安楽椅子から立ち上がれ

Marty

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第五章 ヒロインなんて要らない

ヒロインなんて要らない (2)

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「来たか」
「来いって言ったのは君だろう」
 ひょいひょいと上ってきた。身軽である。
「まったく、貴重なお昼の時間なのに。何の用だい」
 隣に座ると足を小刻みに震わせる。手は突っ込んだままだ。寒いのだろうか。
「悪いな。ちょっと思いついたことがあってな」
「お! なにか面白いことが分かったのかい」
 背筋が伸びた。嬉しそうな顔をこちらに近づける。
「そんなところだ」
「それならいいんだ。いつでもお呼び立てしてくれ。早朝だろうが夜だろうが、昼放課だろうがね、この埃まみれの薄暗い踊り場に喜んで参上するよ」
 楽しそうである。では冗長なものにしてはいけない。
「少し、傘の話をしていいか」
「傘?」
 真は狐につままれたような顔をした。表情が豊かである。
「そう傘だ」
「そうかい。傘ね。はい、ではどうぞ」
 大袈裟に片手を差し出す格好をする。
「いつだったか、図書館で小沢さんとバッタリ会った時があっただろう。お前の本の返却に俺がついて行った時だ」
 小さく頷く。
「もちろん覚えているよ。五月三十一日のことだね」
「日にちまで覚えているのか。なら話は早い。あの日、小沢さんの《忘れた傘》の所在を推理したな」
「そんな大層なものじゃなかったけどね」
 同感である。
「どう結論付けたか、覚えているか?」
 真は一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、ほとんど間髪入れずに答える。
「確か、《外は雨が降っていたから校舎にあるはずはない。ということは、誤って図書館の傘立てに置いてしまった。持ち込むつもりだったから忘れたと形容した》みたいな感じだったと思うけど」
 それがどうした、と興味のなさそうな顔だ。ならば、もう一度興味を覚えさせてやろう。
「それは間違いだった」
 ズバリ言ってやる。
「間違い?」
「そう間違い。見当違い」
 真は顎に手を当てた。
「ふうん」
 考える時間を設けているためか、間延びした相槌を打つ。
「これは俺の情報の不完全さが招いたものだ。考えが浅かったよ。すまんな」
「謝られてもねえ」
 肩をすくめる。早く説明しろということだろう。
「あのとき、彼女は確かに傘を忘れてきた、と言っていた」
「はあ」
「でも正しくは、《置き忘れた》と言っていたんだ」
 真は顎から手を放し、目を瞬かせる。眉間に皺を寄せた。
「なんの違いがある?」
「自分に置き換えてみろ。お前がこの間、返却日に本を机に置き忘れてきたとき、あれはどういう状況だ」
「どういう状況って」
 しばし間が空き、
「机に入れたままにして、持ってき忘れた……」
 ピンと来たのだろう。思わずハッとした表情を浮かべ、言葉を継ぐのを止めた。真剣な顔で俺を見詰める。こちらが後を引き継ぐ。
「置き忘れる。この言葉は通常、《意図的に置いたもの》に対して《持ってくることを忘れた》ときに使う。そもそも置くこと自体が間違いだった場合に、使うことはない。置いて、忘れた、わけではないからだ」
 一度言葉を区切る。自らの頭を整理するためでもある。
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