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何かがいる 3
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どんなに力を入れてもびくともせず開けることができない。
「何で……、何でっ?」
荒くなった呼吸と共に怒気を帯びた声を上げるが、現状は一向に変わらない。引き戸は上半分が擦りガラスになっている。
殴りつけて割ってやろう。
背後を確認すると、僕の足首を掴んでいたはずの腕はいなくなっていた。それでも念のため、後ろを気にしながら玄関から少し離れてガラスを割ろうとした時だった。
引き戸玄関の向こう側、つまり外側に人影らしきものがぼんやりと立っていたのだ。大声を出して助けを求めようとしたが、躊躇した。
明らかな空き家であるのに、こんな時間帯に人が来るのはおかしいのではないか?それに人影は電灯すら点けていない……。にも関わらず、その人影は何故かくっきりと見えていた。
様子を見るために引き戸の擦りガラスに顔を近づけた瞬間、突如ガラス越しにべったりと顔を付けた女がこちらをじっと覗いて来た。
「わっ!」
驚いて声を上げてしまう。玄関が無かったら身体がぶつかる距離だ。
さっきの人影だ……。
体型や長髪であることからも女であることは間違いないだろう……。
僕を外に出さないために、さっきまで足首を掴んで来た奴が移動して玄関を塞いでいるのかも知れない。
女は身体ごとガラスにべっとりと貼り付き、こちらの様子をじっくりと観察している。僕が少し横に動いただけで眼がぎょろりと動き、一挙手一投足を見逃さんとしていることが嫌でも分かる。
その女は引き戸ごと押し倒す勢いで蜥蜴の様に貼り付いており、こちら側に来るのは時間の問題だった。
女は頭と胴体と手足の全てがあべこべに動く度に「ぜはああぁぁぁー」という絶叫とも悲鳴とも歓喜とも取れる声を上げ、それが薄気味悪い動きと相まって、僕の身体を恐怖心で貫いた。
僕はパニックの余り、玄関を両手で抑えて侵入を拒むことしか出来なかった。
女の呻き声は次第に大きくなり、擦りガラスがビシビシと音を立ててひび割れていき、蜘蛛の巣状に広がってきたので、咄嗟にひびの中心部を抑えた。
これ以上の損壊を何とか防ぎたかったのだ。
やばい、やばい……。
大量の汗が眼に入ってきたが、気にしている場合ではない。
どうにかして女から免れる方法はないだろうか。室内に入って窓から逃げるか?
いや、足首を掴んで来た奴がこの女だとは限らないし、暗闇の中で窓を見つけて外に出ることが出来る保障はない。それに、他の化物がいる可能性も十分にある。これで安易に中に入ったら、それこそ女の思う壺かも知れない。
そう考えると、女が侵入して来た時に入れ違いで玄関から外に出て逃げた方がいいだろう。
女が入って来たと同時に反対側の引き戸を開いて外に出るか、何とかして女が入って来た箇所から抜け出すしかない。
女が体重をかけて引き戸を破ろうとしており、建物が老朽化していることを考えれば、女が引き戸ごと倒れて、その間に逃げることは十分可能なはずだ。重要なのはタイミングだけだ。
引き戸を抑えながら、それを離すタイミングを伺った。引き戸ごと自分も倒れてしまったら確実に掴まってしまう。
まだだ、まだ早い……。
擦りガラス越しに、女が口の両端から大量の涎を垂らしながら呻き声を上げる。
その度に、ピシャリ、ピシャッと涎がガラスに飛び散って来る音に思わずたじろいてしまいそうになるが、その気持ちを必死に抑えた。
そうこうしている間にもひび割れは大きくなり、玄関はミシミシと音を立てて耐久の限界を告げている。
もう少しだ。そしたらタイミングを見計らって一気に両手を離そう。
その時だった。女の呻き声が突如消えた。
自分だけが異世界に放り込まれたかの様に辺りは無音になり、それに比例して自分の息遣いだけが虚しく室内に響く。恐怖で思考の限界値を越えた脳が常識を覆されたことで思考停止状態に陥っている。
僕は信じられない思いのまま、自分の右腕に視線を移した。
自分の手首をしっかりと掴む女の手が、そこにはあった。
女の腕は外から伸びているはずであるのに、擦りガラスはまだ割れていない。
だが、確かに女の腕は外から来ているものなのだ。腐敗して真っ黒に変色した腕からは無数の蛆が湧いており、それがウヨウヨと活発に動き廻っている。
腐りきった肉片が僕の腕を掴んだことで、ベチャリと音を立ててタイル製の土間に落ちた。排水溝の奥底で大量に溜まった汚濁物の様にヌメリとした感触が腕から全身に伝わり、それが強烈な腐敗臭と共にねっとりと纏わり付いて来た。更には女の腐った腕から僕の腕に蛆がベチョベチョと伝って来たことで僕は猛烈な吐き気に襲われた。
ドンッ
玄関からの衝撃音だった。
それが合図であったかの如く無音状態は無くなった。
はっとして音がした方向に視線を戻すと今の衝撃で割れた小さな穴から、こちらをじっとりと見つめる真っ赤な眼がそこにはあった。
あの女だ……。
「ぜはあぁぁー……」
訊いているだけでもむせ返りそうな呼吸音を繰り返しながら、べったりとガラスに顔を擦り付けて瞬き一つせず興味深げに僕の顔を見つめていた。
真っ赤に見えていたのは白目の部分が真っ赤に充血したもので、かっと大きく見開いた眼は完全に常軌を逸している。
「この野郎、離せっ」
力いっぱい腕を振っても女の手は離れない。
ドロドロに溶けて腐った女の手が僕の腕に浸み込んで来て、じわじわと細胞を破壊していくかの如き不快感が腕から全身に伝わり、火事場の馬鹿力とでも云うべき力で腕を強く引いた途端、女の手が離れた。
逆にこっちから引き戸を蹴破って逃げてやろう。
勢いのまま玄関を蹴り飛ばそうとした時に、ふと腕に違和感を覚えた。
もしかして……。
腕を見ても異変はない。それを見て少し安堵する。
女が触れた箇所が腐ってグジュグジュになってしまったかと思ったが幸い異変は見当たらない。さっきまで強く腕を掴まれていたので感触が残っているだけなのだろう。
僕の手首を掴もうとする手を払いのけながら玄関との距離を図ると力を込めて玄関を蹴ろうとした、その時だった。
黒いモノが視界の隅に入り、咄嗟に顔を向けた。
その瞬間、落雷を受け、それと相反して全身に氷水を浴びせかけられたかの様な重い衝撃が身体に突き刺さった。
長い髪を振り乱した蒼白い、いや……、蒼い顔をしたと云っていいだろう。
肩越しに、女が顔を横に向けて、僕を見据えて立っていた。
「何で……、何でっ?」
荒くなった呼吸と共に怒気を帯びた声を上げるが、現状は一向に変わらない。引き戸は上半分が擦りガラスになっている。
殴りつけて割ってやろう。
背後を確認すると、僕の足首を掴んでいたはずの腕はいなくなっていた。それでも念のため、後ろを気にしながら玄関から少し離れてガラスを割ろうとした時だった。
引き戸玄関の向こう側、つまり外側に人影らしきものがぼんやりと立っていたのだ。大声を出して助けを求めようとしたが、躊躇した。
明らかな空き家であるのに、こんな時間帯に人が来るのはおかしいのではないか?それに人影は電灯すら点けていない……。にも関わらず、その人影は何故かくっきりと見えていた。
様子を見るために引き戸の擦りガラスに顔を近づけた瞬間、突如ガラス越しにべったりと顔を付けた女がこちらをじっと覗いて来た。
「わっ!」
驚いて声を上げてしまう。玄関が無かったら身体がぶつかる距離だ。
さっきの人影だ……。
体型や長髪であることからも女であることは間違いないだろう……。
僕を外に出さないために、さっきまで足首を掴んで来た奴が移動して玄関を塞いでいるのかも知れない。
女は身体ごとガラスにべっとりと貼り付き、こちらの様子をじっくりと観察している。僕が少し横に動いただけで眼がぎょろりと動き、一挙手一投足を見逃さんとしていることが嫌でも分かる。
その女は引き戸ごと押し倒す勢いで蜥蜴の様に貼り付いており、こちら側に来るのは時間の問題だった。
女は頭と胴体と手足の全てがあべこべに動く度に「ぜはああぁぁぁー」という絶叫とも悲鳴とも歓喜とも取れる声を上げ、それが薄気味悪い動きと相まって、僕の身体を恐怖心で貫いた。
僕はパニックの余り、玄関を両手で抑えて侵入を拒むことしか出来なかった。
女の呻き声は次第に大きくなり、擦りガラスがビシビシと音を立ててひび割れていき、蜘蛛の巣状に広がってきたので、咄嗟にひびの中心部を抑えた。
これ以上の損壊を何とか防ぎたかったのだ。
やばい、やばい……。
大量の汗が眼に入ってきたが、気にしている場合ではない。
どうにかして女から免れる方法はないだろうか。室内に入って窓から逃げるか?
いや、足首を掴んで来た奴がこの女だとは限らないし、暗闇の中で窓を見つけて外に出ることが出来る保障はない。それに、他の化物がいる可能性も十分にある。これで安易に中に入ったら、それこそ女の思う壺かも知れない。
そう考えると、女が侵入して来た時に入れ違いで玄関から外に出て逃げた方がいいだろう。
女が入って来たと同時に反対側の引き戸を開いて外に出るか、何とかして女が入って来た箇所から抜け出すしかない。
女が体重をかけて引き戸を破ろうとしており、建物が老朽化していることを考えれば、女が引き戸ごと倒れて、その間に逃げることは十分可能なはずだ。重要なのはタイミングだけだ。
引き戸を抑えながら、それを離すタイミングを伺った。引き戸ごと自分も倒れてしまったら確実に掴まってしまう。
まだだ、まだ早い……。
擦りガラス越しに、女が口の両端から大量の涎を垂らしながら呻き声を上げる。
その度に、ピシャリ、ピシャッと涎がガラスに飛び散って来る音に思わずたじろいてしまいそうになるが、その気持ちを必死に抑えた。
そうこうしている間にもひび割れは大きくなり、玄関はミシミシと音を立てて耐久の限界を告げている。
もう少しだ。そしたらタイミングを見計らって一気に両手を離そう。
その時だった。女の呻き声が突如消えた。
自分だけが異世界に放り込まれたかの様に辺りは無音になり、それに比例して自分の息遣いだけが虚しく室内に響く。恐怖で思考の限界値を越えた脳が常識を覆されたことで思考停止状態に陥っている。
僕は信じられない思いのまま、自分の右腕に視線を移した。
自分の手首をしっかりと掴む女の手が、そこにはあった。
女の腕は外から伸びているはずであるのに、擦りガラスはまだ割れていない。
だが、確かに女の腕は外から来ているものなのだ。腐敗して真っ黒に変色した腕からは無数の蛆が湧いており、それがウヨウヨと活発に動き廻っている。
腐りきった肉片が僕の腕を掴んだことで、ベチャリと音を立ててタイル製の土間に落ちた。排水溝の奥底で大量に溜まった汚濁物の様にヌメリとした感触が腕から全身に伝わり、それが強烈な腐敗臭と共にねっとりと纏わり付いて来た。更には女の腐った腕から僕の腕に蛆がベチョベチョと伝って来たことで僕は猛烈な吐き気に襲われた。
ドンッ
玄関からの衝撃音だった。
それが合図であったかの如く無音状態は無くなった。
はっとして音がした方向に視線を戻すと今の衝撃で割れた小さな穴から、こちらをじっとりと見つめる真っ赤な眼がそこにはあった。
あの女だ……。
「ぜはあぁぁー……」
訊いているだけでもむせ返りそうな呼吸音を繰り返しながら、べったりとガラスに顔を擦り付けて瞬き一つせず興味深げに僕の顔を見つめていた。
真っ赤に見えていたのは白目の部分が真っ赤に充血したもので、かっと大きく見開いた眼は完全に常軌を逸している。
「この野郎、離せっ」
力いっぱい腕を振っても女の手は離れない。
ドロドロに溶けて腐った女の手が僕の腕に浸み込んで来て、じわじわと細胞を破壊していくかの如き不快感が腕から全身に伝わり、火事場の馬鹿力とでも云うべき力で腕を強く引いた途端、女の手が離れた。
逆にこっちから引き戸を蹴破って逃げてやろう。
勢いのまま玄関を蹴り飛ばそうとした時に、ふと腕に違和感を覚えた。
もしかして……。
腕を見ても異変はない。それを見て少し安堵する。
女が触れた箇所が腐ってグジュグジュになってしまったかと思ったが幸い異変は見当たらない。さっきまで強く腕を掴まれていたので感触が残っているだけなのだろう。
僕の手首を掴もうとする手を払いのけながら玄関との距離を図ると力を込めて玄関を蹴ろうとした、その時だった。
黒いモノが視界の隅に入り、咄嗟に顔を向けた。
その瞬間、落雷を受け、それと相反して全身に氷水を浴びせかけられたかの様な重い衝撃が身体に突き刺さった。
長い髪を振り乱した蒼白い、いや……、蒼い顔をしたと云っていいだろう。
肩越しに、女が顔を横に向けて、僕を見据えて立っていた。
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