日、お父様に見せなければ。
 でも、その前にお茶会がある。

 ハインツの招待。
 「素敵な飴菓子」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
 あれは罠だ。私を義兄様と同じ目に遭わせようとしている。

 扉を叩く音がした。

「お嬢様、お支度の時間でございますわ」

 マルタさんの声だ。
 いつもの甘い響きなのに、どこか硬い。

「はあい」

 私は引き出しをそっと閉じた。



 着替えの間、私はマルタさんの様子を観察していた。

 何かがおかしい。

 普段は滑らかに動く指先が、今日はぎこちない。
 ドレスのボタンを留める手が、かすかに震えている。

 そして、袖口から覗いた肌を見て、私は息を呑んだ。

 赤黒い痣。
 火箸を押し当てたような、生々しい火傷の痕。

「マルタさん、腕が」

 言いかけて、口をつぐんだ。
 マルタさんの目が、一瞬だけ鋭くなったからだ。

「何でもありませんわ」

 彼女は素早く袖を下ろした。
 でも、隠しきれなかった。
 手首を覆う布地の下に、さらに痣があるのが見えた。

 あれは、昨日まではなかった傷だ。
 つまり、昨夜。
 ハインツが来てから。

「お嬢様」

 マルタさんの声が、私の思考を遮った。

「本日のお茶会、粗相があってはなりませんわ」

 彼女の目は、いつもの冷たい光を失っていた。
 代わりにあるのは、何か別のもの。
 
 恐怖だ。
 骨の髄まで染み込んだ、絶対的な恐怖。

「絶対に。絶対に、ハインツ様のご機嫌を損ねてはなりません」

 その言葉は、私に向けられたものではなかった。
 彼女は、自分自身に言い聞かせていたのだ。



 中庭に設えられた茶会の席は、まるで絵画のように美しかった。

 白い卓布。
 銀の茶器。
 色とりどりの菓子が並んだ皿。

 そして、その中央に座る男。
 ハインツ。

「やあ、お嬢ちゃん。よく来ましたね」

 砂糖菓子のような声。
 でも、その甘さの奥には、腐った果実の匂いがする。

 私は小さく頭を下げた。
 愚かな子供として、怯えた表情を作る。

「さあ、こちらへ」

 ハインツが手招きする。
 彼の隣には、青ざめた顔のマルタさんが立っていた。

 私が席に着くと、ハインツは満足げに微笑んだ。
 口元だけで笑う、あの嫌な笑い方。

「マルタ、紅茶を」

「は、はい。ただいま」

 マルタさんが茶壺を持ち上げる。
 その手が、ひどく震えていた。

 琥珀色の液体が、白い器に注がれていく。
 いつもなら優雅な所作のはずなのに、今日は危なっかしい。

 その時だった。

 ハインツの手が、不意に動いた。
 まるで虫を払うような、何気ない仕草。
 でも、その指先が茶壺に触れた瞬間。

 熱湯が、マルタさんの手にかかった。

「っ」

 マルタさんの喉から、押し殺した悲鳴が漏れた。
 彼女の手が真っ赤に染まっていく。
 火傷だ。ひどい火傷。

 私は思わず立ち上がりかけた。

「おや」

 ハインツの声が、私を凍りつかせた。

「汚いですね。拭きなさい」

 彼は笑っていた。
 マルタさんの手が熱湯で焼けるのを見て、楽しそうに。
 まるで、道端の虫を踏みつぶす子供のような無邪気さで。

「も、申し訳ございません」

 マルタさんが震える声で謝る。
 彼女は火傷した手で、こぼれた紅茶を拭き始めた。
 赤くただれた皮膚が、白い卓布に触れる。

 痛いはずだ。
 ものすごく、痛いはずなのに。

 マルタさんは涙ひとつ見せなかった。
 ただ黙々と、紅茶を拭いている。

 逆らえないのだ。
 逆らえば、もっとひどいことが待っていると知っているから。

 彼女を縛り付けているのは、忠誠心じゃない。
 逃げ場のない、絶対的な恐怖だ。

 私を毒殺しようとしている敵。
 なのに、その火傷した手を見ていると。
 胸の奥が、チクリと痛んだ。

 この男は、人の痛みがわからないのではない。
 人が痛がる姿を、娯楽として消費しているのだ。

 胃の奥から、苦いものがこみ上げてきた。

「さて、お嬢ちゃん」

 ハインツが私に視線を向けた。
 獲物を見定める蛇のような目。

「お兄様のお加減は、いかがですか?」

 心臓が跳ねた。

「お、義兄様は、お部屋で休んでいます」

「ああ、そうでしたね。出来損ないは、いつまでもベッドの中ですか」

 ハインツが溜息をついた。
 芝居がかった、わざとらしい溜息。

「まあ、長くはないでしょう。あれは元々、虚弱な子でしたから」

 長くはない。
 昨日も、同じことを言った。
 まるで、義兄様が死ぬことを知っているように。

「可哀想に」

 ハインツの声には、同情のかけらもなかった。

「北部の跡取りが倒れては、大公も大変でしょうね。もっとも、あなたという養女がいますが」

 彼の目が、ねっとりと私を舐めるように見る。

「捨て子の養女では、跡は継げませんねえ」

 拳を握りしめる。
 爪が掌に食い込む。

 捨て子じゃない。
 私は、捨てられたんじゃない。
 この人は嫌味でそう言っている。

 でも、言い返せない。
 愚かな子供は、黙っているしかない。

「さあ、お菓子をどうぞ」

 ハインツが皿を差し出した。
 その上には、琥珀色の飴が並んでいる。

 あの飴だ。
 お茶と混ぜれば毒になる、あの飴。

「お兄様と同じものですよ。仲良く、一緒に食べましょう?」

 彼の声は、子供に語りかけるように甘い。
 でも、その目は笑っていない。
 冷たく、爬虫類のように。

「召し上がれ」

 ハインツが飴を一つ取り、私の口元に近づけた。

「おいしいですよ。甘くて、とろけるような」

 指先が、私の唇に触れる。
 冷たい。死体のような冷たさ。

 食べるわけにはいかない。
 でも、断れば何をされるかわからない。
 マルタさんの火傷した手が、頭をよぎる。

 考えろ。
 考えろ、考えろ。

 愚かな子供として、この場を切り抜ける方法を。

「あ、あの」

 私は震える声で言った。

「お、お茶も一緒に飲みたいです」

 ハインツの眉が、かすかに上がった。

「おや、行儀の良い子だ。いいでしょう」

 彼がマルタさんに目配せする。
 マルタさんが、火傷した手で新しい紅茶を淹れ始めた。

 今だ。

 私は、わざと卓に手を伸ばした。
 そして、器に触れたふりをして。

 ガシャン。

 白い器が床に落ちて砕けた。
 琥珀色の紅茶が、石畳に広がっていく。

「あ、あ」

 私は目に涙を溜めた。
 五歳の子供が、粗相をして怯える顔を作る。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」

 わざと大きな声で泣き始めた。
 鼻水まで垂らして、顔をぐしゃぐしゃにする。

「うわああああん」

 ハインツの顔が、一瞬だけ歪んだ。
 苛立ちと、嫌悪。

 彼の眉間に、深い皺が刻まれた。
 この嫌悪感。これは使える。

「まったく」

 彼は溜息をついた。
 だが、次の瞬間。

「では、飴だけでも」

 ハインツの手が、再び飴を掴んだ。
 私の口元に、近づけようとする。

 駄目だ。
 泣くだけじゃ足りない。

「いやあああ! おうちかえるうう!」

 私は椅子から転げ落ちた。
 地面に這いつくばって、わんわん泣きわめく。
 鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら。

 ハインツの手が、止まった。

 彼の顔には、明らかな嫌悪が浮かんでいた。
 泣き叫ぶ子供を、まるで汚物でも見るかのように。

「田舎の子供は、作法も知らないのですね」

 私は泣きじゃくりながら、床にこぼれた紅茶を見た。
 飴は、まだハインツの手の中にある。
 でも、私の口には入っていない。

「も、申し訳ございません。片付けを」

 マルタさんが慌てて動き出す。

 ハインツは不機嫌そうに立ち上がった。
 飴を皿に放り投げる。

「今日はこれで終わりにしましょう。躾のなっていない子供と茶を飲む気分ではない」

 彼は私を見下ろした。
 その目には、明らかな怒りがあった。

「明日、また招待します。今度は、きちんと召し上がっていただきますよ」

 低い声。
 脅迫の響き。

 でも、今日は免れた。
 それだけで十分だ。

「お部屋にお戻りなさい」

 マルタさんが私の手を引く。
 火傷した手で、優しく。
 いや、違う。
 これは優しさじゃない。
 彼女もまた、命じられているだけだ。



 部屋に戻ると、私は扉に背中を預けて崩れ落ちた。

 足が震えている。
 全身から、冷や汗が噴き出していた。

 危なかった。
 本当に、危なかった。

 でも、明日がある。
 明日もまた、同じ罠が待っている。

 今夜中に、お父様に証拠を見せなければ。
 そうしなければ、私は。

 ガチャリ。

 扉が開いた。

「お嬢様」

 執事さんの声だ。
 彼は素早く部屋に入ると、扉を閉めた。

「旦那様がお呼びでございます」

 その言葉に、私は顔を上げた。

「お父様が?」

「はい。今すぐ、書斎へお越しくださいませ」

 執事さんの目が、いつになく真剣だった。

「旦那様が仰いました。『話がある』と」

 胸の奥が、熱く脈打った。

 お父様が、私を呼んでいる。
 今がチャンスだ。

 私は机の引き出しを開けた。
 紫色の液体が入った器を取り出す。

「これを、お父様に見せます」

 執事さんの目が、器を見て大きく見開かれた。

「お嬢様、それは」

「証拠です」

 私は器を胸に抱きしめた。

「義兄様を蝕んでいた毒の、証拠」

 反撃の時だ。
 あの男を追い詰める、切り札を見せる時が来た。

「行きましょう」

 私は執事さんを見上げた。

「お父様のところへ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。

灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。 彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。 タイトル通りのおっさんコメディーです。

幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。

灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。 曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。 婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。 前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。

できない子に転生しましたが、家族と食卓があれば十分です ―人間不信だった私が、ゆっくり育つ異世界生活―

愛朱ひいろ
ファンタジー
人の顔色ばかり伺い、心を壊した26歳の会社員女性。 彼女は死後、異世界で「できない子」として転生する。 魔法は使えない。 体は不器用で、成長も人より遅い。 前世の記憶のせいで、人と関わることが少し怖い。 けれどこの世界には、 見守り支えてくれる両親と、 あたたかい食卓があった。 泣いて、つまずいて、できないことに落ち込みながら、 彼女は少しずつ「できないままでも、生きていていい」と知っていく。 これは、 最強でもチートでもない主人公が、 家族と食事に支えられながら、ゆっくり育ち直す 生活密着型・異世界転生×成長×グルメファンタジー。 ……の、予定です。 毎日更新できるように執筆がんばります!

なぜ、私に関係あるのかしら?

シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」 彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。 そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。 「…レオンハルト・トレヴァントだ」 非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。 そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。 「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」 この判断によって、どうなるかなども考えずに… ※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。 ※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、 ※ 画像はAIにて作成しております

無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……

タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。

侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました

下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。 ご都合主義のSS。 お父様、キャラチェンジが激しくないですか。 小説家になろう様でも投稿しています。 突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!

不倫されて離婚した社畜OLが幼女転生して聖女になりましたが、王国が揉めてて大事にしてもらえないので好きに生きます

天田れおぽん
ファンタジー
 ブラック企業に勤める社畜OL沙羅(サラ)は、結婚したものの不倫されて離婚した。スッキリした気分で明るい未来に期待を馳せるも、公園から飛び出てきた子どもを助けたことで、弱っていた心臓が止まってしまい死亡。同情した女神が、黒髪黒目中肉中背バツイチの沙羅を、銀髪碧眼3歳児の聖女として異世界へと転生させてくれた。  ところが王国内で聖女の処遇で揉めていて、転生先は草原だった。  サラは女神がくれた山盛りてんこ盛りのスキルを使い、異世界で知り合ったモフモフたちと暮らし始める―――― ※第16話 あつまれ聖獣の森 6 が抜けていましたので2025/07/30に追加しました。

王国最強の天才魔導士は、追放された悪役令嬢の息子でした

由香
ファンタジー
追放された悪役令嬢が選んだのは復讐ではなく、母として息子を守ること。 無自覚天才に育った息子は、魔法を遊び感覚で扱い、王国を震撼させてしまう。 再び招かれたのは、かつて母を追放した国。 礼儀正しく圧倒する息子と、静かに完全勝利する母。 これは、親子が選ぶ“最も美しいざまぁ”。

処理中です...