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【extra chapter】31.5 その夜の出来事 *受の自慰があります
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つ……かれ、た……。
なんとか一日の政務を終えて部屋へ戻ってくると、シィンはそこにある長椅子に倒れ込んだ。
いつもなら、夜はもっと寝心地のいい寝台のある寝室へ戻る。
が、今夜はここへ——彼の秘密の部屋へ戻ってきていた。
全てが彼好みに設えられているものの、唯一寝具だけは簡素な——なぜならここは「眠る」ための部屋ではなく憩うための場所だからだ——ここへ戻ってきたのには理由があった。
一つは、また一人きりになりたかったため。
そしてもう一つは、「彼」が確かにここにいたことを確かめたかったからだ。
馬鹿げている、と自分でも思う。
だって「彼」はもうここにはいない。
ここへ帰ってきたからといって会えるわけではないのだ。
「彼」はもう自分の厩舎に戻り、医師の診察も受けた。その知らせは日中に受け取っている。今頃、「彼」は自分の馬房で休んでいるだろう。
だから会えるわけではないしここにいるわけでもないのだ。
それはわかっている。
わかっていても——「居た」という痕跡を辿りたくて、この部屋へ戻ってきてしまった。
シィンはぐったりと身を投げ出したまま、大きく息をつく。
疲れた。本当に疲れた。
昨夜は「彼」の看病でろくに寝ていない上、今朝は今朝で思いがけないことがいくつもあって……。動揺したまま仕事に取り組まざるをえなかったために、集中できず、こんな時間までかかってしまった。
ずっと渋い顔をしつつも付き合ってくれたウェンライには感謝だ。
しかも彼はきちんと騏驥たちの聞き取りもしてくれて、やはり「彼」には——ダンジァには揉め事の一切の非がないこともわかった。
よかった。
これで憂いの一つは晴れた。
「彼に限ってそんなことは」と思っていたから意外ではないが、自分の信じていたものがその通りだったと保証されればやはりホッとする。
明日の朝はまた彼の調教をつけるから、普段通りに乗れるようにしておくのが一番なのだ。胸の中のわだかまりや、モヤモヤとしたものを払って、今まで通り普通に……。
しかしそう思った端から、シィンの頭の中はダンジァのことで占められていく。
普通ではいられないほどに。
彼は今朝自分が出て行ったのち、ここでどう過ごしたのだろう……?
ぐるりと見回した感じ、部屋は綺麗だ。
きっと着替えを探した時も、慎重に慎重に探したのだろう。なるべく部屋を荒らさぬように。彼のことだ。
想像して、シィンはくすりと笑む。
馬の姿には、なったのか、ならないままだったのか。
なったのなら——。
見たかったな。
シィンは思う。
人の姿の時も見栄えのする容姿だが、彼は馬の姿もまた凛々しく雄々しく素晴らしい。伸びやかな四肢に雄大な体躯。いつまでも眺めていられる。そして、額の星……。
撫でてやると、気持ちよさそうにしていた。
思い出して、シィンは微笑む。
シィンが撫でると大概の騏驥は皆喜ぶが、彼のような普段は真面目で、とてもではないが撫でられたがるような素振りを見せることもない者もやはりそうなるのかと思うとなんだかとても可愛らしく思える。
口付けたことを戯れにしたくて——誤魔化したくてやったことだが、ふにゃふにゃになる彼は見ていて面白かったしなんだか嬉しかった。
もっとも、その一方では、戯れにしておかなければならないことに悲しさも覚えていたのだけれど。
(口付け、か……)
そう——。
そういえば、彼との口付けはまさにここで、この場所で行われたのだ。
「苦い」と繰り返す彼の様子を見ているうちになんだかとても悲しくなって、つい衝動的に口付けてしまった。
昨夜のことを思い出して欲しい、と。
自分との口付けを思い出してほしい、と。
——そんなふうに思ってしまって……。
ああ——でも。
今朝方の出来事を思い出し、シィンは知らず知らずのうちにごくりと唾を飲み込んだ。
自ら仕掛けた口付け。
けれど直後、そんなシィンを抱きしめてきた彼の腕の強さと言ったら……!
思い出すだけで、その甘美な感覚が全身に甦り、酩酊感に目眩がするようだ。
戸惑ったのは一瞬だけ。その後は、抱擁と呼ぶにはあまりに熱っぽく激しい腕にされるままだった。
力強く、こちらを捕らえて離さなかった腕。苦しくて、けれどその苦しささえ心地良かった。
強く強く——息が詰まるほど抱きしめられて……。
気づけば、シィンは熱い息を零しながら縋るように寝台に爪を立てていた。その指先に、見覚えのある外衣が触れる。
昨日、自らが纏っていたものだ。この寝台に横たわったダンジァにかけてやっていたものだ。部屋には夜具がないから、その代わりになれば、と……。
思わず手繰り寄せると、焚き染めた香の香りに混じって仄かに彼の香りがする。
途端、ぞく……と背が震えた。
抱きしめられた時に包まれた香りだ。
まるで彼の一部になったかのようにも思えた一瞬。
彼の零した吐息の擽ったさに思わず唇を慄かせると、触れ合うそこを舌先でなぞられ、その快感に訳がわからなくなった。
恥ずかしさについ逃げようと身悶えた身体をさらに強く抱きしめられ、挿し入れられた舌で舌を探られ、舐られると、もう身体が溶けてしまいそうで……。
シィンは湧いてきた唾を再び飲み下す。さっきからこればかりだ。
思い出してしまうと、後から後から記憶が甦り、その度物欲しげに喉が鳴る。じわじわと身体が熱くなって、頭の芯が痺れるようにぎゅぅっ……と収縮して……。
(だめ、だ……)
シィンは、自身の下腹部に手を伸ばす自分を諌めるように心の中で声をあげる。
だが手は止まらない。
自分の手なのに思い通りに動かない。
自身の性器がいつしかはしたなく形を変えているように、手も、早鐘を打つ心臓も、次々とダンジァとの淫らな妄想を思い描く頭も全く自分の思い通りに動かない。
温かく、滑るようだった彼の舌。柔らかくて、けれど弾力があって甘くて……。
まるで未知の食べ物のようだった。ずっと触れられていたいようなずっと味わっていたいような……不思議な触感の未知なる食べ物。
あの唇が、舌が、唇以外のところに触れれば一体どんな感触がするのだろう。
頬に、鼻先に、額に——。首筋に触れられればきっと擽ったいだろう。けれど同時に心地好いに違いない。首筋の薄い皮膚に触れられ、吸われて、歯を立てられれば……。
「っん……っ——」
想像すると、握り込んでいる性器がグンと大きさを増す。張り詰めたそこはいつになく熱い。
自慰の経験がないわけじゃない。性的な欲求が強いわけではないが欲がないわけではなかったから、兆したときには自ら慰めて済ませていた。望めば「そのため」の相手が用意されただろうが、そうした処理の仕方をいいとは思えなかったし、他人を煩わせるのも気が引けて。
だからある意味恥ずかしくはなかったし(食べることや眠ることと同じだと思っていたのだ)、今までは「そういうもの」だと思っていた。
排出行為の一つ——と言うと多少語弊があるかもしれないが、生きていく上で避けて通れない行動の一つに過ぎないのだろう、と。
けれど……。
「ん……っん、んんっ——」
けれど今は、そんな機械的な無機質な排出行為とは全く違っていた。全く違うことをしていた。だから無性に恥ずかしくて堪らない。いたたまれないし、やめなければと、この期に及んでもまだそう思っている。思っているけれど止められない。止まらないのだ。手が。欲が。込み上げてくる劣情が。
どんな美女を思い描いた時よりも興奮している。昂ったものを扱く手が止まらない。
彼の唇に耳朶を食まれ、そこを舐られればどんな快感が生まれるだろう? そのまま、あの声で名を呼ばれ——きつく抱きしめられたまま掠れた声で名を呼ばれれば、一体どれ程の心地好さだろう。
抱き潰されるほど強く抱きしめられたい。彼の逞しい腕と広い胸に束縛されるのはきっととても気持ちがいいだろう。
「っぁ……っ……んっ——」
口付けを——こちらからより深く求めたらどんな風に応えてくれるだろう。
真面目な彼だから嗜められるだろうか。だとしたら恥ずかしい。それとも戸惑いながらも受け入れてくれるだろうか。試してみたい。もっともっと——より深く彼を味わいたい。長く深く貪りたい。貪られたい。
「ァ……っ……ダンジァ……っ」
彼の名を口にした途端、ざっと肌が粟立った。
いないはずの彼の気配がする。彼に口付けられる。想像の中の彼は本物の彼ではなく、けれど本物の彼の記憶を纏って口付けてくる。きつく抱きしめられる。
『シィン様——』
囁かれると、切なさと気持ちよさに腰が蕩けるようだ。
彼じゃない。彼はここにいない。けれど彼の声だ。何度も聞いた彼の声だ。いつも呼んでほしいと望んでいる彼の声だ。
『シィン様……シィン様はこんな風にされるのがお好きなのですね』
「ゃ……ぁ、ぁっン……っ——」
頭の中の彼が囁くと、手の中の性器が脈打つ。扱くたび、溢れた体液が指に絡み、クチュクチュと淫猥な音を立てる。腰が揺れる。息が熱い。彼の香りがする。
違う。これは彼じゃない、彼はこんなことを言ったことはない。言ってない。なのに彼の声で聞こえてくる。
頭がクラクラする。開きっぱなしになっている口の端からは短く荒い喘ぎが溢れ、それとともにツゥ……と涎が溢れる。
馬の姿から人の姿に変わった時に目にした、彼の裸身。
自分のそれとは違う、自分よりも大人な男の姿だった。伸びやかな四肢に、しなやかで引き締まった筋肉。どこもかしこも描いたように見事な美しさだった。
広い背中とそこに浮かぶ形の良い肩甲骨。無駄な肉など一欠片もない腹部に腰骨の優美なライン。
服を着ている時は理知的な面が押し出されるのか気づき辛いが、裸になると大人の雄の気配が濃く漂う。騏驥の野性味がチラチラと見え隠れするような——そんな雰囲気が。
「ん……っ……ん、ァ……っ……ダンジァ……ァ……」
きつく目を瞑り、譫言のように名を呼ぶと、そのたび記憶の中の彼の輪郭が濃くなっていく。薄らぐはずの香りが、より濃くなっていく気がする。
彼の声。彼の体温。彼の吐息。思い出すたび、性器を扱く手がいっそう熱を増す。止まらない。
『シィン様——もっと……そう——気持ち悦くして差し上げます……』
「ダンジァ……ダン……ぁ……」
口付けて、抱きしめて抱きしめられて抱き合って……。
彼の全部に触れてみたい。触れて、撫でて確かめたい。感触を、熱を。香りを。
彼に触れられたい。あの掌で、指で。身体中。身体の中まで——。
「ダン……ァ……っ、ッぅん……ぁ、んんっ……!」
次の瞬間、瞼の裏で白い光が瞬き、シィンの唇から高い声が迸る。と同時に、彼はその手の中に熱いものを溢していた。
どろりとしたそれは、今までのものよりも一層濃い気がする。
内股の震えが止まらない。長い吐精だった。
「は…………」
やがて、シィンは大きく息をつくと、ぐったりと身を投げ出したまま潤んだ瞳で天井を見上げる。
触れた上衣で掌の体液を拭った。自分は一体、なにをやっているのだろう……。
騏驥を想像して——騏驥との睦み合いを想像して自慰に及ぶなんて……。
こう、したいと——こう、されたいと思っているということなのだろうか。
彼と——ダンジァとこういうことを……。
「っ——」
想像すると、堪らなく恥ずかしくなってシィンは身を縮こまらせる。
心臓の音が大きい。頬が熱い。
そんな馬鹿な、と思うのにじわじわと耳まで熱くなっていく。
彼とそんな……そんな……そんなことは……。
「そんなことは……」
しかしシィンの言葉は、そこで途切れる。
途切れ、続かないまま、シィンは大きく顔を歪めると「ああもう!」と唸った。
いつもの自慰の後とはまるで違う。
なんだか余計にモヤモヤして、落ち着かなくなってしまっているではないか!
シィンはため息をつくと、明日の調教を想う。
彼に再び会う明日、今まで通りの普通の顔が出来るだろうか……。
……わからない。
けれどやらなければならない。
大会前の騏驥を不安にさせるわけにはいかない。
——騎士として。
「ダンジァ……」
呟くと、さっきまでの淫らな想像の中の彼とは少し違う面差しの彼が——いつもの記憶の中の彼が、
『はい』
と応える。いつもの声で。いつもの貌で。
それに安心すると、シィンはまた一つ息をついて瞼を閉じる。
「……わたしの分までゆっくり眠ってくれ、ダン」
多分眠れない。それでも、大切な騏驥のことを想ったためか次第に心は凪いでいく。こうしていれば落ち着くだろう。落ち着いて、そしてやがて朝になる。
明日の朝はきっと——多分——おそらく——普通に顔を合わせられるだろう。
自分は、王子だから。
シィンはそれを願いながら、閉じた瞼の裏にあの騏驥の姿を描く。
「あんなこと」をした後のせいか、誠実な瞳で真っ直ぐにこちらを見つめてくる彼に気恥ずかしさを覚えたけれど、それでも——。
彼のことを考えると、それだけでとても心地良かった。
なんとか一日の政務を終えて部屋へ戻ってくると、シィンはそこにある長椅子に倒れ込んだ。
いつもなら、夜はもっと寝心地のいい寝台のある寝室へ戻る。
が、今夜はここへ——彼の秘密の部屋へ戻ってきていた。
全てが彼好みに設えられているものの、唯一寝具だけは簡素な——なぜならここは「眠る」ための部屋ではなく憩うための場所だからだ——ここへ戻ってきたのには理由があった。
一つは、また一人きりになりたかったため。
そしてもう一つは、「彼」が確かにここにいたことを確かめたかったからだ。
馬鹿げている、と自分でも思う。
だって「彼」はもうここにはいない。
ここへ帰ってきたからといって会えるわけではないのだ。
「彼」はもう自分の厩舎に戻り、医師の診察も受けた。その知らせは日中に受け取っている。今頃、「彼」は自分の馬房で休んでいるだろう。
だから会えるわけではないしここにいるわけでもないのだ。
それはわかっている。
わかっていても——「居た」という痕跡を辿りたくて、この部屋へ戻ってきてしまった。
シィンはぐったりと身を投げ出したまま、大きく息をつく。
疲れた。本当に疲れた。
昨夜は「彼」の看病でろくに寝ていない上、今朝は今朝で思いがけないことがいくつもあって……。動揺したまま仕事に取り組まざるをえなかったために、集中できず、こんな時間までかかってしまった。
ずっと渋い顔をしつつも付き合ってくれたウェンライには感謝だ。
しかも彼はきちんと騏驥たちの聞き取りもしてくれて、やはり「彼」には——ダンジァには揉め事の一切の非がないこともわかった。
よかった。
これで憂いの一つは晴れた。
「彼に限ってそんなことは」と思っていたから意外ではないが、自分の信じていたものがその通りだったと保証されればやはりホッとする。
明日の朝はまた彼の調教をつけるから、普段通りに乗れるようにしておくのが一番なのだ。胸の中のわだかまりや、モヤモヤとしたものを払って、今まで通り普通に……。
しかしそう思った端から、シィンの頭の中はダンジァのことで占められていく。
普通ではいられないほどに。
彼は今朝自分が出て行ったのち、ここでどう過ごしたのだろう……?
ぐるりと見回した感じ、部屋は綺麗だ。
きっと着替えを探した時も、慎重に慎重に探したのだろう。なるべく部屋を荒らさぬように。彼のことだ。
想像して、シィンはくすりと笑む。
馬の姿には、なったのか、ならないままだったのか。
なったのなら——。
見たかったな。
シィンは思う。
人の姿の時も見栄えのする容姿だが、彼は馬の姿もまた凛々しく雄々しく素晴らしい。伸びやかな四肢に雄大な体躯。いつまでも眺めていられる。そして、額の星……。
撫でてやると、気持ちよさそうにしていた。
思い出して、シィンは微笑む。
シィンが撫でると大概の騏驥は皆喜ぶが、彼のような普段は真面目で、とてもではないが撫でられたがるような素振りを見せることもない者もやはりそうなるのかと思うとなんだかとても可愛らしく思える。
口付けたことを戯れにしたくて——誤魔化したくてやったことだが、ふにゃふにゃになる彼は見ていて面白かったしなんだか嬉しかった。
もっとも、その一方では、戯れにしておかなければならないことに悲しさも覚えていたのだけれど。
(口付け、か……)
そう——。
そういえば、彼との口付けはまさにここで、この場所で行われたのだ。
「苦い」と繰り返す彼の様子を見ているうちになんだかとても悲しくなって、つい衝動的に口付けてしまった。
昨夜のことを思い出して欲しい、と。
自分との口付けを思い出してほしい、と。
——そんなふうに思ってしまって……。
ああ——でも。
今朝方の出来事を思い出し、シィンは知らず知らずのうちにごくりと唾を飲み込んだ。
自ら仕掛けた口付け。
けれど直後、そんなシィンを抱きしめてきた彼の腕の強さと言ったら……!
思い出すだけで、その甘美な感覚が全身に甦り、酩酊感に目眩がするようだ。
戸惑ったのは一瞬だけ。その後は、抱擁と呼ぶにはあまりに熱っぽく激しい腕にされるままだった。
力強く、こちらを捕らえて離さなかった腕。苦しくて、けれどその苦しささえ心地良かった。
強く強く——息が詰まるほど抱きしめられて……。
気づけば、シィンは熱い息を零しながら縋るように寝台に爪を立てていた。その指先に、見覚えのある外衣が触れる。
昨日、自らが纏っていたものだ。この寝台に横たわったダンジァにかけてやっていたものだ。部屋には夜具がないから、その代わりになれば、と……。
思わず手繰り寄せると、焚き染めた香の香りに混じって仄かに彼の香りがする。
途端、ぞく……と背が震えた。
抱きしめられた時に包まれた香りだ。
まるで彼の一部になったかのようにも思えた一瞬。
彼の零した吐息の擽ったさに思わず唇を慄かせると、触れ合うそこを舌先でなぞられ、その快感に訳がわからなくなった。
恥ずかしさについ逃げようと身悶えた身体をさらに強く抱きしめられ、挿し入れられた舌で舌を探られ、舐られると、もう身体が溶けてしまいそうで……。
シィンは湧いてきた唾を再び飲み下す。さっきからこればかりだ。
思い出してしまうと、後から後から記憶が甦り、その度物欲しげに喉が鳴る。じわじわと身体が熱くなって、頭の芯が痺れるようにぎゅぅっ……と収縮して……。
(だめ、だ……)
シィンは、自身の下腹部に手を伸ばす自分を諌めるように心の中で声をあげる。
だが手は止まらない。
自分の手なのに思い通りに動かない。
自身の性器がいつしかはしたなく形を変えているように、手も、早鐘を打つ心臓も、次々とダンジァとの淫らな妄想を思い描く頭も全く自分の思い通りに動かない。
温かく、滑るようだった彼の舌。柔らかくて、けれど弾力があって甘くて……。
まるで未知の食べ物のようだった。ずっと触れられていたいようなずっと味わっていたいような……不思議な触感の未知なる食べ物。
あの唇が、舌が、唇以外のところに触れれば一体どんな感触がするのだろう。
頬に、鼻先に、額に——。首筋に触れられればきっと擽ったいだろう。けれど同時に心地好いに違いない。首筋の薄い皮膚に触れられ、吸われて、歯を立てられれば……。
「っん……っ——」
想像すると、握り込んでいる性器がグンと大きさを増す。張り詰めたそこはいつになく熱い。
自慰の経験がないわけじゃない。性的な欲求が強いわけではないが欲がないわけではなかったから、兆したときには自ら慰めて済ませていた。望めば「そのため」の相手が用意されただろうが、そうした処理の仕方をいいとは思えなかったし、他人を煩わせるのも気が引けて。
だからある意味恥ずかしくはなかったし(食べることや眠ることと同じだと思っていたのだ)、今までは「そういうもの」だと思っていた。
排出行為の一つ——と言うと多少語弊があるかもしれないが、生きていく上で避けて通れない行動の一つに過ぎないのだろう、と。
けれど……。
「ん……っん、んんっ——」
けれど今は、そんな機械的な無機質な排出行為とは全く違っていた。全く違うことをしていた。だから無性に恥ずかしくて堪らない。いたたまれないし、やめなければと、この期に及んでもまだそう思っている。思っているけれど止められない。止まらないのだ。手が。欲が。込み上げてくる劣情が。
どんな美女を思い描いた時よりも興奮している。昂ったものを扱く手が止まらない。
彼の唇に耳朶を食まれ、そこを舐られればどんな快感が生まれるだろう? そのまま、あの声で名を呼ばれ——きつく抱きしめられたまま掠れた声で名を呼ばれれば、一体どれ程の心地好さだろう。
抱き潰されるほど強く抱きしめられたい。彼の逞しい腕と広い胸に束縛されるのはきっととても気持ちがいいだろう。
「っぁ……っ……んっ——」
口付けを——こちらからより深く求めたらどんな風に応えてくれるだろう。
真面目な彼だから嗜められるだろうか。だとしたら恥ずかしい。それとも戸惑いながらも受け入れてくれるだろうか。試してみたい。もっともっと——より深く彼を味わいたい。長く深く貪りたい。貪られたい。
「ァ……っ……ダンジァ……っ」
彼の名を口にした途端、ざっと肌が粟立った。
いないはずの彼の気配がする。彼に口付けられる。想像の中の彼は本物の彼ではなく、けれど本物の彼の記憶を纏って口付けてくる。きつく抱きしめられる。
『シィン様——』
囁かれると、切なさと気持ちよさに腰が蕩けるようだ。
彼じゃない。彼はここにいない。けれど彼の声だ。何度も聞いた彼の声だ。いつも呼んでほしいと望んでいる彼の声だ。
『シィン様……シィン様はこんな風にされるのがお好きなのですね』
「ゃ……ぁ、ぁっン……っ——」
頭の中の彼が囁くと、手の中の性器が脈打つ。扱くたび、溢れた体液が指に絡み、クチュクチュと淫猥な音を立てる。腰が揺れる。息が熱い。彼の香りがする。
違う。これは彼じゃない、彼はこんなことを言ったことはない。言ってない。なのに彼の声で聞こえてくる。
頭がクラクラする。開きっぱなしになっている口の端からは短く荒い喘ぎが溢れ、それとともにツゥ……と涎が溢れる。
馬の姿から人の姿に変わった時に目にした、彼の裸身。
自分のそれとは違う、自分よりも大人な男の姿だった。伸びやかな四肢に、しなやかで引き締まった筋肉。どこもかしこも描いたように見事な美しさだった。
広い背中とそこに浮かぶ形の良い肩甲骨。無駄な肉など一欠片もない腹部に腰骨の優美なライン。
服を着ている時は理知的な面が押し出されるのか気づき辛いが、裸になると大人の雄の気配が濃く漂う。騏驥の野性味がチラチラと見え隠れするような——そんな雰囲気が。
「ん……っ……ん、ァ……っ……ダンジァ……ァ……」
きつく目を瞑り、譫言のように名を呼ぶと、そのたび記憶の中の彼の輪郭が濃くなっていく。薄らぐはずの香りが、より濃くなっていく気がする。
彼の声。彼の体温。彼の吐息。思い出すたび、性器を扱く手がいっそう熱を増す。止まらない。
『シィン様——もっと……そう——気持ち悦くして差し上げます……』
「ダンジァ……ダン……ぁ……」
口付けて、抱きしめて抱きしめられて抱き合って……。
彼の全部に触れてみたい。触れて、撫でて確かめたい。感触を、熱を。香りを。
彼に触れられたい。あの掌で、指で。身体中。身体の中まで——。
「ダン……ァ……っ、ッぅん……ぁ、んんっ……!」
次の瞬間、瞼の裏で白い光が瞬き、シィンの唇から高い声が迸る。と同時に、彼はその手の中に熱いものを溢していた。
どろりとしたそれは、今までのものよりも一層濃い気がする。
内股の震えが止まらない。長い吐精だった。
「は…………」
やがて、シィンは大きく息をつくと、ぐったりと身を投げ出したまま潤んだ瞳で天井を見上げる。
触れた上衣で掌の体液を拭った。自分は一体、なにをやっているのだろう……。
騏驥を想像して——騏驥との睦み合いを想像して自慰に及ぶなんて……。
こう、したいと——こう、されたいと思っているということなのだろうか。
彼と——ダンジァとこういうことを……。
「っ——」
想像すると、堪らなく恥ずかしくなってシィンは身を縮こまらせる。
心臓の音が大きい。頬が熱い。
そんな馬鹿な、と思うのにじわじわと耳まで熱くなっていく。
彼とそんな……そんな……そんなことは……。
「そんなことは……」
しかしシィンの言葉は、そこで途切れる。
途切れ、続かないまま、シィンは大きく顔を歪めると「ああもう!」と唸った。
いつもの自慰の後とはまるで違う。
なんだか余計にモヤモヤして、落ち着かなくなってしまっているではないか!
シィンはため息をつくと、明日の調教を想う。
彼に再び会う明日、今まで通りの普通の顔が出来るだろうか……。
……わからない。
けれどやらなければならない。
大会前の騏驥を不安にさせるわけにはいかない。
——騎士として。
「ダンジァ……」
呟くと、さっきまでの淫らな想像の中の彼とは少し違う面差しの彼が——いつもの記憶の中の彼が、
『はい』
と応える。いつもの声で。いつもの貌で。
それに安心すると、シィンはまた一つ息をついて瞼を閉じる。
「……わたしの分までゆっくり眠ってくれ、ダン」
多分眠れない。それでも、大切な騏驥のことを想ったためか次第に心は凪いでいく。こうしていれば落ち着くだろう。落ち着いて、そしてやがて朝になる。
明日の朝はきっと——多分——おそらく——普通に顔を合わせられるだろう。
自分は、王子だから。
シィンはそれを願いながら、閉じた瞼の裏にあの騏驥の姿を描く。
「あんなこと」をした後のせいか、誠実な瞳で真っ直ぐにこちらを見つめてくる彼に気恥ずかしさを覚えたけれど、それでも——。
彼のことを考えると、それだけでとても心地良かった。
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平民のオメガにして近衛騎士に登用されたスフェンは、敬愛するアルファの公子レクスに忠誠を誓っている。
しかしレクスから賜った密令により、敵方の騎士でアルファのエリセイと行動を共にする破目になってしまう。
エリセイは腹が立つほど呑気でのらくら。だが密令を果たすため仕方なく一緒に過ごすうち、彼への印象が変わっていく。
さらに、蔑まれるオメガが実は、この百年の戦いに終止符を打てる存在だと判明するも――やはり、剣を向け合う運命だった。
特別な「ヒールオメガ」が鍵を握る、ロミジュリオメガバース。
憎くて恋しい君にだけは、絶対会いたくなかったのに。
Q矢(Q.➽)
BL
愛する人達を守る為に、俺は戦いに出たのに。
満身創痍ながらも生き残り、帰還してみれば、とっくの昔に彼は俺を諦めていたらしい。
よし、じゃあ、もう死のうかな…から始まる転生物語。
愛しすぎて愛が枯渇してしまった俺は、もう誰も愛する気力は無い。
だから生まれ変わっても君には会いたく無いって願ったんだ。
それなのに転生先にはまんまと彼が。
でも、どっち?
判別のつかないままの二人の彼の愛と執着に溺死寸前の主人公君。
今世は幸せになりに来ました。
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