スブロサ

一花みえる

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2.レガッタ

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 家庭教師というのはただ主人に勉強を教えることだけが仕事じゃあない。屋敷の居心地をよくするために細々とした整備を行うのも課せられた日課のひとつだ。この屋敷はまだそこまで広くないからいいけれど、本邸はここの数倍もの広さがある。使用人の数ももっと多いし、そうなってくると逆に執事ってのはただ主人の周りだけを世話していればいい。もちろん、それだけで一日が二十四時間じゃあ足りないってほど忙しかったりするのだけれど。
 そんなわけで俺は今、エリザベス様に頼まれて図書館の整理をしていた。先代のリチャード様が研究者だったためか本邸に限らずこの家もかなり多くの本を所蔵している。片田舎の屋敷にしては多すぎるくらいだ。今では誰が読むかわからないような古い本や高価なものが数多く収められている。もともと湿気が多くジメジメした土地だ。定期的に窓を開け放ち、風を通さないと本はあっという間にカビていってしまう。一度ダメになってしまった本というのはもう二度と元には戻らない。ある程度復元はできるが完全に元通り、というのは今の技術では不可能だった。
 一人で全ての作業を行うと丸一日潰れてしまう。そのため今日はディヴィッド様の指導は行えず、いいのか悪いのか代わりにトトとマッテオが面倒をみることになっていた。あの二人は俺よりも厳しいというかかなり雑なので今頃苦しんでいることだろう。いかに俺が普段気を使っているかということだ。こんなこと誰もいない図書室で考えていても仕方ないのだけれど。
「あー……これ、なんの本だろ」
 部屋の隅に積み重ねられていた大量の本を一冊ずつ広げては天日干しをし、それから本棚に戻していく。壁いっぱいに並べられた本棚には所狭しと本が詰められている。濃い緑色から淡い青色まで、様々な色が散らばっている。とは言っても一体その本に何が書かれているかはわからないから想像するしかない。きっと一冊一冊に壮大な宇宙が広がっているのだろう。それを感じ取られないことが悔しくてたまらない。汗で滑るメガネを一度外して眉間を押さえる。長い時間読解できない文字を見続けたせいかずっしりと重たくなっていた。
 執事になるための勉強は幼い頃からずっと受けてきた。ラテン語やギリシャ語、フランス語や社交ダンスまで学んできた。それだけが俺の世界だった。昔の偉い人たちが語った(とされている)ありがたい言葉をとっくの昔に死んだ言葉で読み、使える主人が女性でも男性でも大丈夫なように一人で二役ワルツを踊れるようになった。でもそんなものに目の前に広がっている宇宙は存在しない。読み解くこともできない。文字は読めるけれど内容がわからないのだ。タイトルだけを見てもそれがどんな本なのかピンとこないし、開いてみたところでそれは変わらない。
 窓の外を見ると太陽は少し西に傾いており、簡単な昼食を食べてからもう三時間近く経っていることに気がついた。果たしてディヴィッド様はちゃんと指導を受けているだろうか。まだトトとマッテオの怒鳴り声が聞こえていないから大丈夫なんだろうけれど、もしかしたらただ俺の耳がそれを拾わないように無意識のうちに神経を遮断しているのかもしれない。
 なんにしても早くここの整理を終わらせなければ。今日中にある程度の目処が立たなければ明日の仕事にも影響が出てしまう。さすがに二日連続庭師に任せるのも良くないだろう。それに俺は別にディヴィッド様との授業が嫌いじゃあない。すぐに逃げるし、生意気な口を叩くし、言うことは全然聞かないけれど俺があの頃の年だった時はもっとやんちゃをしていた。屋敷から逃げ出さないだけまだマシだ、と思うようにしている。こんな広い屋敷をひたすら駆け回るのは大変といえば大変だということは変わらないけれど。ああ、タバコを吸いたい。こんな埃っぽい空気を吸うくらいなら喉にこびりつく煙の方がまだマシだ。
 開きっぱなしにしていた本を何度もめくってみたり、目次をみたりするが果たしてそれがどういうものかピンとこない。古代ローマに関するというのはなんとなくわかるけれど、それ以上のことは全く理解できなかった。このまま置いておくのも気がひける。というかどうせ後々俺の仕事としてまたやらなくてはいけない。今やるか、あとでやるか。その違いだけなのだ。
「それ、右から二番目の本棚だよ」
「えっ」
 突然聞こえてきた声に思わず変な声が出る。まさか俺以外の誰かがいるなんて思いもしなかった。それに、まさかここで聞くことになるなんて。この時間帯、こんな場所で決して聞けるはずのない声が耳に届いた。
「ディヴィッド様……なんでここに」
「それ聞く? 簡単なことだって」
「はぁ……」
 どうせ二人の目を盗んで逃げてきてきたのだろう。いつもなら俺が横に張り付いて見張っているけれど、慣れないことにわたついていたとかで生まれた一瞬の隙をついて部屋から飛び出してきたに違いない。そうなってくると俺の予想では、そろそろ二人の怒声が聞こえてくるはずだ。
 ああ、やっぱり思った通りになってしまった。
「ディヴィッド様ああああぁああ!!」
 案の定廊下の向こうからトトの野太い声が聞こえてくる。普段なら決して聞けないような大きな足音がこちらに近づいてきた。
「思ってたより早いな」
「言ってる場合ですか! 俺……私がいないからってあの二人をあんまり怒らせんでください!」
 庭の手入れをこよなく愛する二人は今日一日全く花々に触れられなかった。そのせいで昨日からずっと機嫌が悪かったのだ。でもそんなことエリザベス様に言えるはずもないし、かといってボイコットもできない。だからなのか腹いせに俺からタバコをせびったり、本来ならやらなくてもいいはずの細々した雑用を押し付けてきた。全く、いい年をしてなんて子供なんだ。
 見た目だけはごつくて筋肉隆々だというのに、その太い指で世話をされた花たちはいつも美しく咲き誇る。その色を見るたびに、人は見かけじゃわからないと思わされるのだ。ただ個人的に、そのあごひげは本当にやめて欲しい。二人とも同じようなヒゲを生やされて隣同士に立っているとどちらがどちらか全くわからないのだ。せめて形を変えるとか、何かそういう工夫をして欲しいのだけれど。
 だめだ、今は何をしてもあの二人に対する苦情しか出てこない。
「ヴィンチェンツォ」
「なんですか。そんな目で見てもダメですよ。早いところ部屋に戻ってお勉強の続きを」
「僕がいたらこんな仕事、さっさと終わるのに?」
「うっ……」
 正直なところ早く埃っぽいこの図書室から出て休みたかった。途中で短い休憩を取った以外はずっと立ちっぱなしでいい加減足も腕も疲れている。それに今日中に終わらせるべき量はまだ半分程度しか終わっていない。このままだとまた後日改めてここに籠らなくてはいけない。そうなるとトトとマッテオに仕事を回すことになるし、結局今日と同じようなことになってしまう。
 家庭教師として、ここはやはりおとなしく部屋に戻って欲しい。しかし使用人として、身も蓋もない言い方をしてしまえば本に囲まれて途方にくれている現状の自分としては隣で指示を出して欲しかった。どうしたものか、いや、答えは決まっているのだけれど。でもどうしても、自分の欲が出てしまう。
「匿ってくれたら、明日はちゃんと授業受けるからさ」
「……ほんとですね?」
「今まで嘘言ったことある?」
「ない……ですね」
 にぃ、と口の片方を持ち上げてディヴィッド様は笑った。その表情が若干十二歳のものとは思えず、思わずゴクリと生唾を飲み込む。子供だと侮ってはいけないような、そんな表情だ。大人と子供の中間にある、そんな妙な妖艶ささえある。これが次期当主だからこそ為せる顔なのだろうか。
 確かにディヴィッド様は軽口をよく叩く。俺をからかったりもするけれど、嘘をつくことは一度もなかった。
「ディヴィッド……様」
「あっ、やばい」
「へっ!?」
 突然俺の後ろにある机の下に潜り込んだディヴィッド様を追いかける前に、勢い良くロギンズが部屋に飛び込んできた。なるほど、この足音に気がついたから隠れたのか。やれやれ、逃げ足だけは早いというかなんというか。
「おいヴィンス! ここにディヴィッド様は来ていないか!?」
 心臓がドクリと動いた。居場所を伝えることは簡単だ。足元を指差して「ここだ」と言ってしまうだけでいい。ディヴィッド様には逃げ場がないし、どんなに頭の回転が早くてもここから完全に逃げ切ることは不可能だろう。足元でピクリと小さく動く気配がした。子供一人が潜り込むには少し狭い場所だ。あんな余裕ぶった顔をしていたけれどディヴィッド様だってやはり不安だったのだろう。
 一体どうして、そこまで勉強から逃げ出すのかと思ったけれど、そりゃ嫌なものは嫌だろう。あたりを見渡せば同い年の子供たちは毎日外を走り回って、自由気ままに遊んでいる。置かれた立場によってその悩みというのは変わるのだろうけれど、そんなこと考えつくことができないのだ。いや、もしかしたらわかっているのかもしれない。俺よりずっと聡いお方だ。自分の置かれた立場や状況というものをよくわかっていらっしゃる。だからこそ諦めているのかもしれない。どんなに頑張っても、どんなに逃げても自分が背負う肩書きというのは捨てられない。どこに行っても、何をしても、ノールズ家の次期当主という重圧は襲ってくる。
 だからせめて、日々の退屈でつまらない授業からは逃げ出したいのかもしれない。爽やかに吹き付ける風を浴びることはできないけれど、燦々とした太陽を感じることはできないけれど、咲きたての花の香りを知ることはできないけれど。それでも走り回ることはしたかったのかもしれない。
 そう思うと俺は足元でうずくまる小さな当主がとても愛おしいと思った。守りたいと思った。
 せめて俺の前だけでも、笑っていて欲しいと思った。
 だから俺が紡いだ言葉は、家庭教師としてはあるまじき言葉だった。
「見てねぇな」
「本当か?」
「当たり前だろ。朝からずっとここにいるんだ。前の廊下を歩いてりゃそれくらい気がつく」
 声をかけられるまで隣にいたことに気がつかなかったことはこの際棚に上げておく。あの時はちょっと考え事をしていてそこまで気が回らなかっただけだ、きっとそうだ。そういうことにしておこう。
 じわりと生唾が溢れてくる。二人に気づかれないよう、慎重に飲み込む。バレたら本当にまずいことになる。家庭教師として絶対にしてはいけないことをしているという、自覚はある。だがそれよりも、なぜかディヴィッド様のことを守りたいと思ってしまった。守る、だなんて。そんな大仰なことではないけれど。今の俺に何かできることがあるとしたら、多分これくらいなんだろうと思ったのだ。
「もし見かけたら教えてくれ。ったく、そりゃ俺たちよりお前に懐いてるのはわかってるけどここまで拒否られるとさすがにへこむぜ……」
「懐いてる? 誰が」
「ディヴィッド様だよ。他に誰がいるってんだ」
「はあ」
 思わず足元を見そうになったけれどそれをぐっとこらえる。ディヴィッド様が俺に懐いているなんて。一体どこを見たらそう思うのだろう。俺だって毎日逃げられているし、嫌味も言われるし、何かしようとするたびにため息をつかれる。これが仕事だとわかっているけれど、それでも俺も人間だ。
 満面の笑みで勉強をしてくれとは言わない。ただ、さすがに毎日毎日うんざりした顔でため息をつかれるとこちらも気が滅入ってくる。だからてっきり俺は嫌われているのかと思っていた。いや、嫌われていないにしても、好かれてはいない。そう思っていたのに。
「まあ、見つけたら声をかけておく」
「任せたぞ」
「じゃ、頑張って」
 そうしてまた慌ただしく去っていった二人の背中を見送って小さく手を振る。バタバタとうるさい足音が遠くに消えていくのを聞き届けて、俺は無意識のうちに肩に入っていた力をふっと抜いた。
 呼吸の仕方をようやく思い出したかのように息がするりと入ってくる。ああ、心臓に悪い。ふと視線を下ろしてみると机の下からひょこりとディヴィッド様の癖っ毛が覗いていた。動くたびにふわふわ揺れるブルネットが忙しなさげに風にそよいでいた。
「もういいですよ。二人は出て行きました」
「ほんと?」
「ええ。当分は戻ってこないでしょう」
 その言葉に安心したのかぺたりと床に座り込んで、先ほどの俺と同じように大きくため息をついた。整理していたせいで埃が散っていたのだろう、膝のあたりは少し薄汚れていた。
 俺もしゃがみこんで汚れをはらってやる。せっかく新しいジャケットを着せたというのに、こんなすぐに汚されてしまってはアリーチェたちに怒られてしまう。主に俺が。
「汚かったでしょう。目や鼻は痛くありませんか?」
「大丈夫。……あのさ、ヴィンチェンツォ」
「なんでしょう」
 俺に叱られると思ったのか視線をずっと下げたまま、ディヴィッド様はぽつりと言葉を漏らした。たくさんの本に、それを包み込む静けさに、その声は飲み込まれてしまいそうだった。
 何か言いたげに口を開くが、そのまますぐに閉じてしまう。こうしてみると濃い色をしたまつ毛が思いの外長くて、肌に影が出来る程だ。側についてもう幾分か経つのにそんな些細なこと、今初めて知った。パチリと瞬きをする。少し垂れめの大きな瞳が、かすかに潤んでいた。
「え、っと。その」
「はい」
「……ありがと」
「っ!」
 耳まで真っ赤にして、絞り出すように紡がれた言葉に俺は一瞬息を飲んだ。これまで軽口しか向けられてこなかった。何をしても、何を言っても。してもらって当然、言われて当然という顔をしていた。別に俺だって、自分のすることに感謝をして欲しいとは思ってはいない。これが仕事だからだ。こうやって誠心誠意お仕えすることが俺の仕事で、俺の人生だ。それはよくわかっていた。
 でもこうやって、いつもなら絶対に言わない言葉を恥ずかしがりながら言われてしまい、ああ、これはしまったなと思った。こんなの、ずるい。絆されてしまう。甘やかしてしまう。ただでさえ先日エリザベス様からお話を聞いていたし、その結果今回みたいにいけないことだとわかっていても匿ってしまった。
 だというのに。たとえこれがそういう素振りをわざとしているだけだとしても、それでも俺にとってはかなりの衝撃を与えた。
 執事や家庭教師としては、やはり主人が一人前の紳士になるためにとは言う。そのために俺たちは長い時間をかけて多くのことを学び、人生のほとんどを主人のために捧げるのだ。主人が「ノールズ家当主」として周りから評価され、ノールズ家が繁栄することこそが俺たちドメーニコ家の喜び出会った。
 それでもその根底には主人が一人の人間として幸せであって欲しいという、個人的な願いがある。良き当主であるのなら、それはただの人形でいい。何も考えず、何も求めず、ただ周りから求められるままの姿であればいい。ディヴィッド様はその「理想」とされる姿を押し付けられることを殊更嫌がった。それもそうだ。そんなの、自分の本質を否定される様なものだ。自分の持っているもの、自分の大切にしているもの、それら全てを頭ごなしに批判されるのだ。
「ディヴィッド様」
「な、なに」

 あなたは、何が好きですか。
 あなたは、何を見たいですか。
 あなたは、何を知りたいですか。
 俺はあなたに、何が出来ますか。
 俺はもっと貴方のことを、たくさん知りたいんです。

「お願いがあるんです」
 ようやく自分のやるべきことの一つが見えてきた。
「図書館の整理、手伝ってもらえませんか」
「えっ」
「私は今まで執事になるための勉強しかしていません。貴方の持っている知識がとても必要なんです。駄目でしょうか」
 ぱちくりと瞬きをした後、ディヴィッド様はふにゃりと頰を緩めて笑った。まるで今にも泣き出しそうな顔で、なんともぎこちない笑い方だった。その不器用な笑顔を見て俺もつられて笑ってしまい、二人して薄暗くて狭い机の下で笑い合った。


◇◇◇


 ディヴィッド様はその言葉通り、多くの知識を持っていた。作者の名前を見ただけでピタリと書かれた年代を言い当てるし、おまけにタイトルだけで書かれた年代順に並べることもできた。これは戯曲、こっちは詩集、それは物語と迷うことなく伝えられる言葉に俺はただただ感心するしかなかった。
 これは確かに仕事がはかどりそうだ。それまで自分のしてきたことが全く持って手間のかかることだったと、彼の助けを借りながら思う。
「それにしても、本当にお詳しいんですね」
「んーまあね」
「しかも様々な本を読んでいらっしゃる。とても素晴らしいです」
「……なに、急に褒めたりして」
「本音ですよ。私がお世辞を言わないことくらい、一番ディヴィッド様がご存知でしょう?」
「まあ、それは」
 行儀悪く机に座っていることはこの際見なかったふりをして、彼が手渡してくれる本を言われた場所にしまっていく。それまで乱雑としていた本棚があっという間に整理整頓されていく。文字面だけなら読めるけれど、それが一体どんな意味を表すのか俺にはわからない。愛の物語なのか、悲しい友情の話なのか、それともハラハラするようなミステリーなのか。きっとディヴィッド様にはそれらが全て頭の中に入っているのだろう。
 そのことが純粋に羨ましい。俺の知らない世界を彼は見てきたのだ。ただ言葉が連なっているだけではない。彼には、それら一つ一つを紡ぎ合わせて美しい世界として見ることができる。
 それはなんて素晴らしいことなんだろうか。
「これは『トリスタンとイゾルデ』か。じゃあ左端の本棚だね」
「アーサー王物語、の棚ですか」
「そうそう。ええと、上から三段目、左から五冊目のところに入れたらいいかな」
 上から三段目、左から五冊目、と呟きながら本棚に近寄る。先ほどこの棚を整理した時にアーサー王と円卓の騎士たちについて少し説明してもらった。聖剣エクスカリバーくらいなら俺も聞いたことがある。それから魔術師マーリンや、カムランの戦いも。でも俺が知っているのは歴史の教科書で読んだ程度のもので彼らがどんな戦いをして、どんな風に散っていったのかは全く知らない。
 何を思い戦い、何を抱いて生き、何を残して死んでいったのか。彼からが描いた理想の王は、果たして何を見て死んでいったのか。
 私には、何もわからなかった。
 とはいえこれは有名な恋愛話だ。許されない恋、というのはどうにも人気で仕方ないようだ。
「今も昔も恋愛物が人気なんですね。ほとんどがラブロマンスだ」
「その中でまっとうに幸せなものはほとんどないけどね」
「それは、まあ。現実的に考えるとそうですよね」
 誰かのことを好きになって、想いが通じて、無事に添い遂げられてもその幸せがいつまで続くかわからない。物語は一番美しいところで幕は降りる。でもそれから先、きっと苦しいことや辛いことはあるだろう。浮気をしたり、横恋慕されたり、もしくは愛する人が早くに亡くなるかもしれない。それでも人間は生きていかないといけない。歯を食いしばって、前を向いて、歩き続けないといけない。それこそが生きる者に与えられた役割で、それこそが俺たちのなすべきことだ。
 たとえそこに描かれる物語がフィクションであっても、書いた人間はまさにその時生きていた人間だ。すでにピリオドを打たれていたとしても、根底にある熱さや息遣いが伝わってくるのはきっとそのためだろう。
 だったら決してまっとうに幸せな恋愛でないとしても、そこには誰かを愛するという崇高な想いが描かれている。そのはずだ。
「でもさ」
「え?」
 そんなことを思っていると、ディヴィッド様が小さく言葉を漏らすのが聞こえた。拗ねたような、冷め切ったような、凍えるように鋭い声だった。
「わかったものじゃないよ、愛なんて」
「ディヴィッド様……?」
 それは十代の少年が紡ぐにはあまりに重たい言葉だった。愛、だなんて。俺にだってよくわかっていないのに。それを吐き捨てるように言うなんて。悲しそうに言うなんて。彼の奥底には俺の知らない何かがまだあるようだ。
「いろんな人が、いろんな言葉で愛を語ってさ。それを読むたびに嘘くさいって思うんだよ」
「それはまあ、フィクションですから」
「違う違う。そういう意味じゃなくて」
 机から飛び降りたディヴィッド様はゆったりとした足取りで本棚の間を歩く。透き通るようなバイオレット色の瞳が、悲しげに並べられた文字を追っていた。無造作に引き抜いた書物を撫でる手つきはあまりに愛おしげで、でもそれ以上に寂しそうでもあった。
「プラトンも、アリストテレスも。ニーチェやシェイクスピアだって。なんでみんな、あんなに愛ってやつを考えるんだろうね」
 そう言って見せてくれたのはゲーテの全集だった。確かドイツの詩人だった気がする。著作はわかるが、それらがどういう内容なのかはよくわからない。ただ、彼の著した中には実際に体験した辛く悲しい恋愛もあったはずだ。恋に破れ、絶望し、自ら命を絶つ男の話だ。あなたのいない世界でなら、生きる意味がないとまで思うほどの恋を俺は知らない。それでも、そこまで誰かを愛せたことは幸せなのだろうか。愛する人に出会えた喜びだけを持って死ねる人は果たして報われるのだろうか。
 いや、俺にはやはりわからない。生きていれば、もしかしたらいつかまた出会えるかもしれない。今は叶わなくともこの先叶うかもしれない。今目の前の現実を悲観的に見るのではなく、その先にあるかもしれない輝かしき未来を見ていた方が幸せなんじゃあないのか。イタリアの血が流れているからなのか、俺はたまに、楽観的なところがあると父に言われたことがある。なるほど確かに、俺にはどん底までの悲観よりもかすかな楽観の方が好ましいのかもしれない。
 そんなゲーテが残した愛の言葉はきっと切なく悲観的なものだろう。
 そう思っていたのに。
「人生で一番楽しい瞬間って、二人だけで、秘密や楽しみを語り合う時なんだってさ。ものすごくロマンチックだと思わない?」
 どこまでもその言葉は眩しかった。恋の喜び、愛の美しさ、純粋で澄み渡る泉のようにその言葉は輝いていた。どうしてここまで言えるのだろう。自分の手でその命を摘み取ろうとまで考えた人間が。それでもなお前を向き、人を愛そうとするのだろう。
 それを人の営みであると言われると、やはり誰かを愛するというのは美しいことだ。それなのになぜディヴィッド様はあんなことを。
「誰かに愛されることで自分に価値が出るのなら、僕は多分、価値のない人間だよ」
「そんなことは……!」
「どうだろうね」
 苦しげに細められた瞳を見つめながら、そこに涙が浮かんでいないことに何故か胸が痛んだ。本当は締め付けられるほど痛いと思っているはずなのに。その菫色の瞳はただ虚空を彷徨っていた。
 俺に何ができるだろうか。自分の主人に対してこんなことを思うのは不敬だというのはわかっている。ただ、目の前にいる小さな肩を、不意に抱きしめたくなった。こんな自分に抱かれたところでなんの意味もないんだろうけれど。でもそれくらいしかこの手でしてやれることはないと思ったのだ。
 ああ、なんて自分は無力なんだ。いつもは偉そうに家庭教師として指導しているのに。こういう時に限って、彼が一番望んでいるものを与えらることさえできない。
「ディヴィッド様……」
「ん?」
 こちらを振り返った彼の目はもういつも通り、いたずら好きでやんちゃな年相応のものに戻っていた。窓から差し込む日に当たってもその色は変わらない。吸い込まれそうなほどに澄み切って、涙が出そうになった。
「手伝っていただいたお礼です。今日のおやつはディヴィッド様のお好きなものにしてもらいましょう」
「ほんと!?」
「ええ。その代わり、明日からはまた授業をしますからね」
「しょうがないなぁ」
 結局これくらいのことしかできないのかと思ったけれど、弾けるように笑うディヴィッド様を見ていると不思議と俺も胸のつかえが取れた気がした。その理由はまだわからないけれど、それでも、いつまでも彼の笑顔が見られたらどれほど良いかと。そう思わずにはいられなかった。
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