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58 騏驥待機中
しおりを挟む「いい場所、ですね」
ダンジァが素直に感想を言うと、
「そう? 落ち着けそうかな」
確かめるようにユェンが尋ねてくる。ダンジァは「はい」と頷いた。
「ゆっくりできそうです。ありがとうございます。でもこんないい場所よく確保できましたね。大変だったんじゃ……」
用意してくれている椅子に腰を降ろしながら言うと、
「うん。実は——」
ダンジァに飲み物を渡してくれながら言いかけたユェンが、そこで言葉を切る。
「?」
ん? と目を瞬かせたダンジァに、ユェンは「ええと……」となんとなく視線を彷徨わせる。
直後、
「うん、まあね」
と苦笑しながら言った。
「?? どうしたんですか?」
何か変だ。
ダンジァが尋ねると、ユェンは「いやいや」と顔の前で大きく手を振った。
「どうもしないよ。なんでもないんだ。ただ……うん。まあ、運がいいときはそういうものだろうな——って言うか……。『大変』ってほどのことじゃなくてさ、たまたまだよ、たまたま。たまたま探し回ってたら、ここが空いてて……」
「……」
「だから、気に入ってもらえるか不安だったんだけど、気に入ってくれたならよかったよ。ウォーミングアップエリアからはちょっと遠い部屋だから、早めに出た方がいいけど……」
「そうですね。でもその分静かで落ち着けそうですから」
「うん。僕もそう思うよ」
ユェンは言うと、自らも飲み物に手を伸ばす。
昨夜の抽選会や宴の際同様、控室にも数種の飲み物と食べ物が用意されている。
ダンジァは渡された水を一気に飲み干すと、続けて別の玻璃を自ら取り、それも一気に飲み干した。
開会式からこっち、全く飲み物を摂っていなかったから、知らないうちに喉が渇いていたようだ。最初のものは花の香りが、二杯目は爽やかな葉の香りがした。
三杯目をゆっくり飲んでいると、ユェンが苦笑した。
「喉、乾いてたんだね。ごめん、気づいてあげられなくて」
「いえ、そんな。ユェンさんが謝ることじゃ……」
そうなのだ。
実際のところ、ここに辿り着くまでや、もっと言えばユェンに会う前に(つまり彼を探していたときに)飲み物を摂る機会は何度もあった。待機所は騏驥も騎士も寛げるように設られているから、あちこちに飲み物や食べ物が置かれているからだ。
なのに、早くユェンと合流しなければという気持ちが先走って、それらを後回しにしていたのは自分なのだ。
落ち着いているつもりでいても、やはり本番が間近になればなかなかそうもいかないようだ。自分ではわからないうちに緊張してしまっているのだろう。
(それに、ツェンリェン様にも驚かされてしまったし……)
彼の嬉しそうな楽しそうな顔を思い出す。
ダンジァが知っているそれまでの彼は、騎士らしく「穏やか」「優雅」「にこやか」であっても、あんなに……なんと言うか、手放しで喜んでいるような(?)顔はしていなかった。見たことはなかった。連れていたのはよほどお綺麗な方なのか……それともお好きな方なのだろうか。
(好き……か……)
その言葉が胸を巡った時。ダンジァのそこはシクリと痛んだ。
ツェンリェンのせいではなく、シィンのことを想像したためだった。
さっきユェンが言っていた、彼が聞いたというシィンの花嫁探しの噂は……本当なのだろうか。
その類の女性が、実は何人も来ているのだろうか?
ここからは——自分からは見えない場所にいるのだろうか。自分では決して近づけない場所に。「王子」のシィンがいる場所に……。
「……」
思わずため息をつきかけ、ダンジァは慌ててそれを飲み込んだ。
自分にはそんなこと、関係ない。
自分にできるのは騎士であるシィンの期待に応えることだけなのだ。
しかも彼の婚姻がどうなのかどころか、この大会の後にはもう二度と乗ってもらう機会はないかもしれないのだ。
だとしたら、勝つためのこと以外の、余計なことは考えるべきじゃない。
考えてはダメだ。
ただでさえ、大会ということで緊張しているのに、余計なことまで考えていては……。
そうしていると、部屋の外からわあっと声が聞こえる。
第二競走が終わったのだろう。
また少し——けれど確実に出番が近づく。
ダンジァは雑念を振り落とすように、ひとつ大きく頭を振ると、
「ユェンさん」
馬具の確認をしているユェンに声をかけた。
手を止めたユェンに、ダンジァは続ける。
「今のうちに、少し予選の作戦について考えておきませんか。実際のところはシィン様の判断に従うことになるでしょうが、もしかしたら意見を求められるかもしれませんし」
「ぁ……ああ——うん。いいよ、もちろん。でも疲れてない? 少しゆっくりしてからでも……」
「いえ、大丈夫です。ここにいられるだけでリラックスできてますし……レースに向けて気持ちは高めておきたいので」
「そっか。わかった。じゃあ、僕は今の競走のリプレイを見てくるよ。その間に、ええと……これが第一競走の詳細と、僕の分析。目を通しておいて」
「わかりました。ありがとうございます」
「うん」
頷くと、ユェンはキビキビと腰を上げ、その場を後にする。
ダンジァは、彼から渡された資料の多さに驚いた。
丁寧で気のつく人だとは思っていたが、こんなにしっかりと「勝つため」の資料を作ってくれていたなんて。しかも、この場所を確保してくれたり、ダンジァを迎えに来てくれるまでの間にだ。
しかもなんだかわかりやすそうだ。
「すごい……」
ツェンリェンが言っていたように、サイ師がなかなか弟子を取らない人なら、厩舎での修行を許したのも、この大会にダンジァの厩務員として同行するように指示したのも、よほど彼をかっているからなのだろう。
そんな彼がバックアップしてくれているなら、ますます負けられないし余計なことは考えていられない。
「ええと……」
ダンジァは、受け取った資料を読みながら、桌に広げられている今回のコースの絵図の上に、騏驥たちに見立てた石を置いていく。
そしてその石をそれぞれ動かしながら、スタートして、どの騏驥がどう動いたのか、どういう位置を走り、どこで加速し、また、どこで減速したのかを細かに確認していく。
ユェンの調べによれば、第一競争ではコースに水が撒かれただけでなく、一部の走路がわざと荒地にされていたらしい。早めにそれに気づけば問題ないが、気づかなかったなら、足場の悪いところを走らされることになるというわけだ。
とはいえ、その荒れた場所は上手く走ればゴールまでの最短距離にもなるようだから、騏驥の能力と騎士の判断、そしてそれらの駆け引きが勝敗の分かれ目になったようだ。
資料の欄外には、ユェンによる各騏驥や騎士へのちょっとしたコメントの数々の他に、
『事前の予想とは少し違う結果だった!』
と、競走自体への素直な感想が書き込まれている。
(やっぱり、実際の競走では調教のようにはいかないのだろうな……)
ダンジァは深く頷いた。
調教でどれほど速く長く走れても、やはり練習と本番は違う。
一緒に走る頭数は多いし、それらが皆、勝ちたい、一つでも上の順位になりたいと競ってくるのだ。そしてもちろん他の騏驥に跨ってる騎士がどういう戦略かはダンジァにわからないし、走る馬場だってその時になってみなければわからない。
それこそ、行ってみなければ何が起こるかわからない、遠征のように。
(遠征……)
ダンジァは、知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
あれはもう、昔の話だ。
身体の傷は治った。気持ちだってもう立ち直ったはずだ。だからまた走れている。騏驥として、騎士を乗せて。
だからもう、何もかも大丈夫なはずなのだ。
でも——でも、もし、また……。
「あっ」
考え事をしてしまっていたからだろう。
桌の上の石を幾つか落としてしまった。
あちこちに転がっていくそれを慌てて追い、最後の一つに手を伸ばした時。
「!」
その指が、不意に視界に入ってきた指と触れ合う。
同じ石に伸ばされた指は、見覚えのある——いや、それどころか絶対に忘れることのない長く美しい指だ。
そんな指の持ち主は一人しかいない。
いつもダンジァの手綱を握ってくれていた——。
他でもない——シィンだ。
びっくりして中腰のまま顔を上げると、同じようにしゃがんでいた彼がくすりと笑った。そして先に石を拾い上げると、
「ほら——」
なんでもないことのように——当たり前のように——ダンジァに渡してくれる。
それが嬉しくて——嬉しいのに戸惑ってダンジァが動けずにいると、シィンは流れるように立ち上がり、まだ呆然と見上げるダンジァに向けて手を差し出し、
「待たせたな——わたしの騏驥よ」
晴々しい笑みを見せ、朗々たる声音で言った。
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