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1巻
1-1
しおりを挟む◇プロローグ◇
「こんなとこまでついてきてさぁ……厚かましいにも程があるんじゃないの、お前」
(コワイ)
「君みたいな人間が瑞希に釣り合うとでも思っているんですか? 身の程を弁えなさい」
――痛い。
――辛い。
「瑞希を使って俺たちに取り入るつもりなんだろ!? 気持ちわりぃ!」
「俺たちと瑞希の前から消えろよ。目障りだ」
――なんでこんな目に……
自分に浴びせられる罵声、集まる視線。見えないように殴られた鳩尾が痛い。
(気持ち、悪い)
口に酸っぱいものがせり上がる不快感に、俯いたまま顔を顰める。
ぶちまけないよう堪えている物も、胸の内で渦巻く黒く凝った感情も、全部全部吐き出してしまえたら。
「皆で枢を囲ってなにしてんだよ!」
そんなことを思った瞬間、いやに耳に響く声が背後から聞こえた。
自分の横をすり抜けた声の主は、先ほどまでこちらに悪意を向けていた集団の中へ駆けていく。
突き刺さっていた視線が一瞬にして外れた安堵と同時に、先ほどよりも強まる陰鬱な気持ちにため息をつきそうになる。
「俺たちだって好きでコイツを囲んでるわけじゃねぇよ」
「そうですよ。僕の瑞希に取り入ろうとする身の程知らずに、立場をわからせてやっていたんです」
「はぁ? アンタの瑞希じゃないんですけど~? っていうか、なんで瑞希もこんなヤツ構うの~?」
(あぁ。吐きそうだ。それにここ数日の寝不足で視界がぐらつく……)
爪が食い込むほど強く手を握りしめて、座り込まないように意識を保つ。そうしないとみっともない姿を晒して、奴らにからかいのネタを与えてしまうから。
そんな自分の涙ぐましい努力などよそに、再び大声が響き渡る。
「なんでそんなこと言うんだよ! 枢は俺の親友なんだ! 一緒にいるのは当たり前だろ!?」
大声で宣う内容に、先ほど逸らされたはずの突き刺すような視線が、再び自分に向けられる。それも先刻より悪意と殺気が込められていた。
(もう、嫌だ。逃げたい。ここから消えたい……)
ジリ、と後退る。それに気づいた〝瑞希〟と呼ばれた少年は、距離を詰めるように一歩こちらに近づく。
「枢? どうしたんだよ?」
自分の腕を掴もうと彼の手が伸ばされる。しかし、それを生理的嫌悪から反射的に払ってしまった。
――その瞬間。
「え?」
数時間ぶりに発した自分の声が、どこか遠くに聞こえる。地面から足が離れ、体が後ろに倒れていく。
いまさら思い出したのは、自分が立っていたのが階段の前だということ。
(――あぁそうか。このまま落ちて死ぬんだな)
どこか他人事のように思いながら、それでいてこの地獄のような日々から解放されるかもしれないと思うと、不思議と恐怖は湧いてこなかった。
支えを失った体が宙に浮くのを感じる。周囲のざわめきや、さんざん自分を痛めつけていた取り巻きたちの驚いた顔、必死にこちらに伸ばされた瑞希の腕。すべてがスローモーションに見えた。
意識がブラックアウトする寸前、視界に誰かの顔が入る。その口角が上がるのを認識したと同時に、枢の意識は強烈な痛みとともに失われた。
◇異世界へ◇
「っあぁぁぁぁぁあ!!」
ガバッと跳ねるように体を起こした。
ドクドクと心臓の音がうるさい。それに耳が詰まったような感覚に加えて耳鳴りがひどい。
グラリと回る視界に、枢の体は再び倒れそうになるが、後ろに手を付きなんとか体を支えた。
「はっ、あ? あれ……? ……血も出てないし、骨も折れてない?」
階段から落ちてぶつけたと思われる痛みが体のあちこちにある。
しかし痛みはあるのに、ただそれだけ。それも次第に鈍く、薄くなっているようだ。
「そっか。ここ、天国なんだ」
だから体は綺麗なままだし、痛みも引いていく。見渡すとどこか森らしき場所にいるようだが、ここが天国だというなら納得がいくというものだ。
「そっか~。やっぱり死んだんだなぁ僕。あんまり覚えてないけど、落ちた瞬間の衝撃だけはなんとなく残ってるんだよな……」
だから大声を上げながら飛び起きた。夢と現実の境がわからなくなって、自分の体がバラバラに砕け散ったと思ったのだ。
枢は手のひらを握っては開き、自分の体の感覚を確かめる。
「死んだあとでも、生きてるときとそんなに変わんないんだなぁ」
その感覚に「果たして本当に自分は死んだのか?」と疑問が湧いてくるが、階段からなんの受け身も取らずに落ち、目が覚めたら全く知らない場所にいたということは、つまりそういうことなのだろう。
◇◆◇
仲谷枢は全寮制の男子校に通う高校三年生だった。
学力特待生として高校から外部入学した枢は、一、二年と特に可もなく不可もなく、普通に友達に恵まれ毎日を順調に過ごしていた。
そんなありきたりで、幸せな毎日が壊されたのが三年生の春。
五月も過ぎ、新しいクラスに徐々に馴染み始めた頃に一人の転入生がやってきた。
彼は時期外れの転入生ということもあるが、それ以上にその見た目でクラスの……いや、全校生徒の注目を浴び始めた。
時期外れの転入生こと白戸瑞希は、小柄で華奢な体つきと、日差しを浴びるとキラキラと輝く黄金色の髪、そして透き通る海の蒼さを閉じ込めた美しい瞳を持った美少年であった。
誰もがその麗しい姿に目を奪われ、言葉すら忘れて彼の一挙一動を食い入るように見つめてしまう。
枢はそんな彼と同じクラスであり、さらに言うと、特待生で一人部屋であったがゆえに、寮のルームメイトになってしまったのだった。
それから悪夢が始まった。
天使のような瑞希は学校の人気者を次々と惚れさせていった。
全寮制の男子校、それも山奥にある周囲から隔絶された空間であるからか、枢の通う学校は少々特殊であった。
同性間での恋愛が蔓延っていて、容姿の優れた生徒には親衛隊というものが存在する。まるでアイドルのように扱われるのだ。
瑞希にももちろん親衛隊が結成され、自身に親衛隊がある生徒も瑞希に心を奪われてしまう、という事態が起きた。
今まで熱心に彼らを崇拝し、抜け駆け禁止で見守ってきた親衛隊員たちは、彼らの心を奪った瑞希に敵意を向けはじめる。
そんな隊員たちがどう動くのか。想像に難くないだろう。
少しずつ親衛隊同士の軽いいざこざが発生し、ついには大乱闘に発展、怪我人が出てしまう。それにより自分の崇拝する相手から嫌悪の眼差しを向けられ、それを打破するために再び親衛隊同士がぶつかる……という悪循環まで起きてしまった。
憎き恋敵へ報復しようとも大した結果は得られず徐々に行動は派手になるが、どの親衛隊も崇拝している相手から嫌われたくはない。彼らは皆フラストレーションが溜まっていた。
そんな溜まりに溜まった負の感情がどこに向かうのか。
それはこのフラストレーションのもとになった瑞希と同室で、たまたま一番近くにいた枢であった。
彼らはなにくれと理由をつけて枢を詰り、暴力を振るって、彼を孤立させた。
今まで友人であった人々も巻き込まれたくないと離れていき、ついに枢の周りには誰もいなくなってしまった。
――否。諸悪の根源である瑞希とその親衛隊、そして瑞希に傾倒する人々だけが残った。
枢にとって、瑞希が自分を信頼し互いに悩みを打ち明けることができる親友だったならば、枢は辛くとも現状を受け入れ苦痛に耐えたことだろう。
だが、瑞希はその美しい見た目とは違い、人の迷惑を考えられない人間だった。
話すときはいつも大声で、こちらが言うことには耳を傾けないし、自分の言葉にはいやに自信を持っていて、それが間違いであるとは思ってもいない。
取り巻き連中にはそれが『裏表がなく美しい』という風に映っていたようだが、枢にはそうは思えなかった。
最初から枢に対し「同じクラスで同じ部屋だし、俺、お前の親友になってやるよ!」と言い、昼食時には、うるさいから食堂になど行きたくないのだと伝えても「親友が誘ってるのに断るのか!? 薄情な奴だな! だから友達ができないんだぞ!」と、さもこちらに非があるように怒られる。
初めのうちはその言葉を否定したり、無理に連れていこうとするのを拒んでいたが、瑞希の取り巻きからの圧力と陰で行われる暴力に、抵抗する気持ちも次第に失われていった。
そしてあの日。
いつものように無理やり食堂、それも生徒会役員専用の二階席へと連れていかれた。その日は忘れ物をしたとかで、瑞希は枢を一人その場に残し、どこかへ行ってしまった。
残された枢は針の筵。生徒会役員でもある取り巻きたちからの鋭い視線に、息がしづらい。
近頃はストレスからか、あまり眠れなくなっていた。早く座ってゆっくりしたいのに、誰にも歓迎されていないこの状況では、それができるわけもない。
枢は貧血を起こしたようにクラクラする頭を小さく横に振って、どうにかその場に立っていた。
それから瑞希が戻ってくるまでの間、誰かに足を踏みつけられたり、痣がたくさんある腹をさらにその上から殴られたり、事実無根の話で散々詰られたり、と地獄の時間を耐え抜いていたら、やっと瑞希が現れた。
彼が戻ってきてもそれが救いだということはもちろんない。取り巻き連中の視線が自分から瑞希に移るだけで、彼らの態度が軟化するわけではないのだ。
体調の悪さ、居心地の悪さ、自分がここにいる意味――生きている意味がわからなくなった。
そして、枢は後退って、伸ばされた瑞希の手を払って、バランスを崩して――
視界の端に、最後に見えたのは誰かの笑った顔。
――あれは、白戸瑞希の顔だった。
◇◆◇
フワリ、と何かが頬に触れ、現実に引き戻された。
「……それにしたって、僕って本当に」
自嘲めいた言葉がこぼれそうになった瞬間、またフワリと、今度は手のひらに触れた。
「なんだろう……?」
手のひらを眼前に持ってくる。と、そこにはキラキラと光を帯びた小さな人型のなにかがいた。
「は……?」
それはなぜか手のひらの上をくるくると回っている。どこか嬉しそうにも見えるが、それがなぜだかはわからない。そもそもこの生き物は一体……
「……僕のお迎えに来た天使? でもどっちかっていうと妖精とか精霊かな?」
枢がそう言うと、手のひらのそれはいっそう輝きを増し、さらには跳ねている。
「精霊、なの? 天国って精霊がいるの? ていうかなんで見えるの……?」
いまだに手のひらの上でくるくるしている精霊を見つめながら首を傾げる。不思議がっていると、どこからか仲間がさらに集まってきたようで、知らぬ間に肩や頭やらにちょこんと座っている。
「えぇー、なにこの展開。ビックリすぎる……」
自分の置かれている現状に、枢は驚きと好奇心を隠せない。
どうせ死んだのならばなんでもアリか、と吹っ切れ、その小さな精霊と戯れようかと思ったとき、どこからかガシャガシャとなにかが擦れる音が聞こえた。
しかもそれはどうやら、こちらに向かってきているようにも感じる。
「……なに? なんか近づいてきてる?」
徐々に大きくなる音に枢の不安も大きくなる。手のひらの精霊を優しく包み込み胸元に抱くと、集まっていた他の精霊たちも枢にすり寄ってきていた。彼らが触れているそこは、じんわりと暖かさを感じる。
彼らの暖かさに癒されつつ、胸の奥に湧き起こる不安に、枢が目をぎゅっとつぶった瞬間――
「ここでなにをしている!!」
頭上から大きな声が聞こえた。
そんな至近距離から声がするとは思わず、驚愕に目を見開き顔を上げる。
薄闇になびく色素の薄い髪にがっしりとした体躯、腰の辺りには大きな剣らしきものを携えた男がいた。
おそらく銀色であろう髪に彩られた顔は、枢が今まで見たことがないほど整っていた。
すっと通った鼻筋、薄く形のよさそうな唇は、きゅっと引き結ばれている。凛々しい眉は中心に寄っており、間には深いシワが刻まれていた。精悍な顔つきをしているためか、男の険しい表情は枢に威圧感と恐怖心を与えた。
体がすくんでしまいそうになるが、枢は彼から目を離すことができなかった。
この薄闇の中でも見える、美しい紫水晶のごとき瞳。長い睫毛に覆われたそれは、厳しい光を湛えながらこちらをまっすぐに見つめてくる。
(こわい……。でも、逸らせない)
枢は意識を失う前のことを思い出す。
突き刺さるのは、嫌悪、憎悪、嫉妬、好奇の視線。
しかし目の前にいる男から注がれるのは、そのどれをもしのぐ、鋭く、厳しい眼差し。
「ここでなにをしている、と言っている。お前は誰だ。どうやってここに入った」
「ひっ!」
視線は外せないまま、目の前の男の手が佩いた剣にかかる音を聞いて、枢はひゅっと息を呑んだ。
恐怖から体がガタガタ震えた。胸元に抱いた精霊の小さな温もりも感じ取れないほど、急激に体が冷えていく。息が苦しい、涙があふれる。
(こわい、怖い、恐い……っ!)
「っ、おい!?」
酷く狼狽えたような声が聞こえた気がしたが、枢の意識はそこで途切れた。
「ん……」
身じろぐとサラリとしたシーツの感触が頬に触れた。ひんやりとしたそれが心地よく、さわさわと撫でるが、そこでふと疑問が浮かぶ。
(あれ? 寮のシーツって、こんなに肌触りよかったっけ……)
ぼんやりしたまま目を開けると、明かりがついているのか、眩しさに目を細める。
「う、わ。眩し――」
「起きたのか」
「ひ!?」
そこで完全に覚醒した。
すぐ近くで聞こえた硬い声に飛び起きると、いつぞやのようにクラリとしてしまい、ベッドへ逆戻りしそうになる。
しかし、今回はその時と同じ展開にはならず、誰かがその背を支えてくれた。
自分の傍に目をやる。
そこにあったのは、あの紫水晶の瞳。
心臓がどくりと音を立てて緊張感が全身を支配する。枢は交わった視線を逸らすように、慌てて下を向いた。
(……怖い)
先ほど倒れる前に見た男の目が、視線が、表情が脳裏をよぎる。
思い出すだけでも体が震えそうになる。それはきっと、学校に通っていたときに浴びせられた悪意を思い出してしまうからだろう。
「……私が怖いのか」
「っ!」
ビクリと肩が跳ねる。
「安心しろ。何かするつもりはない。だが、下を向かれては碌な話もできまい。顔を上げてはくれないか」
「っ、あ……」
背中に触れていた腕であろうそれが離れていく。怖かったはずなのに、なぜか寂しさを覚え、枢はゆるゆると顔を上げた。
「話をしてもいいだろうか」
「ぁっ。は、い……」
「そう怯えずともよい。まずは、そうだな……具合が悪いところはないのか」
「え……? は、はい。大丈夫です」
「そうか。それはよかった。一応侍医にも診せはしたんだがな」
「あ、わざわざありがとう、ございます」
(あれ? 怖く、ない……?)
枢は普通に会話していることに驚いていた。最初の表情がきつかったからだろうか、それとも刷り込みか。人の視線は怖いし、見目麗しい人間は自分を害すものだとどこかで思ってしまっていた。
「ここからが本題だが。なぜお前はあの場所にいたのだ?」
「えっと、あの……。そもそも、ここってどこ、なんですか? 天国じゃないんですか?」
「テンゴク? 何だそれは」
「え……っと、その。死んだあとに行くところ?」
「死んだあと? お前は生きているだろう。こうして触れることができるではないか」
ふっと彼は枢の肩に触れる。ビクッとまた大袈裟に反応してしまう。
「おっと、すまない。勝手に触って悪かった。ここはそのテンゴク、という場所ではない。エステル大陸のネオブランジェという国だ」
「エステル大陸……? ネオ、ブランジェ?」
「お前はどこから、どうやってここに来たのだ。見たこともない服を着ているが」
「僕は、日本……から。エステル大陸なんて聞いたことも……」
矢継ぎ早に降ってくるわけのわからない情報に、枢は混乱していた。自分は死んだと思っていたのに生きていると言われ、天国だと思っていた場所はまったく知らない土地だった。
(どういうこと? 何が起きてるの?)
ただし、不思議がっているのは枢だけではないようだった。
「ニホン? 聞いたことがないな。お前のような人間は見たことがない……ひょっとしてこれは」
目の前の人はブツブツと考え込んでいるようで、よく聞きとれない。そのとき、この空気をぶち壊すように枢のお腹が盛大に鳴った。
「~~っ!」
恥ずかしすぎて顔から火を噴きそうで、慌てて布団に顔を埋める。それに加えて隣から小さな笑い声が聞こえ、さらに羞恥心が増していく。
「もう昼も過ぎているからな、すまない気がつかずに。今なにか用意させよう」
「えっ! えと、いいですそんな……! ご迷惑をおかけするわけには!」
「気にすることはない。お前にはまだ聞きたいこともあるしな」
そう言うと男は立ち上がり扉のほうへ歩いていく。男が動いて初めて、枢は部屋の中に視線がいった。
(……は?)
ぽかんと口を開けて愕然とした。
広い室内は煌びやかな装飾が施され、いかにも高そうなソファやテーブルが置かれている。自分が座っているベッドに目を向けると、自分ともう一人くらい余裕で寝られるほどの大きさをしており、手触りのよいシーツに、軽いのに暖かい掛け布団というあまりにも豪華なものだった。
「ひぃっ!!」
枢は慌てて飛び起きる。こんな高そうなベッドで寝ていたなんて、自分はなんて恐ろしいことを! と、心臓が早鐘を打ち出す。
(どうしよう、汚したりしてないかな!? というかそもそもここどこ!? 誰の家!?)
慌ててベッドの下に置いてあった靴を履くと立ち上がり、枢はとりあえずベッドから離れた。
ひとまず部屋の真ん中辺りまで来てみたが、そこにある高級そうなソファに座ることはできず、そのまま立ち尽くすしかなかった。
しばらくして男が帰ってきたが、部屋に入るなり立ったままの枢を見て怪訝そうな表情を浮かべる。
「何をしているんだ?」
「ひ! え、えと……」
「ソファに座ったらどうだ」
「い、いえ……! 大丈夫ですそんな! 汚したりしたら大変なのでっ」
「……なんの心配をしているんだ? いいから座ってくれ」
「で、でも」
「……はぁ」
ビク、と肩が揺れる。怒られるのか、殴られるのか。
大きなため息のあとに近付いてきた足音に、ぎゅっと目を瞑る。
しかし想像とは違い、枢の手に温もりが触れた。「え?」と思ったときにはそれを引かれていた。
「えっ、わ……っ!?」
もつれそうになる足を何とか動かし、手を引かれるままついていく。すると高そうなソファの前にたどり着き、肩を押され、問答無用で座らされた。
しかも男はなぜか枢の隣に座った。
「ひぅっ、な、なに? なんで!」
「いつまでもお前が立っているからだろう。気を失っていたのになぜ安静にしていないのか」
「え、え……っ」
「いらない心配はしなくていい。黙ってここに座っていろ。もうすぐ侍従が食事を持ってくる」
「……じじゅう?」
「なんだ?」
「侍従って、なんですか?」
「主人に仕えるもののことだろう」
「主人って、あなた?」
「私以外に誰がいる」
当然であるかのように男は言うが、枢はますます混乱した。
(待って……! 主人って、侍従って! やっぱりこの人めちゃくちゃお金持ちの人!! どうしよう僕、ものすごく迷惑かけてるよっ……!!)
パニックになり、そのまま立ち上がって逃げようかと思ったとき、ノックの音が響いた。
「アシュレイ殿下、お食事をお持ちしました」
「入れ」
失礼します、と部屋に入ってきたのは、二十代前半くらいの顔の整った男だった。〝アシュレイ殿下〟と呼ばれた目の前の男とは違い、金色の緩い癖毛が特徴的で、緑色の目をしている。
(ここには顔がいい人しかいないのかな?)
また学校でのことが頭をよぎり顔を伏せる。
枢が悩んでいる間に、隣に座っている男――アシュレイは、侍従である金髪の男にテキパキと指示を出していた。
「リオン、テーブルに食事を置いたら宰相を呼んできてくれ」
「ですが殿下」
「こちらのことは気にしなくていい。あと、兄上にはあとで私から知らせるから、この者のことはまだ内密にしておくよう」
「……わかりました。それでは失礼いたします」
金髪の男は一つ礼をして扉へと向かう。部屋を出ていくときに、ちら、と見られた気がするが、その視線は値踏みするような、警戒するようなもので、枢にとってはもはや慣れたものだった。
(まぁそうだろうね……。こんなお金持ちの傍に、どこから来たかもわからない僕みたいなのがいたら警戒もするよね)
仮に知らない土地に来たとして、簡単に自分の扱いなど変わるはずがない。そう自嘲していると、横からアシュレイが声をかけてきた。
「どうした? 腹が減っていたんだろう。食べないのか?」
「あ……」
言われて顔を上げる。見ると湯気の立つ美味しそうな食事が目の前に並べられている。
それを見た瞬間、また腹の虫が鳴いた。
(……そういえば、お昼ご飯を食べる前に階段から落ちたんだよね。最近は食欲もなくてあんまり食べてなかったし)
ゴクリ、とご馳走を前にあふれる唾液を飲み込む。
けれど勝手に手を付けていいものか、それとも〝殿下〟が食べ始めるまで自分は食べてはいけないんじゃないか。あれこれと考えていると先にアシュレイが動いた。
彼はどうやらカチャカチャと肉を切り分け皿に盛っている。甲斐甲斐しく、周りにある野菜なども一通り取り分けると、皿を枢の前に置いた。
「ほら、食べるんだ」
「えっ、で、でも」
「食べられないのか? それとも、私に食べさせてほしいと?」
「っと、とんでもない! そうじゃなくて、あの、あなたは食べないんですか……?」
「私はお前が寝ているときに摂ったから心配しなくていい。だから遠慮せず食べるんだ」
グイと皿をこちらに差し出され、さらにフォークを握らされてはもう抵抗する気も起きない。というか、それ以上に空腹に耐えかねていたので、枢は素直に差し出されたものに手を伸ばした。
「じ、じゃあ、いただきます」
脂がのった肉は鶏だろうか。口に入れると、柔らかい身がまるで溶けてしまうかのように口に拡がっていく。
「美味しい!」
空腹時にこんなに美味しいものを口にしてしまうと、いよいよ枢の手は止まらなくなる。
肉の横に添えられたマッシュポテトは滑らかで口当たりがよく、かけられたソースとよく合っている。青々としたサラダはシャキッと瑞々しく、さっぱりとした柑橘系のドレッシングがかけられており、こちらもまた美味しかった。
近頃めっきり減っていた食欲が復活したように、枢はパクパクと食べ進める。
その間アシュレイは、黙ってその様子を見ていた。
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「あの、ご馳走様でした。とても美味しかったです」
まだオドオドとはしているが、それでもしっかりと瞳を見ながら伝える。すると、ほんの少しだけ彼が微笑んだように見えた。
「そうか。口に合ったようで何よりだ。それでは落ち着いたことだし詳しく話をしよう。リオン入ってこい」
枢に目を向けたまま、アシュレイは言った。
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