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ちえ

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 北千住駅から徒歩五分。河川敷に臨んだ道を通った途中に、新しいマンションが建つ。
『緑に囲まれた場所で新しい生活を始めませんか?都心からわずか二十分の憩いの場です』
 マンションのポスターに書かれている通り、周りには緑が多い。
 だからといって、住みにくいことは全くない。近くにはスーパーもコンビニも学校も病院もある。程よく田舎。その言葉が一番合う。
 飛鳥は、きょうから始まるモデルルーム展覧会の接客係に選ばれた。
 モデルルームは、マンション建設予定地と駅のちょうど交わったところにある。だから、駅からの距離は実際の距離と同じになる。お客様に実感してもらうために、あえてそこに建てていた。
 モデルルーム開始時刻は朝九時。飛鳥は、時計を見た。いま八時半だった。お客様を迎える準備は整っていた。
 よし、と飛鳥は女子トイレに向かった。
 鏡の前で笑顔を作る。口角を上げるマッサージをして、きょう一日がんばろう、と気合をいれる。
 ネットの普及が進んで、直接店舗に向かわなくても自宅でなんでも購入できる時代になった。飛鳥も、食料品以外の日用品は、ほぼネットに頼りきっている。よく利用するのは、洋服の購入だ。お店に行って試着して買うことがなくなった。
以前は足が疲れるまでファッションフロアを歩き回って、欲しい服を探していたが、ネットだと寝ながらでもいろんなサイトをはしごして、気になる服があればボタン一つで購入できる。消耗品だし、高い買い物じゃないからと軽い気持ちだ。
それに、もし、サイズが合わなかったり、イメージと異なる商品が来ても、フリマアプリで簡単にネットに出品できる。飛鳥は、そのアプリもヘビーユーザーだった。
 でも、家は違う。実際に目で見て、肌で感じて、実際に暮らすイメージを湧かせて、お客さんの納得が得られて購入になる。
 人生で何度もない高額な買い物だし、気に入らないからとフリーマーケットできるわけじゃない。
 お客さんに満足してもらって、住みたいと思わせるためには、飛鳥のようなハウスメーカーの営業の力も大事になる。
今回は、スーツを新調した。先週、三十三歳の誕生日を迎えた。密かな自分へのプレゼントとして購入した。ライトグレーのパンツスーツで、オーダーメイドだ。スーツだけは、店舗に赴いてきちんとサイズを測ってもらう。家を購入するときの感覚と似ている気がする。
 腕時計を見た。カルティエの時計。ブラックの革ベルトに長方形の羅針盤で十二、三、六、九は数字の代わりに宝石が埋められている。一昨年、いまの部署に移動したときに購入した。
時間は八時四十分をまわった。もうすぐ、ミーティングが始まる。
最後にもう一度鏡を見て、トイレを出た。
ちょうど先輩の早乙女慎也と出くわした。
「おう、瀬戸内、いいスーツ着てるね。気合い入ってんじゃん」
「ありがとうございます。おニューなんです。それより、なんで、早乙女さんがいらっしゃるんですか」
 飛鳥は記憶を辿る。慎也は、今回選ばれていなかったはずだ。
「瀬戸内、初めてのチーフだろ?初日だけ面倒見てやれって課長からのお達しがあってさ。それにしても、チーフを任されるなんて、成長したなあ」
 慎也が、子どもの成長を見るような目つきで言った。途端に、気恥ずかしくなる。
「その節は、お世話になりました。もー、早乙女さん、事務所へ行きますよ」
 慎也の顔を直視できず、俯き加減に歩き出した。「なんだよ、褒めてんだよ」と言った慎也の声は笑っていた。ニヤついた顔が想像できる。
 からかわれるのは、得意じゃない。でも、不思議と慎也からだったら嫌じゃなかった。
 飛鳥は、足早に進みながら、自分でも成長したなあ、と感じていた。思わず苦笑いがこぼれる。
 つい三年前まで、飛鳥はお客さんのことなんて一切考えていない営業だった。


 
  
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