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紫煙と獅子の爪
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報告は、絶望だった。
「シロ、でございます」
執事さんの声が、自室に響く。
私は、自分の耳を疑った。
「え……?」
「お茶に毒が含まれているか調べましたが、害のあるものは見つかりませんでした」
執事さんの表情は、苦しげに歪んでいた。
彼自身も、この結果を信じたくないのだろう。
「飴も同様でございます。王都で広く流通している、一般的な菓子でございました」
足元が、崩れていく感覚。
あれほど確信していたのに。
あのお茶が義兄様を蝕んでいると、信じていたのに。
「そんな……だって、義兄様は……」
「申し訳ございません。私の調査が、至らなかったのかもしれません」
執事さんが、深く頭を下げる。
その肩が、かすかに震えていた。
違う。
彼のせいじゃない。
むしろ、危険を冒してまで動いてくれた。
それなのに、私は。
お父様の言葉が、頭をよぎる。
単体では無害でも、混ぜれば毒になる。
混ぜれば。
お茶と飴を、混ぜれば?
まさか。
そういうこと?
「執事さん」
「はい」
「お茶と飴を、別々に調べたの?」
執事さんの眉が、わずかに上がった。
「はい。それぞれ単体で、毒かどうかを確かめました」
「一緒に……混ぜたことは?」
長い沈黙。
執事さんの目が、鋭くなった。
「……いいえ。その発想は、ございませんでした。時間もなく」
私は、唇を噛んだ。
まだ、終わりじゃない。
試してみなければ。
「執事さん、お茶と飴を少しだけ、私に」
「お嬢様」
執事さんの声が、低くなった。
何かを察したような、鋭い目。
「……承知いたしました。ただし、くれぐれもお気をつけください」
小さな包みが、私の手に渡された。
琥珀色のお茶の粉と、飴が一粒。
これで、試せる。
お父様の言葉が正しければ、何かが起こるはずだ。
その日の午後。
屋敷が、にわかに騒がしくなった。
馬車の音。
兵士たちの足音。
使用人たちの慌ただしい声。
「お客様だ」
廊下を走り回る侍女たちの会話が聞こえた。
王都からの、お客様。
つまり、「あの方」が到着したのだ。
数日前に執事さんが言っていた、あの方。
マルタさんが報告しようとしていた、あの方。
胃の奥が、重くなった。
玄関ホールに呼び出された。
お父様の隣に立つ。
義兄様は、まだ安静中で姿がない。
正面の扉が、開いた。
入ってきたのは、細い男だった。
金糸の刺繍が施された上着。
胸元には、獅子の紋章。
王家の、紋章。
「久しぶりですね、ヴェルナー公」
男の声は、砂糖菓子みたいに甘かった。
でも、その甘さの奥に、何か腐ったものが混じっている。
「ハインツ」
お父様の声は、いつもより低かった。
たった一言なのに、空気が凍りついた。
隣に立つお父様の手が、私の肩にそっと置かれた。
重い。けれど、温かい。
「相変わらずお堅い。まあ、野蛮な北の獣には、挨拶など無用ですか」
男が、笑った。
口元だけで笑う、嫌な笑い方。
目は、全く笑っていなかった。
「そういえば、ご子息がお倒れになったとか。お気の毒に」
男の目が、ちらりとお父様を見た。
「まあ、あれは元々、出来損ないでしたからね。長くはないでしょう」
喉が、きゅっと絞まった。
今、この男は何と言った?
出来損ない。
義兄様を、出来損ないと。
拳を握りしめる。
爪が、掌に食い込んだ。
「こちらが、例の庶子ですか」
男の視線が、私に向けられた。
品定めするような、ねっとりとした目。
皮膚が粟立つ。
「ほう。なかなか可愛らしい」
男が、近づいてきた。
お父様の横をすり抜けて、私の前に立つ。
「怯えなくていいのですよ、お嬢ちゃん」
白い手袋をした指が、私の顎に触れた。
冷たい。
まるで死体みたいに。
「私は王家の査察官。この屋敷の様子を、しばらく見せていただくだけです」
顎を持ち上げられる。
男の顔が、近い。
整った顔立ちなのに、どこか歪んでいる。
「ふむ。先妻の忘れ形見にしては、あまり似ていませんね」
心臓が、跳ねた。
この男、何を知っている?
「まあ、どうでもいいことです。所詮は、捨て子でしょう?」
違う。
私は、捨て子なんかじゃない。
捨てられたんじゃない。
でも、言い返せなかった。
愚かな子供は、黙っているしかない。
男の笑みが、深くなった。
その瞬間だった。
パリン、と音がした。
窓ガラスに、細いヒビが入っていた。
寒気がした。
部屋の温度が、一気に下がった気がする。
振り返ると、お父様が立っていた。
無表情。でも、灰色の瞳が、凍りついている。
「手を、離せ」
短い言葉。
でも、その声には、殺意が滲んでいた。
男の顔から、一瞬だけ笑みが消えた。
でも、すぐに元の甘い表情に戻る。
「おや、これは失礼。つい、可愛らしいものには手が伸びてしまう性分でして」
男の手が、私の顎から離れた。
指先が、私の髪を撫でるように滑っていく。
「しばらくお世話になりますよ、北部大公。それと……」
男が、私を見下ろした。
「お嬢ちゃんも、仲良くしましょうね」
夜。
私は、自室で息を潜めていた。
あの男、ハインツ。
王家の査察官。
何が目的で、この屋敷に来たのか。
マルタさんとの関係は?
義兄様が倒れたことと、何か関係があるのか?
考えても、分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
あの男は、敵だ。
義兄様を「出来損ない」と呼んだ、あの男。
絶対に、許さない。
窓の外を見つめながら、机の上の包みを開いた。
執事さんがくれた、お茶の粉と飴。
試してみよう。
今夜しかない。
あの男がいる間は、自由に動けなくなる。
小さな器に、少量の水を注ぐ。
お茶の粉を入れる。
琥珀色の液体が、揺れる。
深呼吸。
飴を、器の中に落とした。
最初は、何も起こらなかった。
飴がゆっくり溶けていく。
琥珀色と琥珀色が、混ざり合う。
その時だった。
液体の色が、変わり始めた。
琥珀色から、くすんだ紫へ。
そして、器の縁から、細い煙が立ち上った。
鼻を刺す、甘ったるい匂い。
砂糖が焦げたような、でも、どこか腐ったような。
紫色の、煙。
「っ……!」
思わず、声が漏れた。
お父様の言葉は、正しかった。
単体では無害でも、混ぜれば毒になる。
これが、義兄様を蝕んでいた「因」。
その瞬間、ドアノブが回る音がした。
指先が、氷のように冷たくなった。
とっさに、器を布団の中に押し込んだ。
熱い。でも、我慢する。
ベッドに飛び込んで、毛布を被る。
目を閉じた。
寝たふりをする。
扉が開く音。
足音が、近づいてくる。
「……変な匂いがしますわね」
マルタさんの声だ。
胸の奥が、締めあげられる。
足音が、部屋の中を歩き回る。
窓際。
机の前で、一度止まった。
引き出しに、手を伸ばしているのか。
いや、違う。また歩き出した。
そして、ベッドのそば。
「お嬢様、起きていらっしゃいます?」
声をかけられた。
でも、答えない。
息を殺して、眠ったふりを続ける。
長い沈黙。
「……ふうん」
マルタさんの声には、何か計算しているような響きがあった。
「明日、ハインツ様がお嬢様をお茶に招きたいそうですわ。素敵な飴菓子もご用意いただけるとか」
足音が、遠ざかっていく。
扉が閉まる音。
しばらく、動けなかった。
毛布の中で、器を取り出す。
紫色の液体は、もう煙を出していなかった。
でも、不気味な色は、そのまま残っている。
証拠だ。
これが、証拠。
私は、震える手で器を握りしめた。
掌が、少しだけヒリヒリする。
でも、そんなことはどうでもいい。
見つけた。
尻尾を、掴んだ。
マルタさんが、毎日義兄様にお茶を勧めていた姿が浮かぶ。
あの笑顔の下に隠された、冷たい光。
点と点が、線になっていく。
窓の外で、月が雲から顔を出した。
冷たい光が、紫色の液体を照らす。
明日、あの男は私をお茶に誘うと言った。
飴菓子も用意すると。
罠だ。
私も、義兄様と同じ目に遭わせようとしている。
でも、もう騙されない。
私は、器を机の引き出しにしまった。
証拠は、隠しておく。
お父様に見せるまで、絶対に。
遠くで、義兄様の部屋の方から、かすかな咳の音が聞こえた。
まだ、苦しんでいる。
まだ、あの毒に蝕まれている。
「待っていて」
小さく、呟いた。
「必ず、助けるから」
引き出しの中の、紫色の液体。
それは、義兄様を守るための剣。
そして、あの男を追い詰めるための鍵。
明日から、反撃が始まる。
「シロ、でございます」
執事さんの声が、自室に響く。
私は、自分の耳を疑った。
「え……?」
「お茶に毒が含まれているか調べましたが、害のあるものは見つかりませんでした」
執事さんの表情は、苦しげに歪んでいた。
彼自身も、この結果を信じたくないのだろう。
「飴も同様でございます。王都で広く流通している、一般的な菓子でございました」
足元が、崩れていく感覚。
あれほど確信していたのに。
あのお茶が義兄様を蝕んでいると、信じていたのに。
「そんな……だって、義兄様は……」
「申し訳ございません。私の調査が、至らなかったのかもしれません」
執事さんが、深く頭を下げる。
その肩が、かすかに震えていた。
違う。
彼のせいじゃない。
むしろ、危険を冒してまで動いてくれた。
それなのに、私は。
お父様の言葉が、頭をよぎる。
単体では無害でも、混ぜれば毒になる。
混ぜれば。
お茶と飴を、混ぜれば?
まさか。
そういうこと?
「執事さん」
「はい」
「お茶と飴を、別々に調べたの?」
執事さんの眉が、わずかに上がった。
「はい。それぞれ単体で、毒かどうかを確かめました」
「一緒に……混ぜたことは?」
長い沈黙。
執事さんの目が、鋭くなった。
「……いいえ。その発想は、ございませんでした。時間もなく」
私は、唇を噛んだ。
まだ、終わりじゃない。
試してみなければ。
「執事さん、お茶と飴を少しだけ、私に」
「お嬢様」
執事さんの声が、低くなった。
何かを察したような、鋭い目。
「……承知いたしました。ただし、くれぐれもお気をつけください」
小さな包みが、私の手に渡された。
琥珀色のお茶の粉と、飴が一粒。
これで、試せる。
お父様の言葉が正しければ、何かが起こるはずだ。
その日の午後。
屋敷が、にわかに騒がしくなった。
馬車の音。
兵士たちの足音。
使用人たちの慌ただしい声。
「お客様だ」
廊下を走り回る侍女たちの会話が聞こえた。
王都からの、お客様。
つまり、「あの方」が到着したのだ。
数日前に執事さんが言っていた、あの方。
マルタさんが報告しようとしていた、あの方。
胃の奥が、重くなった。
玄関ホールに呼び出された。
お父様の隣に立つ。
義兄様は、まだ安静中で姿がない。
正面の扉が、開いた。
入ってきたのは、細い男だった。
金糸の刺繍が施された上着。
胸元には、獅子の紋章。
王家の、紋章。
「久しぶりですね、ヴェルナー公」
男の声は、砂糖菓子みたいに甘かった。
でも、その甘さの奥に、何か腐ったものが混じっている。
「ハインツ」
お父様の声は、いつもより低かった。
たった一言なのに、空気が凍りついた。
隣に立つお父様の手が、私の肩にそっと置かれた。
重い。けれど、温かい。
「相変わらずお堅い。まあ、野蛮な北の獣には、挨拶など無用ですか」
男が、笑った。
口元だけで笑う、嫌な笑い方。
目は、全く笑っていなかった。
「そういえば、ご子息がお倒れになったとか。お気の毒に」
男の目が、ちらりとお父様を見た。
「まあ、あれは元々、出来損ないでしたからね。長くはないでしょう」
喉が、きゅっと絞まった。
今、この男は何と言った?
出来損ない。
義兄様を、出来損ないと。
拳を握りしめる。
爪が、掌に食い込んだ。
「こちらが、例の庶子ですか」
男の視線が、私に向けられた。
品定めするような、ねっとりとした目。
皮膚が粟立つ。
「ほう。なかなか可愛らしい」
男が、近づいてきた。
お父様の横をすり抜けて、私の前に立つ。
「怯えなくていいのですよ、お嬢ちゃん」
白い手袋をした指が、私の顎に触れた。
冷たい。
まるで死体みたいに。
「私は王家の査察官。この屋敷の様子を、しばらく見せていただくだけです」
顎を持ち上げられる。
男の顔が、近い。
整った顔立ちなのに、どこか歪んでいる。
「ふむ。先妻の忘れ形見にしては、あまり似ていませんね」
心臓が、跳ねた。
この男、何を知っている?
「まあ、どうでもいいことです。所詮は、捨て子でしょう?」
違う。
私は、捨て子なんかじゃない。
捨てられたんじゃない。
でも、言い返せなかった。
愚かな子供は、黙っているしかない。
男の笑みが、深くなった。
その瞬間だった。
パリン、と音がした。
窓ガラスに、細いヒビが入っていた。
寒気がした。
部屋の温度が、一気に下がった気がする。
振り返ると、お父様が立っていた。
無表情。でも、灰色の瞳が、凍りついている。
「手を、離せ」
短い言葉。
でも、その声には、殺意が滲んでいた。
男の顔から、一瞬だけ笑みが消えた。
でも、すぐに元の甘い表情に戻る。
「おや、これは失礼。つい、可愛らしいものには手が伸びてしまう性分でして」
男の手が、私の顎から離れた。
指先が、私の髪を撫でるように滑っていく。
「しばらくお世話になりますよ、北部大公。それと……」
男が、私を見下ろした。
「お嬢ちゃんも、仲良くしましょうね」
夜。
私は、自室で息を潜めていた。
あの男、ハインツ。
王家の査察官。
何が目的で、この屋敷に来たのか。
マルタさんとの関係は?
義兄様が倒れたことと、何か関係があるのか?
考えても、分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
あの男は、敵だ。
義兄様を「出来損ない」と呼んだ、あの男。
絶対に、許さない。
窓の外を見つめながら、机の上の包みを開いた。
執事さんがくれた、お茶の粉と飴。
試してみよう。
今夜しかない。
あの男がいる間は、自由に動けなくなる。
小さな器に、少量の水を注ぐ。
お茶の粉を入れる。
琥珀色の液体が、揺れる。
深呼吸。
飴を、器の中に落とした。
最初は、何も起こらなかった。
飴がゆっくり溶けていく。
琥珀色と琥珀色が、混ざり合う。
その時だった。
液体の色が、変わり始めた。
琥珀色から、くすんだ紫へ。
そして、器の縁から、細い煙が立ち上った。
鼻を刺す、甘ったるい匂い。
砂糖が焦げたような、でも、どこか腐ったような。
紫色の、煙。
「っ……!」
思わず、声が漏れた。
お父様の言葉は、正しかった。
単体では無害でも、混ぜれば毒になる。
これが、義兄様を蝕んでいた「因」。
その瞬間、ドアノブが回る音がした。
指先が、氷のように冷たくなった。
とっさに、器を布団の中に押し込んだ。
熱い。でも、我慢する。
ベッドに飛び込んで、毛布を被る。
目を閉じた。
寝たふりをする。
扉が開く音。
足音が、近づいてくる。
「……変な匂いがしますわね」
マルタさんの声だ。
胸の奥が、締めあげられる。
足音が、部屋の中を歩き回る。
窓際。
机の前で、一度止まった。
引き出しに、手を伸ばしているのか。
いや、違う。また歩き出した。
そして、ベッドのそば。
「お嬢様、起きていらっしゃいます?」
声をかけられた。
でも、答えない。
息を殺して、眠ったふりを続ける。
長い沈黙。
「……ふうん」
マルタさんの声には、何か計算しているような響きがあった。
「明日、ハインツ様がお嬢様をお茶に招きたいそうですわ。素敵な飴菓子もご用意いただけるとか」
足音が、遠ざかっていく。
扉が閉まる音。
しばらく、動けなかった。
毛布の中で、器を取り出す。
紫色の液体は、もう煙を出していなかった。
でも、不気味な色は、そのまま残っている。
証拠だ。
これが、証拠。
私は、震える手で器を握りしめた。
掌が、少しだけヒリヒリする。
でも、そんなことはどうでもいい。
見つけた。
尻尾を、掴んだ。
マルタさんが、毎日義兄様にお茶を勧めていた姿が浮かぶ。
あの笑顔の下に隠された、冷たい光。
点と点が、線になっていく。
窓の外で、月が雲から顔を出した。
冷たい光が、紫色の液体を照らす。
明日、あの男は私をお茶に誘うと言った。
飴菓子も用意すると。
罠だ。
私も、義兄様と同じ目に遭わせようとしている。
でも、もう騙されない。
私は、器を机の引き出しにしまった。
証拠は、隠しておく。
お父様に見せるまで、絶対に。
遠くで、義兄様の部屋の方から、かすかな咳の音が聞こえた。
まだ、苦しんでいる。
まだ、あの毒に蝕まれている。
「待っていて」
小さく、呟いた。
「必ず、助けるから」
引き出しの中の、紫色の液体。
それは、義兄様を守るための剣。
そして、あの男を追い詰めるための鍵。
明日から、反撃が始まる。
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