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3.ローラ
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図書室での一件以来、俺は暇を見つけては本を読むようになった。もちろんまとまった時間なんてあるわけないから、寝る前の十分とか食後の空いた時間とかだけれど。それでも文字を追いかけ、頭の中に違う世界を思い浮かべ、そこで起きる様々な出来事を想像するというのは、なんとも心地よいものだ。
行ったことのない国の、生まれていない時代の、顔も知らない二人に思いを馳せる。時に切なく、時に激情的に、愛を語り涙を流す。こうして忙しない日々を過ごしていると、空想のものとはわかっていても違う世界にどっぷりとのめり込めるのは一種の気分転換になった。
あまり長いものは話の筋を忘れてしまいそうだし、時間もかかるだろうから短めの戯曲を選ぶようにしている。そもそも俺はこういった類の、作り話を読むことに慣れていない。今まで読んできたのはどれも何かを説明したり、論じたりするものばかりだった。言ってしまえばある程度の知識があればその先を推測することができるため、そこまで頭を使う必要はない。だが物語のように先の読めないものはやはり少し頭を使う。頭の中で筋を追いかけて、登場人物たちから置き去りにされないようにしなくてはいけない。感情移入できるかというとそれはまた別の話だけれど、やはりある程度はできるに越したことはない。
なるほど、物語というのは奥が深い。
それに、この館に置いてあるのは所謂「名作」と呼ばれるものばかりだ。各国を代表するものが所狭しと並べられている。やはり名作と言うだけあってどれも内容は魅力的で、途中で読むのを止めると先が気になって仕方なくなる。早く部屋に戻って続きを読みたいと思うし、もしまとまった休みが取れたら図書室に引きこもって延々と呼んでいたいとさえ思う。ディヴィッド様があれほどまでに読み込んだ理由も今なら少しわからないでもない。これは、確かに麻薬のようだ。
洪水のような文字が頭の中に流れ込んできて、もっとたくさん、もっと刺激を与えてくれと叫んでくる。新しい世界を教えてくれ、知らない世界を見せてくれ、そうしてこの、何も起こらない平穏な日常を忘れさせてくれ。俺の中にある何かが、そう叫んでいるような気がした。
別に今の生活に不満があるわけではない。仕事は大変だがやりがいはあるし、何より生まれた時からこうなることが運命付けられていたのだ。他の仕事なんて知らないし興味もない。嫌だとか、面倒だとか、逃げ出したいとか。そういうことはこれっぽっちも思ったことがなかった。一生ノールズ家の屋敷から出ることなく死んでいくのかと思う時、そこに寂しさや悲しさはなく、ただそれこそがドメーニコ家の人間としてあるべき人生なんだとさえ思っている。その事実は何も変わらないし、間違っているとも思っていない。
でも、ほんの少しだけ。もしも叶うのであればもっとたくさんの世界を見てみたいと思った。この世には中庭に咲いている薔薇以外の花々がある。図鑑で見るだけではなく、それらをこの目で見たみたかった。一体どんな色なんだろう。どんな香りなんだろう。その花に想いを込めて、誰かに愛を囁く時。一体人は、どんな言葉を紡ぐのだろう。俺はそういうことを、少しだけ知りたいと思っていた。
「ラブロマンスの読みすぎだな」
自分の少女じみた思考に苦笑いをしながら小さな鍋に入れたミルクをかき混ぜる。沸騰しないよう気をつけながらくるりと小さじで円を描く。温まるにつれて甘い香りが厨房に広がっていく。洗い物はまとめてアリーチェがしてくれるそうなのでその言葉に甘えておこう。今はただ、このミルクを火傷しない、ほどよい温かさにすることだけに集中しよう。
白い陶器のポットには庭で摘んできたカモミールの花が入っている。先日、珍しく晴れた時にみんなでハーブを大量に乾燥させたのだ。ラベンダーやローズマリーに混じって、このカモミールがシーツの上に広げられていた。小さな白い花は風が吹けばすぐに飛んで行ってしまいそうだ。フレッシュのままでもいいけれど、こうして乾燥させると風味が増すのだと教えてもらい、小さな瓶に少しだけ分けてくれと頼んだのがこれだった。
カモミールは、良い睡眠をもたらす。ラベンダーと違い味に癖もない。甘い林檎のような風味がするし、こうしてホットミルクに入れればリラックス効果も増す。戸棚に入れていたアカシアの蜂蜜を少し垂らせばあっという間に眠りに落ちるだろう。
今日も今日とて屁理屈を言っては逃げ回っていたディヴィッド様は、果たしてこのミルクティーを気に入ってくれるだろうか。以前ならきっとこんなこと考えもしなかっただろうと思いながら、小さな泡を出して沸騰しかけているミルクをポットに注いだ。
「快い眠りは、自然が人間に与えてくれる優しい看護婦、だからな」
先日見かけた本の一節を思い浮かべながらポットとカップを乗せたカートを押していく。まさか自分の中からこんなにスラスラと言葉が生まれてくるとは思わなかった。それほどまでに本を読むことが楽しみになっているのだろう。もっと早く教えてもらえればよかったのにと思う反面、あのタイミングだったからこそディヴィッド様もあそこまでいろいろと話をしてくれたんだと思う。
ふわふわのカーペットの上を歩きながら、もうほとんど暗くなっている廊下を歩く。壁に掛けられているランプは必要最低限しか光は灯されておらず、ふわりと橙色の光が長い廊下に点々と灯されている。わずかに開いたカーテン越しに漏れてくる月の光は重たい雲に閉ざされ、星の輝きも今日は見ることができない。
郊外であるここジェラニアは、首都のトラニアでは見られないような美しい夜空が広がっている。燦々と太陽が降り注ぐことはそう多くないが、それでも夜は静かで穏やかだ。月はいつも明るく輝き、星は点々と美しく光る。生まれてこのかたトラニアにいたせいか、初めてこの地に来た時はなんて美しいのだろうかと感動したほどだ。すぐにそうやってのんびり空を見上げる余裕なんてなくなったけれど、最近は少しだけ夜空を眺めながら息をつくことができるようになった。
「成長した証拠だとしたらいいんだけど」
目的の部屋に辿り着く。廊下の一番奥の、一つ手前にある、重たい扉。初めてそこをノックした日のことは今でもよく覚えている。震える手で、上ずった声で、自分の主人の名前を呼んだ。自分より年下で、ちょっと面倒な性格だと聞かされていたから果たしてどんな人物だろうかと思っていたけれど、まあなんとも、想像以上に手のかかる御仁だった。
初対面だというのにじとりと紫色の瞳に睨みつけられた。この世の誰も信じないという視線が、ぐさりと突き刺さった気がした。絶対にお前のことは信頼しない、何があっても心を開かない。そういう決意がありありと伝わってきた。
そんな出会いから考えてみると、話しかけてちゃんと返事が来るのはまるで奇跡のようだ。それでもまだ彼が何を考えているか全てわかることはない。何を望んで、何を欲しがっているのか。どうして彼は、本邸ではなくこの離れにいるのか。まだ俺には、そこまで踏み込んでいいとは思えなかった。
「ディヴィッド様、失礼します」
扉を三回ノックする。中から返事はないけれど、その沈黙こそが了承だということは最近やっと学んだ。
取っ手を押すと、音もなくドアは開いた。ワゴンを中に入れて自分も室内に入っていく。俺の私室が三倍くらいある部屋に置かれた大きなベッドに、ディヴィッド様はいた。どこか気難しそうな顔で何かを読んでいる。てっきり図書室から持ってきた本だろうかと思ったがそうではなさそうだ。
「就寝の支度に参りました」
「うん」
「今日は庭で摘んだカモミールで……ディヴィッド様?」
「うーん」
適当に返事をするのはいつものことだけど、今日はどこか上の空だった。ディヴィッド様は周りに関心がないようにしているけれど、本当はその逆だ。誰よりも周りのことを見ていて、それでいて無関心を装っている。だからこうやってぼんやりしているのはとても珍しかった。
そうやって隙を見せてくれるのは嬉しいけれど、なんだか変な感じがする。
「どうかされましたか」
「別に……」
「そうですか。ではお茶はこちらに置いておきますね」
「……うん」
何があったか気にはなるがあまり突っ込んでもいけない。無理に踏み込むとまたすぐに逃げられてしまいそうになるからだ。ディヴィッド様が望む時に、望むような形で言葉にして欲しい。そう思ったから、俺はなるべく普段通りに振る舞うように心がけた。
まだ温かいポットからお茶を注ぐ。甘い香りのするミルクが淡い色に染まって、華やかな芳香が立ち上った。よく眠れるように蜂蜜を一さじ垂らしてよく溶けるようにかき混ぜる。あまり甘くすると虫歯になるから少なめに。
「いつものお香もつけますね」
「うん」
「また行商人が来たら買っておきましょう」
「……わかった」
息を吹きかけながら少しずつお茶を飲む様子を見ながら小さなお香に火を点ける。これが消える頃にはきっと良い眠りに落ちているだろう。東洋のどこかにある国で作られている、特別なお香だ。花と太陽と、少しだけ海辺にいるような不思議な香りだ。寝つきが良くないと言っていたディヴィッド様のために俺が初めて貰った給料を使って買ったものだった。
最初は出過ぎたことをしただろうかと思ったけれど、ディヴィッド様はお気に召した様で今ではこれがないと眠れないと言う。
「それじゃあ、また明日。どうぞ良い眠りを」
そう言って空になったカップを受け取ろうとベッドに近寄ると、何か言いたそうな顔で俯向くディヴィッド様がいた。片手には手紙を握り締めている。きっとその手紙に鬱ぎ込む理由があるのだろう。
今日届けられた郵便物を思い返してみて、その中に一つだけあったディヴィッド様宛のものを思い出す。そうだ、あれは。本邸から送られてきたものだった。
とはいえ。俺は踏み込んでいいのだろうか。差出人はわかっている。それがどういう意味を持つのかわからないけれど、それでも今こうやって落ち込んでいるのは事実だ。でも俺がそこまで深く関わっていいか、正直わからなかった。寂しげに揺れるブルネットを、なぜか無性に撫でたくなった。それをぐっと堪えて、まあ拒絶されることには慣れているからと言い訳をして、言葉を必死に選んで口を開いた。
「……そのお手紙、ジョージ様からでしょう?」
「そう。うん。父さんから」
「私が定期的に送っている手紙には貴方が毎日頑張っていると書いているから、叱責はないと思いますが」
「怒られたわけじゃあないよ。むしろその逆」
「だったら」
そこまで言葉にして、しまったと思った。これはあまりに、踏み込み過ぎた。今の俺にはこれ以上は聞いてはいけない。あくまでディヴィッド様が話したくなるまで待たないといけなかったのに。
でも、と。誰に対してかはわからないけれど、意味なんてないけれど、言い訳をしたくなる。ディヴィッド様が泣きそうな顔をしていたから。悲しそうに俯いていたから。何か言いたそうにしていたから。今まで隠してきたそういう弱いところをようやく少しずつ見せてくれるようになったのだ。それらを汲み取らずに見過ごすなんて。俺にはできなかった。
「ヴィンチェンツォ、あのさ」
「えっ、あ。はい」
もう下がれと言われるんだろうと思った。もうこれ以上は踏み込まないでくれと言われるんだと思った。やりすぎた自覚はあったから今更そんなことに傷つかないけれど。
わかりきっていることに傷ついてしまう前にさっさと引き下がろう。そう思っていたのに。
「ちょっと、話聞いてくれる?」
「……え?」
「あ、い、忙しいならいいんだ! 気にしないで」
「忙しくないです、大丈夫です! えっと、私でよければ」
正直なところ、この仕事が終われば俺の一日は終わりになる。残り短い自由時間をどう使うかは俺の勝手だし、それを主人のわがまま(にさえならないお願い)を聞くことに使うことは、忙しいなんてことにはならない。
まあ、要するに。俺は嬉しかったのだ。初めてディヴィッド様が俺に「お願い」を言ってきたのだから。遠くに行ってくれというお願いではなく、近寄ってくれというお願いを、初めて言ってもらえた。それだけで今日一日の疲れはすべて吹き飛んだし、胸が面白いほどに高鳴った。
「お茶がなくなってしまいましたね。新しく淹れましょうか」
「ううん。いらない」
「そうですか」
「それよりも話を聞いて」
そう言って、ぐしゃりと手紙を握りつぶす。ああ、もう。そうやって今にも泣きそうな気持ちを自分一人で堪えようとするなんて。
まだ頭を撫でてあげることはできないし、抱きしめることだってかなわない。それでもいつか、その小さな体に抱えている寂しさや悲しみに触れられたらと思った。その頃になる時に、俺が隣にいてあげられる保証はないけれど。
「……ヴィンチェンツォがたくさん褒めてくれたから、父さんも喜んでて」
「それは良かった」
「うん、それは僕も良かったなって思ったんだけど。でも……」
「ん?」
キラリと、紫色の瞳がこちらに向いた。アメジストのように透き通った美しい目だ。ちょっとだけ垂れた目尻が頼りなさげに震えている。長いまつげがまぶたの下に影をつくっていた。
昼間に見せる生意気でわがままな少年は影を潜め、繊細で弱々しい姿しかそこにはなかった。
「『さすがノールズ家だ、私の息子だ』だってさ。僕の名前はどこにもなかったんだ。ノールズ家の子供、ノールズ家の血のおかげだって。そんなことしか書いてくれない」
「それ、は……。きっと、ジョージ様もそのお言葉が一番の称賛だと思われて」
「でも! そんなの、僕の努力なんて関係ないじゃあないか!」
苛立ったように声をあげたディヴィッド様は、なぜ自分がそこまで感情的になっているのかわからないようだった。感情を持て余してしまい、自分でもどうしたらいいかわかっていないのだろう。
だが、本当ならこれが当たり前なのだ。思春期と呼ばれる年頃に感情を持て余して苛立ってしまうことは、誰もが通る道だ。だというのにディヴィッド様はいつもそれを一人で抱え込んで、隠そうとしていた。それはつまるところ、周りからの「ノールズ家たるもの」というプレッシャーと、それを拒絶することができずに生きてこなければならなかった弊害なのだろう。一度吹き出した感情を堰きとめる術を知らないためか、絞り出した声は悲しいくらいに震えていた。
「どんなに頑張っても、どんなに優秀でも、どんなにいい成績をとっても、そんなの……そんなの、誰も僕を褒めてくれない! 認めてくれない! 全部この血のおかげだなって! そんなの、僕は……望んでなんかいないのに……」
「ディヴィッド様……」
「もし、僕の目がこんな色じゃなくて」
「え?」
そう言って、するりと伸ばされた白い手が、俺の頰に触れた。柔らかくて、小さくて、そして驚くほどに、熱かった。
「……っ!」
「ヴィンチェンツォみたいに、青い色だったら。そうしたら、ちゃんと認めてもらえたのかな」
「あ、青い……?」
美しいバイオレットの瞳は、ノールズ家が代々受け継ぐものだった。その色が美しく、澄んでいればいるほど高い能力を持っていると言われている。ディヴィッド様の瞳は光を吸い込むほどに鮮やかで、透明感のある色をしていた。
俺は、その色が好きだった。能力が高いからとか、主人だからとかではなく。ただ純粋に、引き込まれそうなほどの色に、俺は魅了されたのだ。初めて出会ったあの日、俺に向けられた視線に、俺は突き刺されたのだ。
あの色に、あの輝きに、あの光に。
だから俺は、いくらディヴィッド様に憎まれ口を叩かれようと授業から逃げられようと、見限ることだけはしたくなかったのだ。たとえ口うるさいと思われようと、鬱陶しいと思われようと、俺は隣にいたいと思っていた。
「ディヴィッド様、私は、あなたの瞳が好きなんです」
「それは、能力が」
「そうではなく。そりゃ確かに、あなたはとても優れていると思います。私がいなくてもなんでも出来てしまうし、賢いですからね。だから鼻が高いんですよ。でもね」
賢いからとか、優れているからとか、そんなことではないのだ。だから好きなのではない。きっと彼が何もできず勉強もおぼつかない人だったとしても、俺はディヴィッド様を誇っただろう。
結局は、彼が彼であることが大切なのだ。そしてそんな人に仕えられることが、俺の一等の喜びだった。
「『名前が何だというの? バラと呼ばれるあの花は、ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない』って、言うでしょう?」
「シェイクスピア?」
「そうです。貴方が教えてくれたお話ですよ」
たとえディヴィッド様が「ノールズ」という名前にとらわれ、その瞳の色を疎んだとしても。俺にとっては意味のないことだった。ただそこにいるだけで十分だった。俺はジュリエットのように「名前を捨てて私をとって」なんて言わないけれど、それでも例え彼が「ディヴィッド・ノールズ」という名前を失っても、その瞳に輝きを失くしても、俺は彼の歩みを支えたいと思うのだ。
それは幼い頃から「執事として主人に仕える」という考えが刷り込まれているせいかもしれない。立派な執事として、主人が惜しみなく栄光を積み重ねるために尽力する。これこそが俺の生き甲斐で、生きる理由だと思っていた。だが、なぜだろう。最近はそれに少しだけ別のものが加わっているような気がする。
主人じゃなくても、執事じゃなくても、俺はディヴィッド様の隣に居たいと思うのだ。それはきっと「執事」としては有るまじき願いだろう。そんなこと、願ってはいけないのだろう。だが求めてしまうのだ。いつまでも、隣に居てくれること。彼にとっての一番が、俺であって欲しいと。
どうしてこんなことを考えてしまうんだろう。
「ねえ、その言葉の意味わかって言ってる!?」
「へぇっ!? ま、まあ。一応」
「それ、ええ……っ!」
「俺、何か変なこと言いましたか!?」
「変っていうか、いや……うーん」
先ほどまでの落ち込んでいた雰囲気は何処へやら。耳まで真っ赤にして、慌てたように声を上ずらせていた。そんな姿は普段見せることがない。何だろう、俺は何か、おかしなことを言ってしまっただろうか。しかもついうっかり自分のことを「俺」と言ってしまったし。どんだけ動揺してるんだ。
ただ「貴方は貴方ですよ」と言いたいだけなのに。
「もー、いい! わかった! ヴィンチェンツォの天然タラシ!」
「はぁ!? どこがですか、というかタラシって!」
「そういうとこだよ! もう寝る!」
「お、おやすみなさい!」
勢いでかけた言葉は、自分でも思っている以上に甘く柔らかかった。そう、まるで。親愛に満ちているような、声だった。
「それではまた明日」
「はーい」
「それと、ディヴィッド様」
「ん?」
これだけはちゃんと伝えておかないと。決して俺が気まぐれとか、その場限りで言ったわけではないと伝えなくては。
「私は、貴方がどんな名前でも大切だと思いますよ」
「……バーカ」
「はいはい」
空になったカップを受け取って、それからベッドサイドのランプも消す。これ以上つけているとまた図書室から持ってきた本をずっと読んでしまうだろう。
ベッドに横たわり、ふっと目を閉じたのを見届けて部屋を後にするためワゴンの上を整理する。ほのかに残る蜂蜜の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「おやすみなさい、ディヴィッド様。どうぞ良い夢を」
「うん……おやすみ。また明日」
ベッドに潜ってもごもごと呟かれた声を聞いて、そういえば初めて夜の挨拶に返事があったなと口元を緩めた。じわりと胸の奥が温かくなる。
そう、また明日。俺たちにはまた「明日」がある。一体、明日はどんな一日になるんだろう。きっとまた授業が嫌で逃げ出すんだろう。そうして屋敷中を走り回って、汗だくになって、また日が暮れていくのだろう。
それはきっと、楽しい一日だ。
「また明日。ディヴィッド様」
部屋の電気を消して、月明かりが差し込む廊下に一歩踏み出す。いつもより何だか光がまぶしく思えて、ぎゅっと目を細めた。
行ったことのない国の、生まれていない時代の、顔も知らない二人に思いを馳せる。時に切なく、時に激情的に、愛を語り涙を流す。こうして忙しない日々を過ごしていると、空想のものとはわかっていても違う世界にどっぷりとのめり込めるのは一種の気分転換になった。
あまり長いものは話の筋を忘れてしまいそうだし、時間もかかるだろうから短めの戯曲を選ぶようにしている。そもそも俺はこういった類の、作り話を読むことに慣れていない。今まで読んできたのはどれも何かを説明したり、論じたりするものばかりだった。言ってしまえばある程度の知識があればその先を推測することができるため、そこまで頭を使う必要はない。だが物語のように先の読めないものはやはり少し頭を使う。頭の中で筋を追いかけて、登場人物たちから置き去りにされないようにしなくてはいけない。感情移入できるかというとそれはまた別の話だけれど、やはりある程度はできるに越したことはない。
なるほど、物語というのは奥が深い。
それに、この館に置いてあるのは所謂「名作」と呼ばれるものばかりだ。各国を代表するものが所狭しと並べられている。やはり名作と言うだけあってどれも内容は魅力的で、途中で読むのを止めると先が気になって仕方なくなる。早く部屋に戻って続きを読みたいと思うし、もしまとまった休みが取れたら図書室に引きこもって延々と呼んでいたいとさえ思う。ディヴィッド様があれほどまでに読み込んだ理由も今なら少しわからないでもない。これは、確かに麻薬のようだ。
洪水のような文字が頭の中に流れ込んできて、もっとたくさん、もっと刺激を与えてくれと叫んでくる。新しい世界を教えてくれ、知らない世界を見せてくれ、そうしてこの、何も起こらない平穏な日常を忘れさせてくれ。俺の中にある何かが、そう叫んでいるような気がした。
別に今の生活に不満があるわけではない。仕事は大変だがやりがいはあるし、何より生まれた時からこうなることが運命付けられていたのだ。他の仕事なんて知らないし興味もない。嫌だとか、面倒だとか、逃げ出したいとか。そういうことはこれっぽっちも思ったことがなかった。一生ノールズ家の屋敷から出ることなく死んでいくのかと思う時、そこに寂しさや悲しさはなく、ただそれこそがドメーニコ家の人間としてあるべき人生なんだとさえ思っている。その事実は何も変わらないし、間違っているとも思っていない。
でも、ほんの少しだけ。もしも叶うのであればもっとたくさんの世界を見てみたいと思った。この世には中庭に咲いている薔薇以外の花々がある。図鑑で見るだけではなく、それらをこの目で見たみたかった。一体どんな色なんだろう。どんな香りなんだろう。その花に想いを込めて、誰かに愛を囁く時。一体人は、どんな言葉を紡ぐのだろう。俺はそういうことを、少しだけ知りたいと思っていた。
「ラブロマンスの読みすぎだな」
自分の少女じみた思考に苦笑いをしながら小さな鍋に入れたミルクをかき混ぜる。沸騰しないよう気をつけながらくるりと小さじで円を描く。温まるにつれて甘い香りが厨房に広がっていく。洗い物はまとめてアリーチェがしてくれるそうなのでその言葉に甘えておこう。今はただ、このミルクを火傷しない、ほどよい温かさにすることだけに集中しよう。
白い陶器のポットには庭で摘んできたカモミールの花が入っている。先日、珍しく晴れた時にみんなでハーブを大量に乾燥させたのだ。ラベンダーやローズマリーに混じって、このカモミールがシーツの上に広げられていた。小さな白い花は風が吹けばすぐに飛んで行ってしまいそうだ。フレッシュのままでもいいけれど、こうして乾燥させると風味が増すのだと教えてもらい、小さな瓶に少しだけ分けてくれと頼んだのがこれだった。
カモミールは、良い睡眠をもたらす。ラベンダーと違い味に癖もない。甘い林檎のような風味がするし、こうしてホットミルクに入れればリラックス効果も増す。戸棚に入れていたアカシアの蜂蜜を少し垂らせばあっという間に眠りに落ちるだろう。
今日も今日とて屁理屈を言っては逃げ回っていたディヴィッド様は、果たしてこのミルクティーを気に入ってくれるだろうか。以前ならきっとこんなこと考えもしなかっただろうと思いながら、小さな泡を出して沸騰しかけているミルクをポットに注いだ。
「快い眠りは、自然が人間に与えてくれる優しい看護婦、だからな」
先日見かけた本の一節を思い浮かべながらポットとカップを乗せたカートを押していく。まさか自分の中からこんなにスラスラと言葉が生まれてくるとは思わなかった。それほどまでに本を読むことが楽しみになっているのだろう。もっと早く教えてもらえればよかったのにと思う反面、あのタイミングだったからこそディヴィッド様もあそこまでいろいろと話をしてくれたんだと思う。
ふわふわのカーペットの上を歩きながら、もうほとんど暗くなっている廊下を歩く。壁に掛けられているランプは必要最低限しか光は灯されておらず、ふわりと橙色の光が長い廊下に点々と灯されている。わずかに開いたカーテン越しに漏れてくる月の光は重たい雲に閉ざされ、星の輝きも今日は見ることができない。
郊外であるここジェラニアは、首都のトラニアでは見られないような美しい夜空が広がっている。燦々と太陽が降り注ぐことはそう多くないが、それでも夜は静かで穏やかだ。月はいつも明るく輝き、星は点々と美しく光る。生まれてこのかたトラニアにいたせいか、初めてこの地に来た時はなんて美しいのだろうかと感動したほどだ。すぐにそうやってのんびり空を見上げる余裕なんてなくなったけれど、最近は少しだけ夜空を眺めながら息をつくことができるようになった。
「成長した証拠だとしたらいいんだけど」
目的の部屋に辿り着く。廊下の一番奥の、一つ手前にある、重たい扉。初めてそこをノックした日のことは今でもよく覚えている。震える手で、上ずった声で、自分の主人の名前を呼んだ。自分より年下で、ちょっと面倒な性格だと聞かされていたから果たしてどんな人物だろうかと思っていたけれど、まあなんとも、想像以上に手のかかる御仁だった。
初対面だというのにじとりと紫色の瞳に睨みつけられた。この世の誰も信じないという視線が、ぐさりと突き刺さった気がした。絶対にお前のことは信頼しない、何があっても心を開かない。そういう決意がありありと伝わってきた。
そんな出会いから考えてみると、話しかけてちゃんと返事が来るのはまるで奇跡のようだ。それでもまだ彼が何を考えているか全てわかることはない。何を望んで、何を欲しがっているのか。どうして彼は、本邸ではなくこの離れにいるのか。まだ俺には、そこまで踏み込んでいいとは思えなかった。
「ディヴィッド様、失礼します」
扉を三回ノックする。中から返事はないけれど、その沈黙こそが了承だということは最近やっと学んだ。
取っ手を押すと、音もなくドアは開いた。ワゴンを中に入れて自分も室内に入っていく。俺の私室が三倍くらいある部屋に置かれた大きなベッドに、ディヴィッド様はいた。どこか気難しそうな顔で何かを読んでいる。てっきり図書室から持ってきた本だろうかと思ったがそうではなさそうだ。
「就寝の支度に参りました」
「うん」
「今日は庭で摘んだカモミールで……ディヴィッド様?」
「うーん」
適当に返事をするのはいつものことだけど、今日はどこか上の空だった。ディヴィッド様は周りに関心がないようにしているけれど、本当はその逆だ。誰よりも周りのことを見ていて、それでいて無関心を装っている。だからこうやってぼんやりしているのはとても珍しかった。
そうやって隙を見せてくれるのは嬉しいけれど、なんだか変な感じがする。
「どうかされましたか」
「別に……」
「そうですか。ではお茶はこちらに置いておきますね」
「……うん」
何があったか気にはなるがあまり突っ込んでもいけない。無理に踏み込むとまたすぐに逃げられてしまいそうになるからだ。ディヴィッド様が望む時に、望むような形で言葉にして欲しい。そう思ったから、俺はなるべく普段通りに振る舞うように心がけた。
まだ温かいポットからお茶を注ぐ。甘い香りのするミルクが淡い色に染まって、華やかな芳香が立ち上った。よく眠れるように蜂蜜を一さじ垂らしてよく溶けるようにかき混ぜる。あまり甘くすると虫歯になるから少なめに。
「いつものお香もつけますね」
「うん」
「また行商人が来たら買っておきましょう」
「……わかった」
息を吹きかけながら少しずつお茶を飲む様子を見ながら小さなお香に火を点ける。これが消える頃にはきっと良い眠りに落ちているだろう。東洋のどこかにある国で作られている、特別なお香だ。花と太陽と、少しだけ海辺にいるような不思議な香りだ。寝つきが良くないと言っていたディヴィッド様のために俺が初めて貰った給料を使って買ったものだった。
最初は出過ぎたことをしただろうかと思ったけれど、ディヴィッド様はお気に召した様で今ではこれがないと眠れないと言う。
「それじゃあ、また明日。どうぞ良い眠りを」
そう言って空になったカップを受け取ろうとベッドに近寄ると、何か言いたそうな顔で俯向くディヴィッド様がいた。片手には手紙を握り締めている。きっとその手紙に鬱ぎ込む理由があるのだろう。
今日届けられた郵便物を思い返してみて、その中に一つだけあったディヴィッド様宛のものを思い出す。そうだ、あれは。本邸から送られてきたものだった。
とはいえ。俺は踏み込んでいいのだろうか。差出人はわかっている。それがどういう意味を持つのかわからないけれど、それでも今こうやって落ち込んでいるのは事実だ。でも俺がそこまで深く関わっていいか、正直わからなかった。寂しげに揺れるブルネットを、なぜか無性に撫でたくなった。それをぐっと堪えて、まあ拒絶されることには慣れているからと言い訳をして、言葉を必死に選んで口を開いた。
「……そのお手紙、ジョージ様からでしょう?」
「そう。うん。父さんから」
「私が定期的に送っている手紙には貴方が毎日頑張っていると書いているから、叱責はないと思いますが」
「怒られたわけじゃあないよ。むしろその逆」
「だったら」
そこまで言葉にして、しまったと思った。これはあまりに、踏み込み過ぎた。今の俺にはこれ以上は聞いてはいけない。あくまでディヴィッド様が話したくなるまで待たないといけなかったのに。
でも、と。誰に対してかはわからないけれど、意味なんてないけれど、言い訳をしたくなる。ディヴィッド様が泣きそうな顔をしていたから。悲しそうに俯いていたから。何か言いたそうにしていたから。今まで隠してきたそういう弱いところをようやく少しずつ見せてくれるようになったのだ。それらを汲み取らずに見過ごすなんて。俺にはできなかった。
「ヴィンチェンツォ、あのさ」
「えっ、あ。はい」
もう下がれと言われるんだろうと思った。もうこれ以上は踏み込まないでくれと言われるんだと思った。やりすぎた自覚はあったから今更そんなことに傷つかないけれど。
わかりきっていることに傷ついてしまう前にさっさと引き下がろう。そう思っていたのに。
「ちょっと、話聞いてくれる?」
「……え?」
「あ、い、忙しいならいいんだ! 気にしないで」
「忙しくないです、大丈夫です! えっと、私でよければ」
正直なところ、この仕事が終われば俺の一日は終わりになる。残り短い自由時間をどう使うかは俺の勝手だし、それを主人のわがまま(にさえならないお願い)を聞くことに使うことは、忙しいなんてことにはならない。
まあ、要するに。俺は嬉しかったのだ。初めてディヴィッド様が俺に「お願い」を言ってきたのだから。遠くに行ってくれというお願いではなく、近寄ってくれというお願いを、初めて言ってもらえた。それだけで今日一日の疲れはすべて吹き飛んだし、胸が面白いほどに高鳴った。
「お茶がなくなってしまいましたね。新しく淹れましょうか」
「ううん。いらない」
「そうですか」
「それよりも話を聞いて」
そう言って、ぐしゃりと手紙を握りつぶす。ああ、もう。そうやって今にも泣きそうな気持ちを自分一人で堪えようとするなんて。
まだ頭を撫でてあげることはできないし、抱きしめることだってかなわない。それでもいつか、その小さな体に抱えている寂しさや悲しみに触れられたらと思った。その頃になる時に、俺が隣にいてあげられる保証はないけれど。
「……ヴィンチェンツォがたくさん褒めてくれたから、父さんも喜んでて」
「それは良かった」
「うん、それは僕も良かったなって思ったんだけど。でも……」
「ん?」
キラリと、紫色の瞳がこちらに向いた。アメジストのように透き通った美しい目だ。ちょっとだけ垂れた目尻が頼りなさげに震えている。長いまつげがまぶたの下に影をつくっていた。
昼間に見せる生意気でわがままな少年は影を潜め、繊細で弱々しい姿しかそこにはなかった。
「『さすがノールズ家だ、私の息子だ』だってさ。僕の名前はどこにもなかったんだ。ノールズ家の子供、ノールズ家の血のおかげだって。そんなことしか書いてくれない」
「それ、は……。きっと、ジョージ様もそのお言葉が一番の称賛だと思われて」
「でも! そんなの、僕の努力なんて関係ないじゃあないか!」
苛立ったように声をあげたディヴィッド様は、なぜ自分がそこまで感情的になっているのかわからないようだった。感情を持て余してしまい、自分でもどうしたらいいかわかっていないのだろう。
だが、本当ならこれが当たり前なのだ。思春期と呼ばれる年頃に感情を持て余して苛立ってしまうことは、誰もが通る道だ。だというのにディヴィッド様はいつもそれを一人で抱え込んで、隠そうとしていた。それはつまるところ、周りからの「ノールズ家たるもの」というプレッシャーと、それを拒絶することができずに生きてこなければならなかった弊害なのだろう。一度吹き出した感情を堰きとめる術を知らないためか、絞り出した声は悲しいくらいに震えていた。
「どんなに頑張っても、どんなに優秀でも、どんなにいい成績をとっても、そんなの……そんなの、誰も僕を褒めてくれない! 認めてくれない! 全部この血のおかげだなって! そんなの、僕は……望んでなんかいないのに……」
「ディヴィッド様……」
「もし、僕の目がこんな色じゃなくて」
「え?」
そう言って、するりと伸ばされた白い手が、俺の頰に触れた。柔らかくて、小さくて、そして驚くほどに、熱かった。
「……っ!」
「ヴィンチェンツォみたいに、青い色だったら。そうしたら、ちゃんと認めてもらえたのかな」
「あ、青い……?」
美しいバイオレットの瞳は、ノールズ家が代々受け継ぐものだった。その色が美しく、澄んでいればいるほど高い能力を持っていると言われている。ディヴィッド様の瞳は光を吸い込むほどに鮮やかで、透明感のある色をしていた。
俺は、その色が好きだった。能力が高いからとか、主人だからとかではなく。ただ純粋に、引き込まれそうなほどの色に、俺は魅了されたのだ。初めて出会ったあの日、俺に向けられた視線に、俺は突き刺されたのだ。
あの色に、あの輝きに、あの光に。
だから俺は、いくらディヴィッド様に憎まれ口を叩かれようと授業から逃げられようと、見限ることだけはしたくなかったのだ。たとえ口うるさいと思われようと、鬱陶しいと思われようと、俺は隣にいたいと思っていた。
「ディヴィッド様、私は、あなたの瞳が好きなんです」
「それは、能力が」
「そうではなく。そりゃ確かに、あなたはとても優れていると思います。私がいなくてもなんでも出来てしまうし、賢いですからね。だから鼻が高いんですよ。でもね」
賢いからとか、優れているからとか、そんなことではないのだ。だから好きなのではない。きっと彼が何もできず勉強もおぼつかない人だったとしても、俺はディヴィッド様を誇っただろう。
結局は、彼が彼であることが大切なのだ。そしてそんな人に仕えられることが、俺の一等の喜びだった。
「『名前が何だというの? バラと呼ばれるあの花は、ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない』って、言うでしょう?」
「シェイクスピア?」
「そうです。貴方が教えてくれたお話ですよ」
たとえディヴィッド様が「ノールズ」という名前にとらわれ、その瞳の色を疎んだとしても。俺にとっては意味のないことだった。ただそこにいるだけで十分だった。俺はジュリエットのように「名前を捨てて私をとって」なんて言わないけれど、それでも例え彼が「ディヴィッド・ノールズ」という名前を失っても、その瞳に輝きを失くしても、俺は彼の歩みを支えたいと思うのだ。
それは幼い頃から「執事として主人に仕える」という考えが刷り込まれているせいかもしれない。立派な執事として、主人が惜しみなく栄光を積み重ねるために尽力する。これこそが俺の生き甲斐で、生きる理由だと思っていた。だが、なぜだろう。最近はそれに少しだけ別のものが加わっているような気がする。
主人じゃなくても、執事じゃなくても、俺はディヴィッド様の隣に居たいと思うのだ。それはきっと「執事」としては有るまじき願いだろう。そんなこと、願ってはいけないのだろう。だが求めてしまうのだ。いつまでも、隣に居てくれること。彼にとっての一番が、俺であって欲しいと。
どうしてこんなことを考えてしまうんだろう。
「ねえ、その言葉の意味わかって言ってる!?」
「へぇっ!? ま、まあ。一応」
「それ、ええ……っ!」
「俺、何か変なこと言いましたか!?」
「変っていうか、いや……うーん」
先ほどまでの落ち込んでいた雰囲気は何処へやら。耳まで真っ赤にして、慌てたように声を上ずらせていた。そんな姿は普段見せることがない。何だろう、俺は何か、おかしなことを言ってしまっただろうか。しかもついうっかり自分のことを「俺」と言ってしまったし。どんだけ動揺してるんだ。
ただ「貴方は貴方ですよ」と言いたいだけなのに。
「もー、いい! わかった! ヴィンチェンツォの天然タラシ!」
「はぁ!? どこがですか、というかタラシって!」
「そういうとこだよ! もう寝る!」
「お、おやすみなさい!」
勢いでかけた言葉は、自分でも思っている以上に甘く柔らかかった。そう、まるで。親愛に満ちているような、声だった。
「それではまた明日」
「はーい」
「それと、ディヴィッド様」
「ん?」
これだけはちゃんと伝えておかないと。決して俺が気まぐれとか、その場限りで言ったわけではないと伝えなくては。
「私は、貴方がどんな名前でも大切だと思いますよ」
「……バーカ」
「はいはい」
空になったカップを受け取って、それからベッドサイドのランプも消す。これ以上つけているとまた図書室から持ってきた本をずっと読んでしまうだろう。
ベッドに横たわり、ふっと目を閉じたのを見届けて部屋を後にするためワゴンの上を整理する。ほのかに残る蜂蜜の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「おやすみなさい、ディヴィッド様。どうぞ良い夢を」
「うん……おやすみ。また明日」
ベッドに潜ってもごもごと呟かれた声を聞いて、そういえば初めて夜の挨拶に返事があったなと口元を緩めた。じわりと胸の奥が温かくなる。
そう、また明日。俺たちにはまた「明日」がある。一体、明日はどんな一日になるんだろう。きっとまた授業が嫌で逃げ出すんだろう。そうして屋敷中を走り回って、汗だくになって、また日が暮れていくのだろう。
それはきっと、楽しい一日だ。
「また明日。ディヴィッド様」
部屋の電気を消して、月明かりが差し込む廊下に一歩踏み出す。いつもより何だか光がまぶしく思えて、ぎゅっと目を細めた。
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