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 家の崩壊と共に大量の水が流れ込んだ時、むつ子は千絵に縋りついた。
 離れる事のないよう、振り解かれる事のないよう、しっかりと千絵に抱き着いた。


 それは、親が子を守るためでは無かった。意地でも娘を道連れに死ぬ、その為だった。


 だがむつ子はその目で見た。何者かの手がむつ子を引き剝がし、千絵を遠くに突き飛ばすのを。

(他には誰も居なかったはず。あの手の主は、誰?)

 冷たい水と重い瓦礫の感触が、むつ子を包み込む。苦しくなる程の重さと痺れる痛み、騒音と軋み、そして暗闇。


 気づくと、ぐっしょり濡れて雪が降り積もる瓦礫の中に、むつ子は居た。体の上には幾重にも瓦礫が圧し掛かり、自力で抜け出す事は不可能だった。

「千絵? ちーえー!!」

 むつ子の声は、濁った灰色の空に吸い込まれる。その空も、8割は瓦礫に覆いつくされていた。

「千絵! どこなの? 早く出してよ! あたし動けないんだよ?!」

 誰も来ない。自分の声以外は何も聞こえない。

「親が大変な時に、どこ行ったんだよ! ねえってば!!!」

 瓦礫の隙間から、雪は降り積もる。




(戦時中の野戦病院って、こんな感じなんだろうな…)

 百花は、廊下にまで並べられた患者の横たわるベッドを見てそう思った。
 父が歩みを止めたその場所には、点滴をつけた千絵が酸素マスクをあてがわれ、目を閉じていた。

「母さん…!」

「流されてた所を屋根の上に避難していた人が見つけて、助けてくれたんだ。水を飲んじゃったせいで、肺炎起こし気味らしい」

 父は目頭を覆った。

「母さんもだけど、百花も無事戻ってきてくれて、良かった…」



 誰かが玄関の戸を開ける音がする。

(珍しいな。母さん、ごはん作ってる)

 目を開けると、味噌汁と煮物の匂いが自分を包んだ。
 台所の暖簾が動くジャラランという音がして、母が怪訝そうな声を上げる。

『なんだい、ただいまも言わないで』

『あぁ、ただいま。珍しいな、この時間家に居るなんて』

 父の声。玄関の音は、帰宅した音だったのだろう。

『今日は行かなかったんだよ。うちの子供らが風邪ひいたから』

 そういえば喉が痛くて鼻水も出る。体調は最悪だったが、心は弾んでいた。

(母さん、家に居てくれたんだ!)

 食卓に何かを並べて置く音。

『『いただきます』』

 父の声。

『こんな静かな食卓、新婚の時みたいだな』

『そうだね。でもあたしは賑やかな方が好きだよ。性に合ってるから』

 そう言えば母は大家族出身だった。あたしは10歳で家族の為に飯炊きしてたのよ!が、母の口癖だったっけ。


 夢が途切れると、千絵はゆっくり目を開けた。





 黒い海が襲来し、人々の生活の痕跡を洗い流したその跡地。

 影のないひょろりとした初老の女が、ある地点に立ち、呼びかけている。

[むつ子さん]

「千絵! どこなの?!」

[むつ子さん、私よ]

「腰が痛い! 親が大変な時に何をしてんだよ!!」

[むつ子さん]

「あんたが面倒みないで、誰が世話をするんだよ!」


 そこはもう瓦礫すらも撤去され、完全な更地となっていた。だが、むつ子の怨念が作り出した瓦礫の山が、別次元に確かに存在していたのだ。


 細羅が生前の姿になり、むつ子へ呼びかけをする遥か後方。青蓮華と那由他は、その様子を夫:尭則と息子:久志ひさしと共に見守っていた。

 那由他が口を開く。

「難航、しているようですね」

「仕方ないよ。生前から、人の話聞かない奴だったし」

 久志は口を尖らせる。青蓮華は尋ねた。

「お二方は、呼びかけをなさらなくていいのですか?」

「ええ、結構です」

「関わりたくないです」

 尭則と久志は首を振った。おいおい、身内なのにと那由他は思った。

 尭則が青蓮華に問う。

「妻があそこから移動しない事で、娘と孫に不利益はありますか?」

「特には。まあ、ここに来ると念に当てられて、具合を悪くする事はあるかもしれませんが…」

 むつ子の方を一瞥した後、久志は尭則に尋ねた。

「ねえ父さん、聞いていい? 何で姉貴に夢見せたんだ?」
 
 尭則は遠くを眺めると、久志を見ずに口を開いた。

「僕にも、千絵や久志を辛い目に遭わせた責任がある」

 那由他と青蓮華は、尭則を見た。

「生きる上での楽しみも教えないで、母さんの言う通りにしないとダメ。結婚してからも『親の面倒を見ろ』と縛る…。そういう目に遭わせたのは、他でもない母さんだ」

 尭則は久志を見た。

「僕が20歳の時に死んだ、お前の祖父さんに当たる人は、家族に暴力を振るう人だった。
僕はそうなりたくなかった。多くを語らずいつも微笑んでいる、そんな父親になりたかった。
結果として、母さんを悪い意味で助長してしまった。母さんをあそこまでにしたのも、久志と千絵が不幸な人生を送ったのも、僕の責任なんだ」


 津波の時、千絵とむつ子を引き剥がしたのは、尭則だった。尭則は自分の所持する『天』を、全て用いた。


「あんな母親でも、いつか幸せな瞬間もあったと思い返してくれたらって、思ったんだ。その時に、千絵が本当の人生を始められるかもって…」

 尭則は目を細めた。



「皆さん、お待たせしました」

 細羅はいつもの姿に戻っていた。

「呼びかけに応答がありませんでしたので、『現地滞留』により『相殺』を決定、とさせていただきます」

 尭則と久志は、那由他達に深く一礼した。



 極量センターに戻ると、エレベーター内で細羅は溜息をついた。思わず那由他が顔を見ると、細羅は呟いた。

「…分かってはいたけどね。落ち込んじゃうわ」

 旧知の人間の成れの果て。確かにそうだ。

 青蓮華が口を開く。

「あの人がこっちに来る時は…、細羅さん居ないわね」

「そうね。考え方によっては『ラッキー』ってものなのかもしれないね」

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