記憶喪失の主人公は無双ではなく苦悩する 〜ブラッディ・レインボー〜 

羽瀬川璃紗

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35 ※流血表現あり

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 柵の向こうは、垂直に近い岩肌の斜面。月斗は柵から3メートル程下の、せり出した岩の上に上半身を乗せるよう、何とかしがみついていた。
 ほぼ滑落の勢いで隣の窪みに降り立った透は、月斗に手を伸ばす。

「月斗‼」

「透…、そこ、危ねえって…」

「いいから!」

 足元は脆いうえに狭い。
 月斗は落下の際に擦ったのか、頬から顎にかけて血を滲ませ、切り裂かれた水色のレインコートは赤いマントを纏ったかのように、血を滴らせていた。

「魔物が…そこに居る」

 月斗は肩で息をしながら言った。確かに耳元で巨鳥の鳴き声がするけど、関係無い。目の前には血塗れの大事な仲間がいる。

「いいから! 落ちるぞ!!」

 透は叫んだ。どうやって手負いの月斗を上に連れて行くとか、何も考えてなかった。とにかく月斗を助けないと。
 それなのに、巨鳥は容赦なく2人に攻撃をしてくる。透は巨鳥へ叫んだ。

「うるせえぇー!!!」

 今まで見た事も無い大きな光の球が右手から放たれ、巨鳥へ命中した。巨鳥が海に落下すると、月斗は虚ろな目で笑った。

「…すげえな」

「透―!! 月斗―!!」

「こっちだ!」

 荒れ狂う波と風のさなか、微かな藍の声がする。透が大声で答えるも、掻き消されてるのか応答は無く、崖の上の様子も岩壁のせいで窺い知る事が出来ない。

 透は何とか横へにじり寄り、月斗の背中側から脇へ腕を入れ、落ちないよう支えた。背中の怪我は、目を覆いたくなるほど深く、透の腕や身体にも血が付着する。
 透は月斗に声を掛けた。

「月斗! 頑張れ、助けが来るから!」

「…うん」

「大丈夫だからな!」

「うん」

「もうちょっとの辛抱だ、月斗!」

「うん…」

 どれくらい、そうしていたか。気配に顔を上に向けると、レスキュー隊員がロープを伝って下りて来るのが見えた。透は声を上げた。

「どうか彼を」

「分かりました」

 レスキュー隊員に預けた月斗は、真っ白い顔をしていた。出血に加えて、悪天候でずぶ濡れだった。透も安堵した瞬間、急に冷えを感じガチガチと歯を震わせた。

「月斗、月斗…!」

 声をかけ肩を軽く叩くも、意識が朦朧としてるのか、反応は無い。隊員は器具を月斗と自身に装着して固定すると、上へ移動を始めた。

 月斗の右手から、小さな何かが滑り落ちた。透が反射的に片手でつかんだそれは、ほのかに温かい。

(何だ?)

 嵐の中、目を凝らしてみたそれは、銅色をした古い鍵だった。



 上陸した台風が九州を抜ける頃、1台のダークブルーのSUVが水しぶきを上げながら、国道から脇道へと曲がっていく。
 先の一般駐車場は夜間閉鎖中、看板の指示に従い、夜間用駐車場へと進んだ。

 普段はもっと丁寧だが、少々ラインからはみ出し気味に停まったSUVから降りた男は、傘もささず小走りに夜間通用口へ。
 扉が施錠されてて開かないのを確認すると、半ば乱暴にインターホンを押した。

「はい、守衛室です」

『知人が…、搬送されたので来たんですが…!』

 男は息も切れ切れ。守衛は尋ねた。

「お名前を教えて下さい」

『カラハナです…!』

「あ、いえ。搬送者の方のお名前…」『タカバネです!!』

 男は食い気味に大きな声で答えた。鍵を開け、記帳してもらった台帳には、乱雑な『カラハナ・テツゴ』の文字があった。


 救急外来で月斗の事を問い合わせた鉄吾は、若い男性看護師に案内された。進行方向、プレートの案内表示を見て立ち尽くす。
 『部屋』の前には、疲れた表情の鷹羽と、警察官が2名が何やら話をしていた。鉄吾に気づいた鷹羽が警察官に一礼して制すと、こちらへやって来た。

「悪い、後で詳しく説明する。…今の内に会ってやってくれ」

 鉄吾は無言で頷き、警察官達にも会釈して霊安室へと入った。
 入ってすぐの正面、真っ白いベッドが目に入った。線香の匂い。鉄吾は顔を強張らせ歩みを進める。ベッドには、真っ白い顔の月斗が眠っていた。

 傍らに居た、泣き腫らした目の藍が顔を上げる。

「…鉄さん、すみません」

 真っ赤な目の丹が口を開く。鼻を啜りながら、碧も言った。

「助けられませんでした」

 透はぼんやりと立ち尽くしたまま、月斗を見つめるだけだった。

「…みんな、怪我はしてないか?」

 聞いた事がないくらい優しい声で、鉄吾は尋ねた。皆は一斉に嗚咽を上げた。


 救助された月斗は搬送後すぐ、心肺停止状態に陥ったらしい。病院到着後、医師らが懸命に心肺蘇生処置を行なったが、透や一報を受けた鷹羽らが駆け付けた時には、もう帰らぬ人となった。

 透は、現実をまだ信じられなかった。今朝だって朝食を一緒に食べ普通に出勤し、何てことなく言葉を交わし、共に働いていたじゃないか。

 もし、商店じゃなく老人ホームの方に出向していたら?
 助けを求めに来た女性を、無視していたら?
 自分を庇おうとした月斗を、突き飛ばしていたら?

 無数のたらればが、透の脳内を蠢いていた。
 月斗の笑顔が脳裏から離れない。目の奥が火傷しそうなくらい熱いのに、涙は出て来ない。

 透は壁に背をつけたまま、ゆっくりその場に座り込んだ。


「藍は?」

 鉄吾の車に乗り込んだ碧は、丹に尋ねた。

「知らねえ」

「…お父さんが迎えに来て帰った」

 運転席に乗り込んだ鉄吾が、淡々と答えた。

 男子よりも男勝りで、気丈なあの藍が、泣きじゃくりながら父親と共に病院を後にするのを、透は無言で眺めていた。
 何と言葉をかけるべきか、そもそも『言葉』ってどう出すのだったか、分からなくなったのだ。

 今後の手続きや関係機関との話し合いなどがあるので、透達を先に帰すよう、鷹羽は鉄吾に指示した。
 男子3名、騒がしいだろう車内は静まり返っていた。


 風はまだ強いが、雨の止んだ漆黒の夜空の下、透は15時間ぶりに帰宅した。狭い玄関に入りすぐ、足先に何かが当たった。月斗が普段履いてる、黒いスニーカーだった。

 そう言えば月斗は、雨だから長靴を履いて出勤した。このスニーカーは、主の帰還を待ち続けているのだ。もう、主は帰らないというのに。

 そう思った瞬間、透の目から涙が溢れてきた。透は狭い玄関に座り込み、声を押し殺して泣いた。

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