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揺らぐ確信と甘い罠
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目を覚ましたのは、夜明け前だった。
ほとんど眠れなかった。
何度も同じ考えが頭を巡って、気づけば窓の外が白み始めていた。
今日こそ、動く。
朝食の前に、執事さんにお会いする。
お茶を調べてもらえないか、頼んでみる。
証拠がなくても、あの人なら話を聞いてくれるはずだ。
ベッドから飛び起きて、着替えを始めた。
侍女を呼ばずに、自分でできるところまでやる。
少しでも早く、動き出すために。
紐を結ぶ指が、もどかしい。
小さな手では、思うように動かない。
でも、今は一秒でも惜しい。
廊下に出た。
まだ薄暗い。
使用人たちが動き始める時間には、少し早い。
執事さんの部屋は、どこだろう。
昼間なら執務室にいるけれど、この時間は。
足音が聞こえた。
慌てて柱の陰に隠れる。
夜警の兵士だった。
規則正しい歩調で、廊下を通り過ぎていく。
私の存在には、気づかなかったようだ。
息を吐く。
心臓が、早鐘を打っている。
こんな時間に子供がうろついていれば、怪しまれる。
でも、朝食まで待っていたら、義兄様はまたあの茶を飲んでしまう。
迷っている暇はない。
執務室に向かおう。
執事さんは、早起きのはずだ。
もう起きているかもしれない。
足を踏み出した、その時だった。
悲鳴が、響いた。
「若様っ」
マルタさんの声だ。
食堂の方から。
血の気が引いた。
駆け出した。
小さな足が、床を蹴る。
間に合え。間に合え。
間に合わなかった。
食堂の扉を開けた時、義兄様はもう倒れていた。
なぜ、こんな早くに。
いつもは朝食の時間まで部屋にいるはずなのに。
眠れなかったのだろうか。それとも、誰かに呼び出されたのか。
床に砕けたカップ。
飛び散った琥珀色の液体。
そして、ぐったりと横たわる、痩せた体。
「義兄様っ」
駆け寄って、頬に触れる。
氷みたいだ。
指先が、痺れるほどに。
顔が真っ白だった。
唇に、色がない。
青黒い隈が、まるで痣のように目立っている。
「お、お医者様を! 早くお医者様をお呼びしなさい!」
マルタさんが叫んでいる。
でも、その声が、おかしい。
焦りはある。でも、驚きがない。
まるで、こうなることを知っていたかのような。
いや、違う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
義兄様の手を握りしめた。
細い指で、ごつごつした大きな手を包む。
まだ、温もりが残っている。
脈もある。
弱いけれど、まだ動いている。
「義兄様、しっかりして」
小さな声で呼びかける。
返事はない。
侍女たちが慌ただしく動き出す。
誰かが医師を呼びに走っていく。
誰かが毛布を持ってくる。
私は、義兄様の手を離さなかった。
遅かった。
あと少し早く起きていれば。
昨夜のうちに、なんとかしていれば。
拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
でも、どうすればよかったのだろう。
夜中に動けば、マルタさんに気づかれた。
証拠もなしに騒げば、私が「おかしな子供」だと思われた。
言い訳だ。
全部、言い訳だ。
結果として、義兄様は倒れた。
私は、それを防げなかった。
やっぱり、あのお茶だ。
あの琥珀色の液体が、義兄様を蝕んでいたんだ。
そう信じていた。
この時は、まだ。
医師が来るまでの間、義兄様は自室に運ばれた。
私は廊下で待たされた。
扉の向こうで、何人もの大人たちが動いている気配がする。
足音が近づいてきた。
重く、安定した足音。
「お父様」
振り向くと、銀髪の大公が立っていた。
灰色の瞳が、静かに私を見下ろしている。
「聞いた」
短い言葉。
でも、その声に、かすかな揺らぎがあった。
「お父様、義兄様が」
「分かっている」
お父様は、扉の前で足を止めた。
眉間の皺が、いつもより深い。
「お前は、何か知っているか」
問いかけ。
私は、息を呑んだ。
知っている。
あのお茶のこと。
マルタさんの過剰な反応のこと。
でも、証拠がない。
五歳児の推測では、誰も信じない。
いや。
もう、隠している場合じゃない。
「……お茶」
小さな声で、言った。
「義兄様が、毎朝飲んでいた、あのお茶。あれが……」
お父様の目が、わずかに細くなった。
「続けろ」
「昨日、私が飲もうとしたら、マルタさんが……すごく、止めたの」
言葉を選びながら、話す。
五歳児らしく。でも、伝えるべきことは、伝える。
「『お嬢様には刺激が強い』って。でも、体にいいお茶なら、どうして……」
お父様は、黙って聞いていた。
灰色の瞳が、私を見つめている。
長い沈黙。
まるで、私の心の中を覗き込もうとしているかのような。
「そうか」
短い言葉。
信じているのか、信じていないのか、分からない。
でも、否定はされなかった。
扉が開いた。
医師が出てきた。
白髪の老人で、額に深い縦皺が刻まれていた。
「大公様。若様の容態ですが」
「言え」
「極度の疲労と、何らかの……体の衰弱がございます。原因は、まだ」
「まだ、分からぬか」
「申し訳ございません。ただ、このまま放置すれば」
医師の言葉が、途切れた。
お父様の視線が、鋭くなったからだ。
「治せ」
「は、はい。最善を尽くします」
医師が頭を下げて去っていく。
お父様は、扉を見つめたまま動かなかった。
「お父様」
私は小さな声で呼びかけた。
大きな手が、私の頭に置かれた。
「……待っていろ」
それだけ言って、お父様は扉の向こうに消えた。
昼過ぎ。
義兄様の部屋には、まだ入れなかった。
私は自室で、考え込んでいた。
お父様には、お茶のことを伝えた。
でも、それだけでは足りない。
証拠が必要だ。
扉を叩く音がした。
「お嬢様、執事のフリードリヒでございます」
執事さんの声だ。
私は急いで扉を開けた。
「執事さん」
「若様のご様子をお伝えに参りました。現在、安静にされております。意識は戻られましたが、まだお体が本調子ではございません」
意識が戻った。
その言葉に、胸の奥がわずかに緩んだ。
「よかった……」
「お嬢様も、ご心配でいらっしゃいましたでしょう」
執事さんの目が、優しく細められた。
この人なら、信じられる。
私は、決断した。
「執事さん」
「はい」
「少し、相談したいことがあるの」
執事さんの眉が、わずかに上がった。
でも、すぐに元の穏やかな表情に戻った。
「何なりと」
私は、机の上に置いてあった紙を取った。
お父様の授業で習った文字を、指でなぞる。
因。果。生。死。
「義兄様の……『因』を、知りたいの」
執事さんの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「『因』、でございますか」
「義兄様が倒れた、『因』」
私は、執事さんの目を真っ直ぐに見上げた。
「調べて……くれますか?」
長い沈黙。
執事さんの眉が、わずかに寄った。
まるで、目の前にあるはずのない書類を読んでいるかのような顔だ。
「……承知いたしました」
低く、静かな声だった。
「何を、お調べすればよろしいでしょうか」
私は、息を吸い込んだ。
「お茶。義兄様だけが飲んでいた、あのお茶」
執事さんの目が、わずかに細くなった。
「王都からお取り寄せの、あのお茶でございますね」
「うん」
「……承知いたしました」
執事さんが、深く頭を下げた。
「必ず、お調べいたします」
夕方。
文字の授業は、いつも通りだった。
お父様の書斎。
でも、今日の空気は、どこか張り詰めていた。
お父様の膝の上に座っても、いつもの温もりが遠い気がした。
「今日は四つ」
本が開かれる。
指が、最初の文字をなぞった。
「毒」
どく。
私の心臓が、跳ねた。
「どく」
小さく繰り返す。
声が震えなかったのは、奇跡だった。
「薬」
くすり。
「くすり」
「病」
やまい。
「やまい」
「癒」
いやす。癒やす。
「いやす」
四つの文字が、今日の授業だった。
毒。薬。病。癒。
まるで、今の状況を言い当てているかのような選択。
お父様が、本を閉じた。
「毒と薬は、同じものだ」
静かな声。
喉の奥が、きゅっと締まった。
「量を誤れば、毒になる」
お父様の言葉が、頭の中で響く。
「見極めよ」
「見極める……」
「何が毒で、何が薬か」
私は、顔を上げた。
お父様の灰色の瞳が、静かに私を見下ろしている。
「見た目では、分からぬ」
短い言葉が、続く。
「単体では無害でも」
間。
「混ぜれば、毒になる」
その言葉に、息が止まった。
単体では、無害。
混ぜれば、毒。
待て。
もし、お茶単体では無害なら。
私の推測は、根本から間違っていることになる。
胸の奥で、何かが揺れた。
あれほど確信していたのに。
あのお茶が原因だと、信じていたのに。
でも、お父様は「混ぜれば」と言った。
つまり、お茶だけでは、毒にならない。
では、何と混ぜている?
何が、義兄様を蝕んでいる?
分からない。
確信していたはずの答えが、砂のように崩れていく。
「お父様」
「なんだ」
「義兄様は、治りますか」
お父様の表情が、わずかに揺らいだ。
でも、すぐに元の静かな顔に戻った。
「治す」
短い言葉。
でも、その一言に込められた決意が、重かった。
「因を絶てば、果は変わる」
昨日教わった言葉。
お父様は、それを繰り返した。
「因を、見つけよ」
私への、指示。
あるいは、試験。
「は、はい」
私は、深く頷いた。
部屋に戻る途中、廊下でマルタさんとすれ違った。
彼女は、何か箱のようなものを抱えていた。
小さな、木製の箱。
蓋には、金色の模様が施されていた。
「あら、お嬢様」
マルタさんの笑顔は、いつも通りだった。
でも、目の奥に、何か暗いものが光っていた。
「それ、なあに?」
無邪気に聞いてみる。
五歳児らしく、首を傾げて。
「これですの?」
マルタさんが、箱を見下ろした。
「若様へのお見舞いですわ。王都から届いた、特別なお菓子ですの」
お菓子。
胃の底が、ぎゅっと絞られた。
「どんなお菓子?」
「飴ですわ」
飴。
琥珀色の、甘い飴。
「王都で一番おいしいと評判の飴ですの。若様は、いつもこれを召し上がると、お元気になられるのですわ」
マルタさんの笑顔が、深くなった。
「お嬢様にも、いかがですか?」
箱の蓋が、少しだけ開けられた。
中には、きらきらと光る琥珀色の粒が並んでいた。
甘い香りが、鼻をくすぐる。
「い、いいの?」
「もちろんですわ」
マルタさんの手が、飴を一粒つまみ上げた。
私の目の前に、差し出される。
その時、気づいた。
昨日、お茶を私に飲ませまいと必死だったマルタさんが。
今日は、飴を勧めている。
なぜ?
お茶は駄目で、飴はいいのか?
お父様の言葉が、頭をよぎった。
単体では無害でも、混ぜれば、毒になる。
お茶と、飴。
両方とも、琥珀色。
両方とも、王都から届いたもの。
両方とも、義兄様に与えられていたもの。
もしかして。
お茶だけでは、無害。
飴だけでも、無害。
でも、両方を摂れば。
この飴を口にしてはいけない。
直感が、叫んでいる。
「あ、あのね」
私は、一歩後ろに下がった。
「今、お腹いっぱいなの」
マルタさんの目が、一瞬だけ細くなった。
何かを計算するような、冷たい光。
でも、すぐに笑顔に戻った。
「あら、そうですの。では、またの機会に」
マルタさんは、箱を抱えて去っていった。
その背中を見送りながら、私は考えていた。
お茶と飴。
混ぜれば、毒になる?
執事さんの調査結果を、待つしかない。
でも、それまでに、義兄様があの飴を食べてしまったら。
足が、勝手に動いていた。
「執事さん」
廊下の角で、執事さんを見つけた。
彼は、私の顔を見て、すぐに察したようだった。
「お嬢様」
「あの、飴も」
息を切らしながら、言葉を紡ぐ。
「飴も、調べて。お茶と……一緒に」
執事さんの目が、鋭くなった。
「承知いたしました」
短い返答。
でも、その一言には、確かな決意が込められていた。
夜。
眠れなかった。
窓の外を見つめながら、今日一日のことを振り返る。
義兄様が倒れた。
お父様にお茶のことを伝えた。
執事さんに調査を依頼した。
お父様から「毒と薬は同じもの」「混ぜれば毒になる」と教わった。
マルタさんから飴を勧められて、断った。
全ては、繋がっているはずだ。
お茶と、飴と。
毎日、義兄様だけに与えられていたもの。
「あの方」の到着まで、あと二日。
冤罪の日まで、あと九日。
時間がない。
私は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
五歳の、小さな顔。
でも、その目だけは、諦めていない。
前世で、私は冤罪で処刑された。
義兄を毒で殺そうとした、という罪。
身に覚えのない罪で、命を奪われた。
今度こそ、その運命を変える。
義兄様を守り、自分も生き延びる。
そのためには、あのお茶と飴の正体を暴かなければ。
遠くで、足音が聞こえた。
いつもの重い足音ではない。
軽くて、忙しない足音。
侍女たちが、何かを運んでいる気配。
義兄様の部屋に、何かを届けているのだろう。
またお茶か。それとも、あの飴か。
私は、拳を握りしめた。
明日、執事さんの調査結果が来る。
それで、全てが分かるはずだ。
因を知るために。
果を変えるために。
窓の向こうで、月が雲に隠れた。
その時、遠くから声が聞こえた。
掠れた、弱々しい声。
「……チビ」
義兄様だ。
熱にうなされているのか。それとも、本当に私を呼んでいるのか。
胸が、締めつけられる。
あの人は、自分を蝕む毒のことなど知らないまま。
私の名前を、呼んでいる。
駆け出したい衝動を、必死で押さえつけた。
今、動いてはいけない。マルタさんに見られたら、全てが終わる。
でも、明日は違う。
明日は、動ける。
因を知り、果を変える。
闘いの夜が、始まった。
ほとんど眠れなかった。
何度も同じ考えが頭を巡って、気づけば窓の外が白み始めていた。
今日こそ、動く。
朝食の前に、執事さんにお会いする。
お茶を調べてもらえないか、頼んでみる。
証拠がなくても、あの人なら話を聞いてくれるはずだ。
ベッドから飛び起きて、着替えを始めた。
侍女を呼ばずに、自分でできるところまでやる。
少しでも早く、動き出すために。
紐を結ぶ指が、もどかしい。
小さな手では、思うように動かない。
でも、今は一秒でも惜しい。
廊下に出た。
まだ薄暗い。
使用人たちが動き始める時間には、少し早い。
執事さんの部屋は、どこだろう。
昼間なら執務室にいるけれど、この時間は。
足音が聞こえた。
慌てて柱の陰に隠れる。
夜警の兵士だった。
規則正しい歩調で、廊下を通り過ぎていく。
私の存在には、気づかなかったようだ。
息を吐く。
心臓が、早鐘を打っている。
こんな時間に子供がうろついていれば、怪しまれる。
でも、朝食まで待っていたら、義兄様はまたあの茶を飲んでしまう。
迷っている暇はない。
執務室に向かおう。
執事さんは、早起きのはずだ。
もう起きているかもしれない。
足を踏み出した、その時だった。
悲鳴が、響いた。
「若様っ」
マルタさんの声だ。
食堂の方から。
血の気が引いた。
駆け出した。
小さな足が、床を蹴る。
間に合え。間に合え。
間に合わなかった。
食堂の扉を開けた時、義兄様はもう倒れていた。
なぜ、こんな早くに。
いつもは朝食の時間まで部屋にいるはずなのに。
眠れなかったのだろうか。それとも、誰かに呼び出されたのか。
床に砕けたカップ。
飛び散った琥珀色の液体。
そして、ぐったりと横たわる、痩せた体。
「義兄様っ」
駆け寄って、頬に触れる。
氷みたいだ。
指先が、痺れるほどに。
顔が真っ白だった。
唇に、色がない。
青黒い隈が、まるで痣のように目立っている。
「お、お医者様を! 早くお医者様をお呼びしなさい!」
マルタさんが叫んでいる。
でも、その声が、おかしい。
焦りはある。でも、驚きがない。
まるで、こうなることを知っていたかのような。
いや、違う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
義兄様の手を握りしめた。
細い指で、ごつごつした大きな手を包む。
まだ、温もりが残っている。
脈もある。
弱いけれど、まだ動いている。
「義兄様、しっかりして」
小さな声で呼びかける。
返事はない。
侍女たちが慌ただしく動き出す。
誰かが医師を呼びに走っていく。
誰かが毛布を持ってくる。
私は、義兄様の手を離さなかった。
遅かった。
あと少し早く起きていれば。
昨夜のうちに、なんとかしていれば。
拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
でも、どうすればよかったのだろう。
夜中に動けば、マルタさんに気づかれた。
証拠もなしに騒げば、私が「おかしな子供」だと思われた。
言い訳だ。
全部、言い訳だ。
結果として、義兄様は倒れた。
私は、それを防げなかった。
やっぱり、あのお茶だ。
あの琥珀色の液体が、義兄様を蝕んでいたんだ。
そう信じていた。
この時は、まだ。
医師が来るまでの間、義兄様は自室に運ばれた。
私は廊下で待たされた。
扉の向こうで、何人もの大人たちが動いている気配がする。
足音が近づいてきた。
重く、安定した足音。
「お父様」
振り向くと、銀髪の大公が立っていた。
灰色の瞳が、静かに私を見下ろしている。
「聞いた」
短い言葉。
でも、その声に、かすかな揺らぎがあった。
「お父様、義兄様が」
「分かっている」
お父様は、扉の前で足を止めた。
眉間の皺が、いつもより深い。
「お前は、何か知っているか」
問いかけ。
私は、息を呑んだ。
知っている。
あのお茶のこと。
マルタさんの過剰な反応のこと。
でも、証拠がない。
五歳児の推測では、誰も信じない。
いや。
もう、隠している場合じゃない。
「……お茶」
小さな声で、言った。
「義兄様が、毎朝飲んでいた、あのお茶。あれが……」
お父様の目が、わずかに細くなった。
「続けろ」
「昨日、私が飲もうとしたら、マルタさんが……すごく、止めたの」
言葉を選びながら、話す。
五歳児らしく。でも、伝えるべきことは、伝える。
「『お嬢様には刺激が強い』って。でも、体にいいお茶なら、どうして……」
お父様は、黙って聞いていた。
灰色の瞳が、私を見つめている。
長い沈黙。
まるで、私の心の中を覗き込もうとしているかのような。
「そうか」
短い言葉。
信じているのか、信じていないのか、分からない。
でも、否定はされなかった。
扉が開いた。
医師が出てきた。
白髪の老人で、額に深い縦皺が刻まれていた。
「大公様。若様の容態ですが」
「言え」
「極度の疲労と、何らかの……体の衰弱がございます。原因は、まだ」
「まだ、分からぬか」
「申し訳ございません。ただ、このまま放置すれば」
医師の言葉が、途切れた。
お父様の視線が、鋭くなったからだ。
「治せ」
「は、はい。最善を尽くします」
医師が頭を下げて去っていく。
お父様は、扉を見つめたまま動かなかった。
「お父様」
私は小さな声で呼びかけた。
大きな手が、私の頭に置かれた。
「……待っていろ」
それだけ言って、お父様は扉の向こうに消えた。
昼過ぎ。
義兄様の部屋には、まだ入れなかった。
私は自室で、考え込んでいた。
お父様には、お茶のことを伝えた。
でも、それだけでは足りない。
証拠が必要だ。
扉を叩く音がした。
「お嬢様、執事のフリードリヒでございます」
執事さんの声だ。
私は急いで扉を開けた。
「執事さん」
「若様のご様子をお伝えに参りました。現在、安静にされております。意識は戻られましたが、まだお体が本調子ではございません」
意識が戻った。
その言葉に、胸の奥がわずかに緩んだ。
「よかった……」
「お嬢様も、ご心配でいらっしゃいましたでしょう」
執事さんの目が、優しく細められた。
この人なら、信じられる。
私は、決断した。
「執事さん」
「はい」
「少し、相談したいことがあるの」
執事さんの眉が、わずかに上がった。
でも、すぐに元の穏やかな表情に戻った。
「何なりと」
私は、机の上に置いてあった紙を取った。
お父様の授業で習った文字を、指でなぞる。
因。果。生。死。
「義兄様の……『因』を、知りたいの」
執事さんの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「『因』、でございますか」
「義兄様が倒れた、『因』」
私は、執事さんの目を真っ直ぐに見上げた。
「調べて……くれますか?」
長い沈黙。
執事さんの眉が、わずかに寄った。
まるで、目の前にあるはずのない書類を読んでいるかのような顔だ。
「……承知いたしました」
低く、静かな声だった。
「何を、お調べすればよろしいでしょうか」
私は、息を吸い込んだ。
「お茶。義兄様だけが飲んでいた、あのお茶」
執事さんの目が、わずかに細くなった。
「王都からお取り寄せの、あのお茶でございますね」
「うん」
「……承知いたしました」
執事さんが、深く頭を下げた。
「必ず、お調べいたします」
夕方。
文字の授業は、いつも通りだった。
お父様の書斎。
でも、今日の空気は、どこか張り詰めていた。
お父様の膝の上に座っても、いつもの温もりが遠い気がした。
「今日は四つ」
本が開かれる。
指が、最初の文字をなぞった。
「毒」
どく。
私の心臓が、跳ねた。
「どく」
小さく繰り返す。
声が震えなかったのは、奇跡だった。
「薬」
くすり。
「くすり」
「病」
やまい。
「やまい」
「癒」
いやす。癒やす。
「いやす」
四つの文字が、今日の授業だった。
毒。薬。病。癒。
まるで、今の状況を言い当てているかのような選択。
お父様が、本を閉じた。
「毒と薬は、同じものだ」
静かな声。
喉の奥が、きゅっと締まった。
「量を誤れば、毒になる」
お父様の言葉が、頭の中で響く。
「見極めよ」
「見極める……」
「何が毒で、何が薬か」
私は、顔を上げた。
お父様の灰色の瞳が、静かに私を見下ろしている。
「見た目では、分からぬ」
短い言葉が、続く。
「単体では無害でも」
間。
「混ぜれば、毒になる」
その言葉に、息が止まった。
単体では、無害。
混ぜれば、毒。
待て。
もし、お茶単体では無害なら。
私の推測は、根本から間違っていることになる。
胸の奥で、何かが揺れた。
あれほど確信していたのに。
あのお茶が原因だと、信じていたのに。
でも、お父様は「混ぜれば」と言った。
つまり、お茶だけでは、毒にならない。
では、何と混ぜている?
何が、義兄様を蝕んでいる?
分からない。
確信していたはずの答えが、砂のように崩れていく。
「お父様」
「なんだ」
「義兄様は、治りますか」
お父様の表情が、わずかに揺らいだ。
でも、すぐに元の静かな顔に戻った。
「治す」
短い言葉。
でも、その一言に込められた決意が、重かった。
「因を絶てば、果は変わる」
昨日教わった言葉。
お父様は、それを繰り返した。
「因を、見つけよ」
私への、指示。
あるいは、試験。
「は、はい」
私は、深く頷いた。
部屋に戻る途中、廊下でマルタさんとすれ違った。
彼女は、何か箱のようなものを抱えていた。
小さな、木製の箱。
蓋には、金色の模様が施されていた。
「あら、お嬢様」
マルタさんの笑顔は、いつも通りだった。
でも、目の奥に、何か暗いものが光っていた。
「それ、なあに?」
無邪気に聞いてみる。
五歳児らしく、首を傾げて。
「これですの?」
マルタさんが、箱を見下ろした。
「若様へのお見舞いですわ。王都から届いた、特別なお菓子ですの」
お菓子。
胃の底が、ぎゅっと絞られた。
「どんなお菓子?」
「飴ですわ」
飴。
琥珀色の、甘い飴。
「王都で一番おいしいと評判の飴ですの。若様は、いつもこれを召し上がると、お元気になられるのですわ」
マルタさんの笑顔が、深くなった。
「お嬢様にも、いかがですか?」
箱の蓋が、少しだけ開けられた。
中には、きらきらと光る琥珀色の粒が並んでいた。
甘い香りが、鼻をくすぐる。
「い、いいの?」
「もちろんですわ」
マルタさんの手が、飴を一粒つまみ上げた。
私の目の前に、差し出される。
その時、気づいた。
昨日、お茶を私に飲ませまいと必死だったマルタさんが。
今日は、飴を勧めている。
なぜ?
お茶は駄目で、飴はいいのか?
お父様の言葉が、頭をよぎった。
単体では無害でも、混ぜれば、毒になる。
お茶と、飴。
両方とも、琥珀色。
両方とも、王都から届いたもの。
両方とも、義兄様に与えられていたもの。
もしかして。
お茶だけでは、無害。
飴だけでも、無害。
でも、両方を摂れば。
この飴を口にしてはいけない。
直感が、叫んでいる。
「あ、あのね」
私は、一歩後ろに下がった。
「今、お腹いっぱいなの」
マルタさんの目が、一瞬だけ細くなった。
何かを計算するような、冷たい光。
でも、すぐに笑顔に戻った。
「あら、そうですの。では、またの機会に」
マルタさんは、箱を抱えて去っていった。
その背中を見送りながら、私は考えていた。
お茶と飴。
混ぜれば、毒になる?
執事さんの調査結果を、待つしかない。
でも、それまでに、義兄様があの飴を食べてしまったら。
足が、勝手に動いていた。
「執事さん」
廊下の角で、執事さんを見つけた。
彼は、私の顔を見て、すぐに察したようだった。
「お嬢様」
「あの、飴も」
息を切らしながら、言葉を紡ぐ。
「飴も、調べて。お茶と……一緒に」
執事さんの目が、鋭くなった。
「承知いたしました」
短い返答。
でも、その一言には、確かな決意が込められていた。
夜。
眠れなかった。
窓の外を見つめながら、今日一日のことを振り返る。
義兄様が倒れた。
お父様にお茶のことを伝えた。
執事さんに調査を依頼した。
お父様から「毒と薬は同じもの」「混ぜれば毒になる」と教わった。
マルタさんから飴を勧められて、断った。
全ては、繋がっているはずだ。
お茶と、飴と。
毎日、義兄様だけに与えられていたもの。
「あの方」の到着まで、あと二日。
冤罪の日まで、あと九日。
時間がない。
私は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
五歳の、小さな顔。
でも、その目だけは、諦めていない。
前世で、私は冤罪で処刑された。
義兄を毒で殺そうとした、という罪。
身に覚えのない罪で、命を奪われた。
今度こそ、その運命を変える。
義兄様を守り、自分も生き延びる。
そのためには、あのお茶と飴の正体を暴かなければ。
遠くで、足音が聞こえた。
いつもの重い足音ではない。
軽くて、忙しない足音。
侍女たちが、何かを運んでいる気配。
義兄様の部屋に、何かを届けているのだろう。
またお茶か。それとも、あの飴か。
私は、拳を握りしめた。
明日、執事さんの調査結果が来る。
それで、全てが分かるはずだ。
因を知るために。
果を変えるために。
窓の向こうで、月が雲に隠れた。
その時、遠くから声が聞こえた。
掠れた、弱々しい声。
「……チビ」
義兄様だ。
熱にうなされているのか。それとも、本当に私を呼んでいるのか。
胸が、締めつけられる。
あの人は、自分を蝕む毒のことなど知らないまま。
私の名前を、呼んでいる。
駆け出したい衝動を、必死で押さえつけた。
今、動いてはいけない。マルタさんに見られたら、全てが終わる。
でも、明日は違う。
明日は、動ける。
因を知り、果を変える。
闘いの夜が、始まった。
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