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しおりを挟む*唯我side**
「……」
「……なんか、言いたそうだな」
雨が降ってきた。身体を濡らし、身体を冷やす雨が降ってきた。
髪を伝って零れる雫が泥になった土の上を更に濡らす。
「……全然、楽しくないな」
「……あぁ、そうだろうな」
律は喧嘩で急所を狙う癖がある。
それは身長の小ささというハンデがある彼なりの戦法だと思っていた。
だけど、今分かった。急所を狙う戦法はこの男から受け継がれていたものだったのだ。
「……なんで俺、アンタが憎かったんだっけ」
「負けたからだろ。理不尽に」
「……あぁ、そっか……うん、そうだね」
圧倒的王者は今も昔も変わらない。
唯一変わったものと言えば、ちゃんと俺に向き合って喧嘩をしてくれたことだろうか。
人は変わりゆく生き物だ。誰かがそう言っていた。それは本当だと思う。俺も、この人も、変わってしまった。
今は昔ではない。変わらないものなど、ない。
前髪から零れ落ちた雫が彼の頬を塗らした――俺の足元に倒れる、彼の元に。
「……虚しいな、なんか」
「知らねぇよ……満足、してるか?」
勝った。俺は勝った。
だけど不思議と喜べない。むしろ悲しい。虚しい。切ない。苦しい。
何で? 何で、こんなに辛いんだよ。
「……満足、して……ない、かも……」
「あぁ。そんな顔してるよお前」
何で勝ってしまった? 俺が強くなったのか?
何でコイツは倒れてる? 俺が倒してしまったのか?
違う。
違う。
こんなの、望んでいた世界じゃない。
「…………満足、してねぇよ……っ」
「……」
分からない。昔の自分が望んでいた世界は今この瞬間の筈なのに、何故か虚しくて辛くて仕方がない。
もっと確かなものが欲しい。勝つとか負けるとか、そんなんじゃなくて。
そんなんじゃなくて。
「……何で、負けてんだよっ!」
「お前が負かしたんだろ」
「何で……っ、俺なんかに負けてんだよっ!」
気持ちがごちゃごちゃと俺を埋め尽くす。
あぁ何だコレ。頭が痛い。
「アンタ悪魔のトリルだろ!? 何で俺なんかに負けてんだよっ!」
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ。今の悪魔のトリルは俺じゃねぇ、律だ」
「そういうこと言ってんじゃねぇよ! 何で! 何で俺に負けてんだよっ! 何で負けてんだっ!」
「……テメェが負かしたからだろ、うぜぇな」
苛々と頭が酷く痛くなる。分からない。
何で俺はこんなに焦っている? どうしてこんなに恐れている?
何で、コイツは俺の足元に転がってるんだ?
「手加減してんじゃねぇよ! 立てよ! 立って真面目にやれよ! 本気出せよツ!」
「あのなぁ、俺だって一応本気でやったっつーの。俺だって負けるとは思ってなかったし……まぁ、楽しかったけどな」
「――っ!」
俺に負かされて足元に転がる彼は、本当に楽しそうに笑った。
雨が降る中、スーツについた土が泥になる中、彼は楽しそうに笑った。
その笑顔で俺は気づいてしまったんだ。
「……」
「あ? もう気は済んだのか?」
その場にしゃがみこむように足を崩して俺は俯いた。
あぁ、そうか。そうだったのか。俺は、俺は。
「……お、れは」
「あ?」
何で、最初に気づけなかったんだろう。
何で、もっと早くに気づけなかったんだろう。
そうだ、そうだよ俺は。
「お、れは……っ! ……っンタに、憧れてたんだよ……っ!」
俺は、この人に憧れていたんだ。
「……」
喧嘩で負け知らずの俺をいとも簡単に倒した彼に、俺はある感情が芽生えていた。
それは絶対憎しみだとそう思い込んでいた。
だってそうだろ。
今まで負けたことのない俺が、しかも理不尽とも言える一方的な喧嘩で。
いや、違う。
一方的ってのは言い訳だ。俺がもし強かったのならその時、対等にやり合えていた筈だ。
でもそうじゃなかったということは俺が弱かったまでのこと。
だから俺は悔しかったし、それが憎しみだと思い込んだ。
だけど本当は違っていた。
この気持ちは、彼に対する底知れない感情は。
強い、憧れ。
「……~~クソッ……! 負けてんじゃねぇよ……っ」
「……馬鹿か」
俯く俺の頭を軽く小突いた彼は一度、鼻で笑った。
恐る恐る彼に目を向けると、そこには幸せそうに微笑む憧れの人。
「俺が負けたってことは、テメェが強くなったってことだ。それに俺もテメェのこと嫌いじゃないぜ? ……こんなに久しぶりにマジでやれたのは、お前くらいだよ、サタン」
「……――っ!」
馬鹿だよ、俺は。
アンタにそう言われて、今すごく嬉しいなんて思ってるんだ。
本当は、アンタとこうして拳を交えたこと、すごく嬉しいと思えてんだよ。
気づくの本当、遅すぎだよね。
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