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砂糖菓子の悪意と踏みにじられた指先
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朝日が窓から差し込む前から、私は目を覚ましていた。
眠れなかった。
昨夜の紫色の煙が、瞼の裏にこびりついて離れない。
机の引き出しを開ける。
器の中の液体は、まだ不気味な紫色を保っていた。
これが証拠。義兄様を蝕んでいた毒の、動かぬ証拠。
今日、お父様に見せなければ。
でも、その前にお茶会がある。
ハインツの招待。
「素敵な飴菓子」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
あれは罠だ。私を義兄様と同じ目に遭わせようとしている。
扉を叩く音がした。
「お嬢様、お支度の時間でございますわ」
マルタさんの声だ。
いつもの甘い響きなのに、どこか硬い。
「はあい」
私は引き出しをそっと閉じた。
着替えの間、私はマルタさんの様子を観察していた。
何かがおかしい。
普段は滑らかに動く指先が、今日はぎこちない。
ドレスのボタンを留める手が、かすかに震えている。
そして、袖口から覗いた肌を見て、私は息を呑んだ。
赤黒い痣。
火箸を押し当てたような、生々しい火傷の痕。
「マルタさん、腕が」
言いかけて、口をつぐんだ。
マルタさんの目が、一瞬だけ鋭くなったからだ。
「何でもありませんわ」
彼女は素早く袖を下ろした。
でも、隠しきれなかった。
手首を覆う布地の下に、さらに痣があるのが見えた。
あれは、昨日まではなかった傷だ。
つまり、昨夜。
ハインツが来てから。
「お嬢様」
マルタさんの声が、私の思考を遮った。
「本日のお茶会、粗相があってはなりませんわ」
彼女の目は、いつもの冷たい光を失っていた。
代わりにあるのは、何か別のもの。
恐怖だ。
骨の髄まで染み込んだ、絶対的な恐怖。
「絶対に。絶対に、ハインツ様のご機嫌を損ねてはなりません」
その言葉は、私に向けられたものではなかった。
彼女は、自分自身に言い聞かせていたのだ。
中庭に設えられた茶会の席は、まるで絵画のように美しかった。
白い卓布。
銀の茶器。
色とりどりの菓子が並んだ皿。
そして、その中央に座る男。
ハインツ。
「やあ、お嬢ちゃん。よく来ましたね」
砂糖菓子のような声。
でも、その甘さの奥には、腐った果実の匂いがする。
私は小さく頭を下げた。
愚かな子供として、怯えた表情を作る。
「さあ、こちらへ」
ハインツが手招きする。
彼の隣には、青ざめた顔のマルタさんが立っていた。
私が席に着くと、ハインツは満足げに微笑んだ。
口元だけで笑う、あの嫌な笑い方。
「マルタ、紅茶を」
「は、はい。ただいま」
マルタさんが茶壺を持ち上げる。
その手が、ひどく震えていた。
琥珀色の液体が、白い器に注がれていく。
いつもなら優雅な所作のはずなのに、今日は危なっかしい。
その時だった。
ハインツの手が、不意に動いた。
まるで虫を払うような、何気ない仕草。
でも、その指先が茶壺に触れた瞬間。
熱湯が、マルタさんの手にかかった。
「っ」
マルタさんの喉から、押し殺した悲鳴が漏れた。
彼女の手が真っ赤に染まっていく。
火傷だ。ひどい火傷。
私は思わず立ち上がりかけた。
「おや」
ハインツの声が、私を凍りつかせた。
「汚いですね。拭きなさい」
彼は笑っていた。
マルタさんの手が熱湯で焼けるのを見て、楽しそうに。
まるで、道端の虫を踏みつぶす子供のような無邪気さで。
「も、申し訳ございません」
マルタさんが震える声で謝る。
彼女は火傷した手で、こぼれた紅茶を拭き始めた。
赤くただれた皮膚が、白い卓布に触れる。
痛いはずだ。
ものすごく、痛いはずなのに。
マルタさんは涙ひとつ見せなかった。
ただ黙々と、紅茶を拭いている。
逆らえないのだ。
逆らえば、もっとひどいことが待っていると知っているから。
彼女を縛り付けているのは、忠誠心じゃない。
逃げ場のない、絶対的な恐怖だ。
私を毒殺しようとしている敵。
なのに、その火傷した手を見ていると。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
この男は、人の痛みがわからないのではない。
人が痛がる姿を、娯楽として消費しているのだ。
胃の奥から、苦いものがこみ上げてきた。
「さて、お嬢ちゃん」
ハインツが私に視線を向けた。
獲物を見定める蛇のような目。
「お兄様のお加減は、いかがですか?」
心臓が跳ねた。
「お、義兄様は、お部屋で休んでいます」
「ああ、そうでしたね。出来損ないは、いつまでもベッドの中ですか」
ハインツが溜息をついた。
芝居がかった、わざとらしい溜息。
「まあ、長くはないでしょう。あれは元々、虚弱な子でしたから」
長くはない。
昨日も、同じことを言った。
まるで、義兄様が死ぬことを知っているように。
「可哀想に」
ハインツの声には、同情のかけらもなかった。
「北部の跡取りが倒れては、大公も大変でしょうね。もっとも、あなたという養女がいますが」
彼の目が、ねっとりと私を舐めるように見る。
「捨て子の養女では、跡は継げませんねえ」
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込む。
捨て子じゃない。
私は、捨てられたんじゃない。
この人は嫌味でそう言っている。
でも、言い返せない。
愚かな子供は、黙っているしかない。
「さあ、お菓子をどうぞ」
ハインツが皿を差し出した。
その上には、琥珀色の飴が並んでいる。
あの飴だ。
お茶と混ぜれば毒になる、あの飴。
「お兄様と同じものですよ。仲良く、一緒に食べましょう?」
彼の声は、子供に語りかけるように甘い。
でも、その目は笑っていない。
冷たく、爬虫類のように。
「召し上がれ」
ハインツが飴を一つ取り、私の口元に近づけた。
「おいしいですよ。甘くて、とろけるような」
指先が、私の唇に触れる。
冷たい。死体のような冷たさ。
食べるわけにはいかない。
でも、断れば何をされるかわからない。
マルタさんの火傷した手が、頭をよぎる。
考えろ。
考えろ、考えろ。
愚かな子供として、この場を切り抜ける方法を。
「あ、あの」
私は震える声で言った。
「お、お茶も一緒に飲みたいです」
ハインツの眉が、かすかに上がった。
「おや、行儀の良い子だ。いいでしょう」
彼がマルタさんに目配せする。
マルタさんが、火傷した手で新しい紅茶を淹れ始めた。
今だ。
私は、わざと卓に手を伸ばした。
そして、器に触れたふりをして。
ガシャン。
白い器が床に落ちて砕けた。
琥珀色の紅茶が、石畳に広がっていく。
「あ、あ」
私は目に涙を溜めた。
五歳の子供が、粗相をして怯える顔を作る。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
わざと大きな声で泣き始めた。
鼻水まで垂らして、顔をぐしゃぐしゃにする。
「うわああああん」
ハインツの顔が、一瞬だけ歪んだ。
苛立ちと、嫌悪。
彼の眉間に、深い皺が刻まれた。
この嫌悪感。これは使える。
「まったく」
彼は溜息をついた。
だが、次の瞬間。
「では、飴だけでも」
ハインツの手が、再び飴を掴んだ。
私の口元に、近づけようとする。
駄目だ。
泣くだけじゃ足りない。
「いやあああ! おうちかえるうう!」
私は椅子から転げ落ちた。
地面に這いつくばって、わんわん泣きわめく。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら。
ハインツの手が、止まった。
彼の顔には、明らかな嫌悪が浮かんでいた。
泣き叫ぶ子供を、まるで汚物でも見るかのように。
「田舎の子供は、作法も知らないのですね」
私は泣きじゃくりながら、床にこぼれた紅茶を見た。
飴は、まだハインツの手の中にある。
でも、私の口には入っていない。
「も、申し訳ございません。片付けを」
マルタさんが慌てて動き出す。
ハインツは不機嫌そうに立ち上がった。
飴を皿に放り投げる。
「今日はこれで終わりにしましょう。躾のなっていない子供と茶を飲む気分ではない」
彼は私を見下ろした。
その目には、明らかな怒りがあった。
「明日、また招待します。今度は、きちんと召し上がっていただきますよ」
低い声。
脅迫の響き。
でも、今日は免れた。
それだけで十分だ。
「お部屋にお戻りなさい」
マルタさんが私の手を引く。
火傷した手で、優しく。
いや、違う。
これは優しさじゃない。
彼女もまた、命じられているだけだ。
部屋に戻ると、私は扉に背中を預けて崩れ落ちた。
足が震えている。
全身から、冷や汗が噴き出していた。
危なかった。
本当に、危なかった。
でも、明日がある。
明日もまた、同じ罠が待っている。
今夜中に、お父様に証拠を見せなければ。
そうしなければ、私は。
ガチャリ。
扉が開いた。
「お嬢様」
執事さんの声だ。
彼は素早く部屋に入ると、扉を閉めた。
「旦那様がお呼びでございます」
その言葉に、私は顔を上げた。
「お父様が?」
「はい。今すぐ、書斎へお越しくださいませ」
執事さんの目が、いつになく真剣だった。
「旦那様が仰いました。『話がある』と」
胸の奥が、熱く脈打った。
お父様が、私を呼んでいる。
今がチャンスだ。
私は机の引き出しを開けた。
紫色の液体が入った器を取り出す。
「これを、お父様に見せます」
執事さんの目が、器を見て大きく見開かれた。
「お嬢様、それは」
「証拠です」
私は器を胸に抱きしめた。
「義兄様を蝕んでいた毒の、証拠」
反撃の時だ。
あの男を追い詰める、切り札を見せる時が来た。
「行きましょう」
私は執事さんを見上げた。
「お父様のところへ」
眠れなかった。
昨夜の紫色の煙が、瞼の裏にこびりついて離れない。
机の引き出しを開ける。
器の中の液体は、まだ不気味な紫色を保っていた。
これが証拠。義兄様を蝕んでいた毒の、動かぬ証拠。
今日、お父様に見せなければ。
でも、その前にお茶会がある。
ハインツの招待。
「素敵な飴菓子」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
あれは罠だ。私を義兄様と同じ目に遭わせようとしている。
扉を叩く音がした。
「お嬢様、お支度の時間でございますわ」
マルタさんの声だ。
いつもの甘い響きなのに、どこか硬い。
「はあい」
私は引き出しをそっと閉じた。
着替えの間、私はマルタさんの様子を観察していた。
何かがおかしい。
普段は滑らかに動く指先が、今日はぎこちない。
ドレスのボタンを留める手が、かすかに震えている。
そして、袖口から覗いた肌を見て、私は息を呑んだ。
赤黒い痣。
火箸を押し当てたような、生々しい火傷の痕。
「マルタさん、腕が」
言いかけて、口をつぐんだ。
マルタさんの目が、一瞬だけ鋭くなったからだ。
「何でもありませんわ」
彼女は素早く袖を下ろした。
でも、隠しきれなかった。
手首を覆う布地の下に、さらに痣があるのが見えた。
あれは、昨日まではなかった傷だ。
つまり、昨夜。
ハインツが来てから。
「お嬢様」
マルタさんの声が、私の思考を遮った。
「本日のお茶会、粗相があってはなりませんわ」
彼女の目は、いつもの冷たい光を失っていた。
代わりにあるのは、何か別のもの。
恐怖だ。
骨の髄まで染み込んだ、絶対的な恐怖。
「絶対に。絶対に、ハインツ様のご機嫌を損ねてはなりません」
その言葉は、私に向けられたものではなかった。
彼女は、自分自身に言い聞かせていたのだ。
中庭に設えられた茶会の席は、まるで絵画のように美しかった。
白い卓布。
銀の茶器。
色とりどりの菓子が並んだ皿。
そして、その中央に座る男。
ハインツ。
「やあ、お嬢ちゃん。よく来ましたね」
砂糖菓子のような声。
でも、その甘さの奥には、腐った果実の匂いがする。
私は小さく頭を下げた。
愚かな子供として、怯えた表情を作る。
「さあ、こちらへ」
ハインツが手招きする。
彼の隣には、青ざめた顔のマルタさんが立っていた。
私が席に着くと、ハインツは満足げに微笑んだ。
口元だけで笑う、あの嫌な笑い方。
「マルタ、紅茶を」
「は、はい。ただいま」
マルタさんが茶壺を持ち上げる。
その手が、ひどく震えていた。
琥珀色の液体が、白い器に注がれていく。
いつもなら優雅な所作のはずなのに、今日は危なっかしい。
その時だった。
ハインツの手が、不意に動いた。
まるで虫を払うような、何気ない仕草。
でも、その指先が茶壺に触れた瞬間。
熱湯が、マルタさんの手にかかった。
「っ」
マルタさんの喉から、押し殺した悲鳴が漏れた。
彼女の手が真っ赤に染まっていく。
火傷だ。ひどい火傷。
私は思わず立ち上がりかけた。
「おや」
ハインツの声が、私を凍りつかせた。
「汚いですね。拭きなさい」
彼は笑っていた。
マルタさんの手が熱湯で焼けるのを見て、楽しそうに。
まるで、道端の虫を踏みつぶす子供のような無邪気さで。
「も、申し訳ございません」
マルタさんが震える声で謝る。
彼女は火傷した手で、こぼれた紅茶を拭き始めた。
赤くただれた皮膚が、白い卓布に触れる。
痛いはずだ。
ものすごく、痛いはずなのに。
マルタさんは涙ひとつ見せなかった。
ただ黙々と、紅茶を拭いている。
逆らえないのだ。
逆らえば、もっとひどいことが待っていると知っているから。
彼女を縛り付けているのは、忠誠心じゃない。
逃げ場のない、絶対的な恐怖だ。
私を毒殺しようとしている敵。
なのに、その火傷した手を見ていると。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
この男は、人の痛みがわからないのではない。
人が痛がる姿を、娯楽として消費しているのだ。
胃の奥から、苦いものがこみ上げてきた。
「さて、お嬢ちゃん」
ハインツが私に視線を向けた。
獲物を見定める蛇のような目。
「お兄様のお加減は、いかがですか?」
心臓が跳ねた。
「お、義兄様は、お部屋で休んでいます」
「ああ、そうでしたね。出来損ないは、いつまでもベッドの中ですか」
ハインツが溜息をついた。
芝居がかった、わざとらしい溜息。
「まあ、長くはないでしょう。あれは元々、虚弱な子でしたから」
長くはない。
昨日も、同じことを言った。
まるで、義兄様が死ぬことを知っているように。
「可哀想に」
ハインツの声には、同情のかけらもなかった。
「北部の跡取りが倒れては、大公も大変でしょうね。もっとも、あなたという養女がいますが」
彼の目が、ねっとりと私を舐めるように見る。
「捨て子の養女では、跡は継げませんねえ」
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込む。
捨て子じゃない。
私は、捨てられたんじゃない。
この人は嫌味でそう言っている。
でも、言い返せない。
愚かな子供は、黙っているしかない。
「さあ、お菓子をどうぞ」
ハインツが皿を差し出した。
その上には、琥珀色の飴が並んでいる。
あの飴だ。
お茶と混ぜれば毒になる、あの飴。
「お兄様と同じものですよ。仲良く、一緒に食べましょう?」
彼の声は、子供に語りかけるように甘い。
でも、その目は笑っていない。
冷たく、爬虫類のように。
「召し上がれ」
ハインツが飴を一つ取り、私の口元に近づけた。
「おいしいですよ。甘くて、とろけるような」
指先が、私の唇に触れる。
冷たい。死体のような冷たさ。
食べるわけにはいかない。
でも、断れば何をされるかわからない。
マルタさんの火傷した手が、頭をよぎる。
考えろ。
考えろ、考えろ。
愚かな子供として、この場を切り抜ける方法を。
「あ、あの」
私は震える声で言った。
「お、お茶も一緒に飲みたいです」
ハインツの眉が、かすかに上がった。
「おや、行儀の良い子だ。いいでしょう」
彼がマルタさんに目配せする。
マルタさんが、火傷した手で新しい紅茶を淹れ始めた。
今だ。
私は、わざと卓に手を伸ばした。
そして、器に触れたふりをして。
ガシャン。
白い器が床に落ちて砕けた。
琥珀色の紅茶が、石畳に広がっていく。
「あ、あ」
私は目に涙を溜めた。
五歳の子供が、粗相をして怯える顔を作る。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい」
わざと大きな声で泣き始めた。
鼻水まで垂らして、顔をぐしゃぐしゃにする。
「うわああああん」
ハインツの顔が、一瞬だけ歪んだ。
苛立ちと、嫌悪。
彼の眉間に、深い皺が刻まれた。
この嫌悪感。これは使える。
「まったく」
彼は溜息をついた。
だが、次の瞬間。
「では、飴だけでも」
ハインツの手が、再び飴を掴んだ。
私の口元に、近づけようとする。
駄目だ。
泣くだけじゃ足りない。
「いやあああ! おうちかえるうう!」
私は椅子から転げ落ちた。
地面に這いつくばって、わんわん泣きわめく。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら。
ハインツの手が、止まった。
彼の顔には、明らかな嫌悪が浮かんでいた。
泣き叫ぶ子供を、まるで汚物でも見るかのように。
「田舎の子供は、作法も知らないのですね」
私は泣きじゃくりながら、床にこぼれた紅茶を見た。
飴は、まだハインツの手の中にある。
でも、私の口には入っていない。
「も、申し訳ございません。片付けを」
マルタさんが慌てて動き出す。
ハインツは不機嫌そうに立ち上がった。
飴を皿に放り投げる。
「今日はこれで終わりにしましょう。躾のなっていない子供と茶を飲む気分ではない」
彼は私を見下ろした。
その目には、明らかな怒りがあった。
「明日、また招待します。今度は、きちんと召し上がっていただきますよ」
低い声。
脅迫の響き。
でも、今日は免れた。
それだけで十分だ。
「お部屋にお戻りなさい」
マルタさんが私の手を引く。
火傷した手で、優しく。
いや、違う。
これは優しさじゃない。
彼女もまた、命じられているだけだ。
部屋に戻ると、私は扉に背中を預けて崩れ落ちた。
足が震えている。
全身から、冷や汗が噴き出していた。
危なかった。
本当に、危なかった。
でも、明日がある。
明日もまた、同じ罠が待っている。
今夜中に、お父様に証拠を見せなければ。
そうしなければ、私は。
ガチャリ。
扉が開いた。
「お嬢様」
執事さんの声だ。
彼は素早く部屋に入ると、扉を閉めた。
「旦那様がお呼びでございます」
その言葉に、私は顔を上げた。
「お父様が?」
「はい。今すぐ、書斎へお越しくださいませ」
執事さんの目が、いつになく真剣だった。
「旦那様が仰いました。『話がある』と」
胸の奥が、熱く脈打った。
お父様が、私を呼んでいる。
今がチャンスだ。
私は机の引き出しを開けた。
紫色の液体が入った器を取り出す。
「これを、お父様に見せます」
執事さんの目が、器を見て大きく見開かれた。
「お嬢様、それは」
「証拠です」
私は器を胸に抱きしめた。
「義兄様を蝕んでいた毒の、証拠」
反撃の時だ。
あの男を追い詰める、切り札を見せる時が来た。
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