鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

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回想のイイ人 ※性行為未経験者への揶揄的表現あり

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 ある日の仕事中。ゆず子がゴミ袋を手に歩いていると。

「鳴瀬さん、待ってー!!」

 後ろから追って来たのは、事務の河北かわきたと営業の東武とうぶ。ゆず子は足を止めた。

「どうしたの?」

「伝票…、間違って捨てちゃったかも…」

 息も絶え絶えに東武が言うと、ゆず子はゴミ袋を床に置いた。

「大変! 出した方いいわよね?」

「ごめんなさい…!」

 1度入れたゴミを出すのはあってはならぬ事だが、未処理の伝票を廃棄してしまう事はもっとあってはならない。3人はしゃがんで、開封作業に踏み切った。

(そう言えば昔、行った会社であんな事があったな…)
 ゆず子の脳内で、作業とは無関係な記憶が反芻された。



「何でちゃんと指導しないんだよ。これもお前の仕事なんだってば」

 声を荒げるのは、定年が近い部長の伊澤守和いざわ もりかず。頭を下げるのは、部下である中堅社員の蒲倉かばくらと更にその後輩にあたる若手社員だ。

「申し訳ありません」

 恐らく若手が何かやらかし、その目付け役である蒲倉も叱咤されてるのだろう。ゆず子は特に気にする事なく、自分の業務に集中した。


 こういう、社内での『お説教』にゆず子の様な外部業者が鉢合わせると、世間体を気にしておとなしくなる人間がいるが、伊澤はお構いなしに声を上げ続ける。典型的な『昭和頑固親父』的な人間だ。


「…すいません、蒲倉さん。俺のミスで」

「いいんだよ、誰だってミスはあるんだから。次は気をつけろよ」

 微笑む蒲倉は缶コーヒーを若手社員に手渡すと、場を後にした。

 蒲倉勇蔵かばくら ゆうぞう30歳、営業部主任。小太りでホンワカした雰囲気が、まさに『カバ』の様だ。
 穏やかで静かにニコニコ、典型的な『イイ人』ポジションの中堅である。

(人が良過ぎるって言うか、あまり強く物が言えないって言うか。部下に当たって発散する気質の伊澤部長からすれば、恰好の標的なのよね…)


「本当、蒲倉の奴はダメだ」

 喫煙室。伊澤は課長相手にくだを巻いた。

「真面目なのは分かるが、仕事に対する熱意って言うか、ガッツが無さ過ぎる。そもそも営業職なんだから、相手に対する積極性とか粘り強さが無いと」

(確かに蒲倉くんは営業職より、医療とか介護業界向けって感じもするな)
 無言でゴミを集めていると、課長が言った。

「あいつって恋人とか居ましたっけ? 噂聞かないですけど」

「ねえよ。あんなのがイイって女も居ねえだろう」

「やっぱりそうですか。営業成績の良さと異性への積極性って比例する人多いですから、恋人出来たら変わるかな?…いや、ねえか」

「…女、ねえ」

 伊澤は、灰皿に灰を落とした。



 それからしばらく後の別の日。喫煙室。伊澤は蒲倉に文句を言っていた。

「おい。ユキナちゃんから聞いたけど、お前、何で店に行ってねえんだ?」

「ああ、はい。行こうとは思ってたんですが…、なかなか」

「行けよ! お前みたいなのがあんな可愛い子と話せるなんて、この先の人生でも何回もねえんだぞ? 俺のツテで安くなるんだから」

 どうやら伊澤は、蒲倉を行きつけのキャバクラにでも連れて行ったらしい。

(もしや、『疑似恋愛』をしたら営業成績がよくなるとでも思ってる?)
 チラッと見た蒲倉は、汗を拭きながら弁解している。

「いやあ、僕みたいなのが行っても、お店の邪魔になるだけですよ~」

「金さえ払えば『客』なんだよ。胸張れって!」

「ああいうとこ、緊張しちゃうし~」

 蒲倉は困った様な笑みを浮かべていた。



 2ヶ月後。事務員が1人中途採用された。

「佐貫です。よろしくお願いします」

 佐貫愛さぬき あいは29歳。可愛いと言うより色気のある、齢の割に落ち着いた雰囲気の女性だった。

「知ってる? あの子、バツイチなんだよ」

 伊澤はニヤニヤしながらゆず子に教えてきた。

「あら、そうなんですか?」

「子供居ないから、恐らく『子供出来なかった』のが離婚原因じゃないかな」

 伊澤は偏見たっぷりにそう述べた。



 しばらく経った昼休み。女性事務員同士が世間話をしていた。若手女子が言った。

「あたしは男らしい人がタイプだな。あんまりクヨクヨウジウジしない感じで」

「うちの会社で言うと、小川さんとか?」

「えー、でも小川さん仕事出来るけど女遊び激しいし、ちょっとねー。…佐貫さんは?」

「あたし? 蒲倉さん」

 その言葉に、ゆず子は目を丸くした。若手女子も驚いていた。

「え! 意外~」

 佐貫は微笑んで言った。

「ああいう女慣れしてない人、可愛いなって思う。嫌いじゃないよ、あたし」

「…あんなの、いいかぁ?」

 話に割り込んできたのは、通りかかった伊澤。伊澤は続けた。

「ダメダメ、佐貫さんには釣り合わないよ。仕事は出来ないし、熱意も男気も無いし。それに奴は童〇だぞ? 30も超えてさ」

(ちょっと…、何を言ってるのよ)
 ゆず子は思わず眉をひそめた。若手女子は言った。

「やっぱり? やっぱ『魔法使い』でしたか」

「そうだよ。男の甲斐性もない奴なんて、やめときな?」

(あ…)
 その時ゆず子は、無言で廊下を歩いてゆく蒲倉を見たのだった。



 出来事も忘れかけた頃。ゆず子は清掃中に名刺入れを見つけた。
 またある時は、キーホルダー付きの鍵。クリアファイルに入った書類。男物のハンカチ…。落とし物を見つける回数が増えた。

 ゆず子は若手女子事務員に言った。

「最近多いわね」

「そうなんですよ。落とし物、全部伊澤部長のなんです」

 若手女子は声をひそめて答えた。

「ちょっと頻繁過ぎるわよね。今って繫忙期?」

「いや、特に繁忙期でもないんですよ。社内でもちょっと問題になってまして…」

 ゆず子がオフィスに入ると、PC作業中の蒲倉が居た。蒲倉の元に、ソワソワした様子の伊澤がやって来る。

「転送の方は?」

「ええ、あと5分程で」

「はあ…、本当何なんだよ。今月入ってもう2回目だぜ? 本当にコレ、機種や契約会社のせいじゃないのか?」

「うーん…。確かに機種は1年半前の物ですけど、大手携帯電話会社の製品ですよ? 欠陥製品ならばホームページにも出ますし、そもそも同じの使ってる他の人や僕の物も、連絡先が消える『不具合』が発生しますよ」

 蒲倉はいつも様に穏やかな表情で答えた。



「聞いた? 部長の話」

「聞いた。ヤバいよね、社用携帯のデータを誤操作で消去しちゃうわ、取引先との打ち合わせをダブルブッキングして先方を怒らせるわ。しまいには、忘れないように書いたメモも、それ自体書き間違えたり書いたつもりになっていて、書き忘れたんだって?」

 昼休み中の女性事務員達は、頭を寄せ合って口々に噂をした。若手女子は肩を竦めた。

「カバさん可哀想なんですけど。元から仕事に加えて、部長の謝罪行脚への同行や忘れないようにするためのフォローもさせられてるんでしょ? 仕事のバディだとは言え、大変すぎるよ」

「でも偉いよね、文句も言わずにやってるんだもの。蒲倉さん、意外に人として出来ているのかも」

「あんなに忘れ物するなんて、部長もしかしたら…」



 あまり元気の無い伊澤から、ゆず子が話しかけられたのは、そのすぐ後の事だった。

「知り合いに認知症の人って、いる?」

「認知症ですか? 同僚のお父さんがそうですけど」

「どんな症状? いつから始まってる?」

「いつからかは分からないけど、齢は80代で、一日中『飯はまだか』『会社に行かないといけない』って言ってるらしいですよ」

 伊澤は俯きながら口を開く。

「…60前に発症する人なんて、居ないよね?」

「でも前に、若年性認知症の人のドキュメンタリー見た事あるから、無いとは言い切れませんよ」

「そうか…」

 噂で、伊澤が病院で検査を受けて、『認知能力や脳神経に問題はない』との結果を受けたと聞いた。でも、その後も伊澤のミスは減らなかった。



 ある時、ゆず子が男子トイレに行くと、小型のアイロンを持った蒲倉が居た。蒲倉はゆず子を見るとビクッと反応した。

「あら、ごめんなさいね、驚かせて」

「いえ…」

 目が泳ぐ蒲倉。だがその周囲には黒い手帳があるだけで、アイロンをかけるべき衣類が無い。ゆず子は尋ねた。

「え、まさか着たままアイロンをかけるの? 火傷するわよ」

「あ、あの、手帳に水を零しちゃって。こないだの出張から持っていたので、これで乾かしてたんです」

「あら、そうだったの」

 その後、ゴミ袋をまとめていると、急いでいる様子の蒲倉が現れた。

「すみません、今日のゴミ捨てって、もう終わっちゃいました?」

「いいえ、まだよ。どうかしたの?」

「さっきシュレッダー詰まったから掃除して、ゴミが出ちゃいまして…」

 差し出されたのは、細長い紙ゴミが入ったコンビニのビニール袋。このくらいの量なら、次回のゴミ出しまで置いていてもいいのだが、いま右手にゴミ袋がある。

「いいですよ。じゃあこちらに」

「では、お願いします!」

 蒲倉は慌ただしく場を後にした。



 ゆず子が次に出向した時、大きなトラブルが発生したのか会社は騒然としていた。

 後から聞いた話では、伊澤が管理していた重要書類を紛失(総出で探しても出て来ず)、またも他社との大事な約束の時間を間違ってメモ(11時を14時と勘違い)してしまい、大幅な遅延をする失態を侵したとの事だった。

 すっかり自信を喪失した伊澤は、定年を早めて依願退職した。

 伊澤退職後、相方に苦労する事もなくなった蒲倉は、とても明るくなった。生来の人当たりの良さと、一連のフォローアップを評価され係長へ昇進した蒲倉は、佐貫と交際開始、翌年に入籍した。



(後で知ったけど、ボールペンには『書いた文字が加熱で消える』手品用ペンもあるとか。それに、実質蒲倉さんは伊澤部長の秘書的な役割だったから、私物はおろか何を所持してて、何処に仕舞っているかも熟知しているのよね。もしや持ち出しも可能だったのかしら?)

 彼は本当に認知能力が落ちていたのか。一方の彼は、上司の失脚を本当に狙っていなかったのか。

(だとしたら私は、失脚の片棒を担いだ事になるのか。でも勝手にシュレッダーゴミの復元をするのは、規約違反だしな…)
 ゆず子の回想は、出し抜けの声で途切れた。

「河北さん、東武さん! デスクの隙間にありました!!」

 廊下の向こうから、連石が声を上げた。

「あったの?…良かった、見つかったぁ」

 ゴミの中で3人は安堵の表情を浮かべた。河北は言った。

「ごめんね、鳴瀬さん。散らかしちゃって…」

「いいのよ。どこの職場でもたまにあることだから」

 ゆず子は言った。2人は何度も謝りながら、ゴミの回収を手伝ってくれた。


 ゆず子にとって怖い人は『笑いながら怒る人』である。それは、表情と情緒が真逆という、あり得ない事が同時に起こっているからだ。

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