安楽椅子から立ち上がれ

Marty

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第三章 中国人がいる!

中国人がいる! (6)

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 そこではたと気付いた。考えが頭を巡る前に小沢さんが徐に口を開く。
「ごめんなさい」
 疲れた脳は反応を鈍らせる。その間に、
「まず初めに言うべきだったわ。辰吉くんは関係ないのに、私のせいで巻き込んでしまっている。ごめんなさい」
 謝罪を重ねる。いつの間にか肩に入っていた力が抜ける。自然と背筋も伸びる。
「いや、そんなことは」
 首を振って見せる。しかし小沢さんは腹に何かを決めたような、なぜか力のある声で続ける。
「実は私は、水泳大会、別に嫌ではないわ」
 思わぬ話の方向に鼻白む。一方彼女は一層力を得たように話を継ぐ。
「もしかしたら、この行事で皆と仲良くなれるかもしれないもの」
「そうか」
 呆れ気味に返す。今はそんな話はしていない。それどころではないはずである。
「私はどうすれば良いか分からない」
「ふむ」
「でもどうしたいかは分かる気がする。それはもうずっと前からそうだったから」
「何の話だ。良く分からない」
「そうね。私も良く分からない。やろうとしていることが正しいことなのか、どうなのか。でもどうせ分からないのなら」
 視線で俺を射すくめる。
「あなたを信じる」
「は」
「あなたが教えてくれた、私の無意識を意識する」
 たったいま響いた声は、果たして彼女のものだったのだろうか。
「私は皆に理解してもらいたいの」
 それほどまでに力強いものだった。
 馬鹿げた話である。
 その時初めて、彼女の言葉にも感情が宿ることを知った。


 
 ことは何も解決を見出せないどころか、進展すらしてはいなかった。しかし、
「帰りましょう」
 小沢さんは何の思い残しもなさ気にそう言った。あまりの歯切れの良い口調にこちらとしては言葉を失う。咄嗟にコーヒーの残りを啜るくらいである。
 彼女はサイドワゴンから鞄を手に取ると徐に立ち上がる。ピンクのスカーフがかすかに揺れた。手でスカートを払い、そのまま両手を前で添えると正面を向いた。どうやら帰り支度の準備は完璧のようだ。
 そして彼女は壁のポスターに目をやる。例の《題名は知っているが見たことはない映画》のポスターである。数秒してから片手を挙げ、
「マスター。タブを」
 ややあって、請求書を持って髭の店主が現れる。
「こちらですね。御嬢さん。それとも低カロリーの例の飲み物の方でしたか」
「少しだけ期待しておりました」
「失礼。次回までには何とか用意しておきましょう。どうぞお忘れ物がないようにお帰り下さい。あなたには是非また来店して頂きたい」
「こちらこそ。再びお会いできることを楽しみにしております」
 俺はといえば再び置き去りである。二人だけで楽しまないでいただきたい。氷すら残っていないグラスを空にしながらそう思ったものである。
 六百円と千円をそれぞれ支払って外に出たとき、雨はもう止んでいるように思えた。二人とも空を仰いで雲の行方を窺ってみる。軒先から手を伸ばして水滴を感じられなかったところで、顔を見合わせた。一度開花を経たピンク色の花も役目を終える。パチンと音がして、今は蕾となり彼女の片手に携えられる。
 ここで解散の流れのようだ。
 小沢さんは三十度に折れながらお礼を言って帰って行った。
 残された俺は本当にこれで良かったのかと考えるばかりで、その場から動くことができなかった。小沢さんは何かを心に決めたようだった。それが何かはもちろん俺には分からない。このままただの傍観者として、この件を見守っていいものだろうか。
 ふと見るとブラックボードの文字が変わっていた。
『今昔の流れも知らず ひたすらの 美味なる故に 愛す(アイス)珈琲』。
 変な店である。
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