鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

文字の大きさ
70 / 114

海獺 ※男性にとってデリケートな事柄の描写あり

しおりを挟む
 男子トイレを掃除中のゆず子は、鏡の前の取っ掛かり部分に、忘れ物がある事に気づいた。

(何だろう。小さい筒状ね)

 手に取った長さ10センチ程の円筒形の細身の黒い容器には、デフォルメされた白いラッコの絵と白文字で『ラッコスプレー』と書かれていた。

(ああ、ヘアスプレーかデオドラントスプレーの類か。事務所に届けようっと)

 ゆず子はそう判断し、回収した。


 掃除終わりに事務室へ行き、ゆず子は件のスプレー缶を差し出した。

「お疲れ様です、あと失礼いたします。それから、男子トイレに忘れ物ありました」

 対応したのは、経理の河北だった。

「はーい、忘れ物ですね。…なにこれ、ヘアスプレー?」

「デオドラントか髪用か。鏡の前にあったの」

「ふーん。見た事ないパッケージね。しかもこれしか書いてないんだ」

 普通、スプレー缶ならば缶の表面に成分表やメーカーのロゴがあるものだが、その缶には見当たらない。

「…本当ね。何なんだろ、これ」

 2人で首を傾げていると、廊下から勢いよく駆け込んだ人物が居た。

「すみません、鳴瀬さんは…? あ、居た!!」

 やって来たのは、入社3年目営業課の満野泰志みちの たいし。満野は2人が眺める物を見て、息をのんだ。

「それ、俺が置き忘れたやつです。急いでいるんで、いいすか?」

 満野は時間でも限られてるのか、大急ぎで缶をひっつかむと出て行った。

「…まあ、持ち主のとこに戻ってよかったわ」

 ゆず子は深く考えず、その日の仕事を後にした。



 それから半月後。廊下掃除をしていると、男子トイレから徳井が出て来るところであった。

「鳴瀬さん、これ見て」

「なーに?」

 徳井の手にあったのは、漆黒の小さなスプレー缶。白いラッコの絵が描かれている。徳井はニヤニヤしていた。

「あら? これ…」

「これ知ってます? トイレに置き忘れてたんですよ、多分課長のやつ」

「ううん、これ満野くんのよ」

 ゆず子が言うと、徳井は心底驚いた顔をした。

「え⁈ まさか」

「うん。この前も置き忘れてあってね。事務所に届けたら、取りに来たのよ」

 ところが徳井は、急に表情が翳り腕組みを始めた。

「…いや、そんなこと。でもなぁ」

「え、ちょっと待って。どうしたの?」

「あ。いえいえ。俺、本人に届けておくんで」

 徳井は多くを語らずに場を去って行った。



 異変にゆず子が気づいたのは、それからすぐの事だった。
 ゆず子が出向した際、たまたま満野に会ったので挨拶をしたが、明らかに聞こえない振りをされたのだ。

(あれ?いつも返す子なのに)

 更に翌週、河北がこんな事を言って来た。

「ねえ、鳴瀬さん。満野くんとトラブったりした?」

「え、満野くんと? 無いわよ」

 ゆず子が答えると、河北は周囲を窺いつつ小声で続けた。

「昨日ね、満野くんが課長に『鳴瀬さんが私物を勝手に触ったり有りもしない噂を立てた』って告げ口してたのよ。勿論、課長は『あの人がそんな事する訳ない、何か勘違いだろ?』って信じちゃなかったんだけど。思い当たるフシ、何かある?」

 ゆず子は思案した後、口を開いた。

「先週ぐらいに、挨拶したら聞こえないフリされたわ。そもそも外回り営業の子だから、あまり社内で顔を合わす事も無いから、接点もねえ…」

「そうなんだ。じゃあ、何か勝手に被害妄想してるのかな」

 河北はそう言い、仕事へ戻った。ゆず子は首を傾げた後、仕事を続行した。



 ゆず子が既視感を覚えたのは、別の出向先へ行った時のこと。男子トイレを清掃中に、個室に忘れ物があるのを見つけた。

(黒くて、小さめのスプレー缶。そして白いラッコのイラスト…。同じ物見たぞ、別の現場で)

 ゆず子が手に取り眺めると、やはり『ラッコスプレー』と白文字で書かれた以外は、何も書いてない。振ると中身がタプタプ動く感触があり、残量はありそうだ。

(このサイズと置き忘れ場所から言って、整髪料か制汗剤なのは確かね。そう言えば昔、付けると女性にモテる的なCMが話題になった商品あったわね)

 何気なく蓋を開け、匂いを確かめようとしたゆず子は、ある物に目が留まった。スプレーの噴出口に、すごく短く黒い繊維状の物体が、沢山付着していたのだ。

(うわ、きったない。腋毛?でもこんな細かい腋毛、あるかしら。セーターの毛玉取りで集まったカスみたい)

 蓋を戻した時、何者かがトイレに入って来た。入社10年目中堅社員の綿貫禮わたぬき ゆたかが、静かに入って来た。

「あ、お疲れ様です。こっちの個室、掃除済んでるから使っていいわよ」

 ところが、綿貫はゆず子の持っている物を見ると、顔を強張らせた。

「…すみません、それ」

「え? ああ、これ? 綿貫くんのなの? そこに置き忘れていたわよ」

 ゆず子が手渡すと、綿貫はトイレの外を窺った後、中に入りこう言った。

「…あのう。これ、俺が置き忘れたって、誰にも言わないでくれませんか?」

 ゆず子は目が点になったが、すぐに頷いた。

「え? ええ、分かりました」

「あのっ、本当に、お願いします!」

 綿貫は切実な表情で、頭を深く下げた。ゆず子は戸惑うばかりだった。

(何で?どうしたの、一体)



 半月後。ラッコスプレーの事を忘れかけた時に、ゆず子はたまたま会社近くのコンビニで綿貫に遭遇した。

「あら。お疲れ様です」

「あ、お疲れ様です。上がりですか?」

「ええ、一休みしたら次の場所に。お昼休み?」

「はい。午後から会議がありまして。眠気覚ましに珈琲を。…よければ、奢らせて下さいませんか?」

「え、何でまた?」

「…この前の、内緒にして頂いたので」

 断ったが、綿貫が強引に珈琲をくれたので、ゆず子は取りあえずお言葉に甘える事にした。
 特に誘われた訳ではないが、コンビニの軒下で2人並んで啜っていると、綿貫は口を開いた。

「…何かすみません」

「強引でドキドキしちゃったわ」

 ゆず子が笑うと、綿貫は申し訳無さそうに切り出した。

「でも、見つけたのが鳴瀬さんで良かったです。これが佐野さんだったら、どうだか」

「ああ、彼女ゴシップ大好きだものね」

 ゆず子もゴシップは好きだが、『必要に応じて口を閉ざす』を心がけている。ある程度信用を得ないと、ゴシップネタをもたらされないからだ。

 ゆず子は明るく言った。

「…ここまでされると逆に気になっちゃうけど、私はもう忘れるつもりでいたのよ? だから別にお気遣い結構だったのに」

 すると、綿貫は目を丸くした。

「鳴瀬さんは、アレが何かご存知無いんですか?」

「え? うん。分からない。制汗剤? 強力タイプとかの」

 綿貫は珈琲を一口飲むと、静かに答えた。

「いえ。…ハゲを隠す、ヘアスプレーです」

 それを聞き、ゆず子は一瞬目線を綿貫の頭部に移動させかけて、慌てて俯いた。

「え。…あら、そうなの」

 ゆず子の表情を、嘘ではないと確信したらしい綿貫は、いつもの調子で話し始めた。

「出たばかりの最新式なんですよ。自然な色艶の繊維を、狙った地点に定着させ、隠蔽できる商品です。ネットでも話題なので、使う必要の無い人も知ってるんです。でも自然でしょ? 俺のこの辺」

 綿貫はセンター分けにしてある前髪の上部から、頭頂にかけてを指し示した。

「大学4年から、急に進行しましてね。家系的なやつもあるけど、早過ぎるからかなり落ち込みました。そこから『スカスカ』をどう誤魔化すか、それに命を賭けてます」

「そうだったのね。…こんな話、私にして良かったの?」

 綿貫は少し考えた後、ニッコリ笑って言った。

「家族以外にこの話をした事、無かったんですよ。でも何か、急に心が軽くなりました」

 憑き物でも落ちたかの表情で、綿貫は一足先に場を後にした。



(『禿げ隠し』ねえ…。だからあんなに焦ってたのか)

 ゆず子は考えつつ、本日の出向先へ向かった。到着し事務所へ顔を出そうとすると、部長が先に待っていた。

「おはようございます」

「あ、おはようございます。鳴瀬さん、実はちょっとお話したい事がありましてね」

(あ、これ良くない話の時のやつ)
「はい、何でしょうか」

「先日、男子トイレの個室が詰まってしまいまして、業者さんに見て貰いましたら、雑巾が詰まっていたんですよ」

 トイレ掃除に使用する物品は、基本的に出向先に備え付けられている物を使う。雑巾は使用するが、掃除用品置き場にある。ゆず子は慌てて頭を下げた。

「申し訳ございません。私、置き忘れてしまったのかも」

「あ、いえ、一応出入りしている人全員にお話ししてますので…。どうかお気を付けください」


(おかしいな)

 掃除用品置き場を確認したゆず子だが、使用していた雑巾はそこにあった。

(トイレ用のある。置き忘れたやつが詰まったなら、これがある訳無いよね)

 ゆず子は自分のスマホから、ここに出入りしている同僚にかけて尋ねたが、交換したり廃棄したりしてないというのだ。
 首を傾げて置き場の戸を閉めたゆず子に、やって来た河北が話しかける。

「…例のトイレ詰まりの件?」

「うん。掃除でやらかしたと思ったけど、トイレ用のあるのよ。何の雑巾だったんだろう? 大喜田さんに聞いたけど、新しくしたりとかもしてないらしいんだよね」

 河北は口を開く。

「何かね、詰まったタイミングも妙なのよ。清掃の皆さん午後2時くらいに終わるでしょ? そこから定時まで誰かしら使っただろうに、詰まったの朝一だったのよ」

「朝一ねえ…」

 使用状況により時間差で詰まったり、詰まった場所にもよるが、雑巾なら水を吸い結構な質量になるだろう。
 昼過ぎに置き忘れた物が、朝一にようやく影響するだろうか?河北は言った。

「あたしは、鳴瀬さんや大喜田さんじゃないと思うけどね。2人ともそういうミスしないでしょ?」

「ありがとう。まあ、気を付けてやるしかないわね」

 釈然としない表情だったが、ゆず子はそう言い業務を開始した。



 場所は変わってとある出向先。ある人物を見かけたゆず子は驚いた。

「お疲れ様です」

 久々に会った綿貫が、坊主頭になっていた。ゆず子は言った。

「あらま、サッパリしちゃって。随分短くしたのね、でも似合うわよ」

「ありがとうございます。心境の変化ってやつですね。楽ですよ、朝も夜もお手入れ一瞬だし。もっと早くやっといても良かったぐらいです」

 『隠す』事を辞めた綿貫は、とてもカッコ良く見えた。



 別日、別の出向先。ゆず子が女子トイレを掃除していると東武が入って来た。

「お疲れ様です~」

「お疲れ様です。何かしばらくぶりね」

「ええ。満野くんが急に辞めたんで、取引先の引継ぎとかで超大変だったんです」

「あら、満野くん辞めたの?」

「あれ? 知らなかったんですか。じゃあ、あの話も?」

「何の話? 聞いてもいいかしら」

 東武はニヤリとすると、少々小声で話を始めた。

「先月、台風の近づいてた日にたまたま取引先の偉い方がお見えになって、荷物持ったり傘さしたりを満野くんがやったんです。傘をさして大事なPCをタクシーまで運んでる途中で、いきなり突風が吹いて、何を思ったか満野くんはPC持ってた方の手を放して、咄嗟に自分の髪型が崩れるのを守っちゃったんです」

「えー、PCは?」

「水溜りにばっしゃーん。課長が『何してる!拾え!』って怒鳴って、PCを拾わせたら今度はカツラが飛ばされて…」

 現場を見ていたらしい東武は、気の毒そうな顔で思い出し笑いをした。ゆず子は尋ねた。

「カツラ? 誰の?」

「満野くんのでした。彼、実は若ハゲだったんです。大事な先方のPCは破損して怒られるし、カツラがバレるし心が折れたのか、満野くん辞表出しちゃったんです」

「満野くん、災難ね…」

 他人であるゆず子も、目を覆いたくなる失態だ。東武は言った。

「実は、私と徳井くん、少し前から疑っていたんですよ。徳井くんがトイレで『禿げ隠しスプレー』を見つけて、満野くんに『お前の?』って聞いたら『んな訳ないじゃないですか!』って、急にキレて、手渡したスプレーもそのままゴミ箱に突っ込んじゃって。『あの態度おかしいよね~』って言ってたんです。まさか、あんな事になっちゃうとは…」

「デリケートで切実な問題よね」

 ゆず子も思わず同情した。



 同じ悩み、同じ状況、隠し続ける選択をしたかしないかで、こんなにも人生が変わってしまうのか。
 女子が考える以上に、男子のデリケートで切実な問題は、とても大きいのである。

しおりを挟む
感想 102

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

処理中です...