デバッグゲームⅡ

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55話:仕様外の温もり、あるいは受け継がれるレシピ

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 1. 黄金色の静寂

 天を衝く世界樹の梢が空を覆い、その葉の間から降り注ぐマナの光が街を黄金色の粒子で満たすようになってから、一体どれほどの季節が巡っただろうか。
 かつてアルやリーナが、泥にまみれ、血を流しながら駆け抜けた激動の時代は、今や学校で子供たちが義務教育の一環として教わる「創世神話」の遠い一節へと変貌していた。

 現代の世界は、あまりにも安定していた。
 世界樹が司るシステムは、天候を完璧に制御し、作物の不作を許さず、病の予兆さえもラグが生じる前に最適化して消し去ってしまう。人々は飢えを知らず、寒さに震えることもない。かつて「バグ」や「グリッチ」と呼ばれ恐れられた現象は、今や博物館の片隅にある難解な用語でしかなく、誰もが定められた「幸福な仕様(シナリオ)」の上で穏やかに人生を終えていく。

「ねえ、おじいちゃん。本当にお化けは出ないの? 昔の物語みたいに、空が急に割れたりしない?」

 世界樹の麓、かつての動乱の爪痕をあえて残した歴史保存公園「旧オステン大聖堂跡」の片隅で、十歳になる少女ナギは、ベンチに腰掛けた老管理人に問いかけた。
 老人は、かつて「ノア」と呼ばれた観測者の一族の末裔であり、その首には代々受け継がれてきた、今はもう動かない古びた「カメラ」が誇らしげに提げられていた。

「ああ。ここにはもう、世界を脅かすような荒々しいバグはいないよ、ナギ。……もし今も残っているとしたら、それはかつてこの世界を愛しすぎた者たちが残した、ちょっとした『お節介』だけだ」

 老人は慈しむように目を細め、黄金色に輝く世界樹の梢を見上げた。
 ナギは老人の言葉の意味を半分も理解できなかったが、その瞳は好奇心に燃えていた。彼女は老人が居眠りを始めたのを見計らって、「立入禁止」と書かれたホログラムの柵をひょいと跨ぎ、誰も足を踏み入れない生い茂った茂みの奥へと入り込んでいった。

 2. 禁足地の宝探し

 湿った腐葉土の匂いと、大気中のナノマシンが放つ独特の甘い香りが漂う森の深部。
 最新の庭園ロボットの手さえ及ばないその場所で、ナギの古い革靴が、何か硬い無機質なものに当たった。

「いたいっ……何これ? 石?」

 ナギは膝をつき、小さな手で黒い土を払った。厚く積もった苔を爪で削ぎ落とすと、そこから現れたのは、現代の洗練された魔導デバイスとは明らかに意匠が異なる、武骨で薄い「黒い板」だった。

「これ……教科書で見たことがある。千年前の電子板(タブレット)?」

 ナギは、アルたちが残した『私たちの物語』の写本を隅々まで読み込んでいた。彼女はこの街の学校でも、古代文字の解読において右に出る者はいないほどの秀才だった。
 彼女が記憶にある「管理者コード」のパターンをなぞり、板の表面を特定の順序で叩く。すると、千年の眠りを経たはずの回路が、内部でパチリと小さな火花を散らし、誇らしげな駆動音を立てて目を覚ました。

 ジジッ……ジジジッ……。

 暗い茂みの中に、淡い青色の光の文字が浮かび上がる。
 それは教会の重苦しい教義でもなければ、英雄の輝かしい武勇伝でもなかった。

『 ―― 非公式パッチ:日常の最適化に関するメモ。
  項目:失われた嗜好品の再現、およびその精神的効能について。
  作成者:Kai(賢者、あるいはただの不器用な技術者より) 』

 3. 解読された苦味

 ナギはそのテキストを、瞬きも忘れて読み進めた。
 現代の洗練された情報伝達とは違い、そこには一見すると何の合理性もない、驚くほど回りくどい「作業の手順」がびっしりと記されていた。

『 ……豆を煎る際、決して火を絶やすな。だが、焦がさぬよう弱火でじっくりと転がせ。
  挽く工程は機械に頼るな。自分の腕を使い、その香りが肺の奥まで満たすまで待て。
  魔法で温度を一定に保つのは論外だ。
  熱い液体が、喉を通って胃を焼き、次第に冷めていく。その不便な過程にこそ、時間の味が宿るのだから。 』

 ナギの住む現代では、食事も、睡眠も、生活環境のすべてが世界樹のシステムによって「最適」な状態に保たれている。
 お腹が空く前に必要な栄養素が計算されて補充され、不快な寒さを感じる前にナノマシンが皮膚の体感温度を調整する。
 そんな、悩みも無駄もない「完璧な世界」に生きる彼女にとって、この『苦味を味わえ』『不便を楽しめ』という指示は、あまりにも衝撃的で、それでいて抗いがたい魅力を放っていた。

「苦い飲み物……。甘くもなくて、体温を上げるだけなのに、どうしてこんなに大切そうに書き残したの?」

 ナギの好奇心は、もはや抑えきれる限界を超えていた。

 4. 最初の再現

 それから数日の間、ナギは「最適化された日常」の裏側を駆け回った。
 今では観賞用としてしか見向きもされない、森の奥にひっそりと自生していた原種の「コーヒーの木」。
 歴史資料館の倉庫で眠っていた、物理的な「火」を熾すための乾燥した薪と火打ち石。
 そして、イヴのノートの挿絵に記されていたのと同じ、少し歪で手のひらに馴染む陶器のカップ。

 公園の片隅、夕暮れ時。世界樹が夜の休眠モードに入り、周囲に人影がなくなった頃。
 ナギは現代の「点火魔法」を一切使わず、自分の手で火を熾した。
 木を擦り合わせる手のひらはすぐにマメができ、煙が目に染みて涙が止まらない。咳き込みながらも、彼女は必死に息を吹きかけ、小さな種火を育てた。

 鉄の鍋の中で、黒い豆がパチン、パチンと爆ぜる音。
 その瞬間、風に乗ってあたり一面に漂った香りは、この千年の間、世界のどこにも存在しなかった、泥臭くも力強い「文明の匂い」だった。

 お湯を注ぐ。じっくりと、カイの記述通りに、焦らず、ゆっくりと。
 出来上がった真っ黒な液体を、ナギは両手で包み込み、恐る恐る口に含んだ。

「――っ、……にが、い……っ!」

 あまりの強烈な刺激に、ナギは顔をくしゃくしゃにして、思わずカップを落としそうになった。
 舌が痺れ、胃の奥がカッと熱くなる。
 世界樹が毎日配給してくれる「完璧な甘露」とは程遠い、野蛮で、不格好な味。
 けれど、次の瞬間。

 ふわりと、鼻からカカオのような、焦げた土のような、深く重厚な香りが抜けていった。
 そして、耐えがたい苦味のすぐ裏側に潜んでいた、微かな、本当に微かな「甘み」が、じわりと舌の上に残った。

「……でも、すごい。私……今、今までで一番、自分が『生きてる』って感じがする」

 ナギは目に涙を浮かべながら、クスクスと笑った。
 不便。不合理。そして、ひどく苦い。
 けれど、それらすべてを「愛おしい」と感じる心が、今の自分には確かに備わっている。システムの仕様外にあるこの温もりこそが、神話の勇者たちが守りたかったものなのだと、彼女は直感した。

 5. 未知の更新(アップデート)

 ナギは、自分がいつも持ち歩いている、真っ白な最新の電子ノートを取り出した。
 そして、その最初のページに、世界樹の管理者さえも予測できない、自慢げな筆致で言葉を綴り始めた。

『 第1章:神様が教えてくれなかった、最高に美味しい「苦味」の秘密。
  ――これは、私の代で見つけた、新しい世界の遊び方。 』

 彼女がその一行を書き込んだ瞬間、遠くで世界樹の葉が、シャララン……と優しく共鳴するように鳴った。
 それは、千年前の不器用な技術者が「やっと再現されたか」と呆れ、一人の少女が「おめでとう」と静かに拍手し、賑やかなスカウトの女性が「私にも一口頂戴!」とはしゃいでいるような、そんな幸せな記憶の残響。

 始祖イヴたちが書き終えたノートは、物語の終わりの場所ではなかった。
 こうして誰かが「新しい不自由」を愛し、新しい一ページを書き記すたびに、世界は、そして物語は、永遠に最新のバージョンへとアップデートされ続けていく。

 ナギは空になったカップを大切に胸に抱え、家路を急いだ。
 明日、このひどく苦くて温かい飲み物を、あのおじいちゃんにも飲ませてあげよう。
 きっと、もっと素敵な、仕様外の「記録」が生まれるはずだから。

 ――私たちの物語(クロニクル)は、今日もまた、誰かの手で新しく書き換えられていく。
 ――全ログ、正常に継承。
 ――素晴らしい今日を、思う存分プレイしてください。

(デバッグゲームⅡ 完)

 
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