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プロローグ(3)

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七月も中旬、夏の暑い日で、その日の最高気温は三十八度だった。事務所の中はクーラーが効いているとはいえ、簡易な建物は、熱をこもらせやすい。接客で話していると、じんわり汗をかいていた。
昼過ぎに一人の男性を担当した。三十歳半ばくらいの見た目に、日焼けした腕をのぞかせていた。さらに暑さを感じさせる外観だった。
眉毛も目も蛇のように細くて、髪の毛の色は赤がかった茶色だった。若い時は、深夜にコンビニの前で仲間とたむろっていそうな人だった。
扉から入ってきた瞬間に、「ハズレ」だと思った。受付で記入してもらった職業欄には、聞いたこともない名前の会社名が汚い字で書いてあった。
 さっさと終わらせよう。どうせ家なんて買わないわ。
 そう決めつけていた。すでに、三人を対応した後で、疲れてもいいた。
 飛鳥は、満面の笑みで、男性に近づいた。

「本日担当します瀬戸内と申します。よろしくお願いします」

 飛鳥が頭を下げると、男性は、片手を顔の前に上げて、馴れ馴れしく言った。

「きょうは、よろしく頼むね」

 関西や九州の方言を彷彿とさせるイントネーションだった。
 お客さんだからって、会って数秒でタメ語なのが気に食わなかった。知能レベルがうかがえる。やっぱり、働いている会社も大したことないところに違いない。
 予算は、一二〇〇万円。なのに、要望は湯水のごとく溢れる。
「お風呂は足ば伸ばせるくらい」「台所のシンクは、五十センチくらいで、調理場はまな板二枚は置けるくらいほしかね」「部屋の数は四つで、一室は畳にして」・・・・・・・
 通常、予算が一〇〇〇万円代だと、標準仕様を用いて提案する。そうすることで設計費や材料費が安く済むためだ。
 しかし、男性の要望だと、予算オーバーが目に見えていた。

「恐れ入ります、お客様。お客様の要望をすべて叶える事になりますと、とても予算がオーバーしてしまいます。例えば、キッチンはこちらのカタログのような標準仕様に変更いただくなど、いくつか再検討いただけませんでしょうか」

 上出来。愛想よく言えた。

「いやばい。こんなダサか仕様。おいは、キッチンはもっとシンクが広くて調理場もあと十センチはほしか」

「でしたら、こちらのトイレ、収納、お風呂を妥協いただいて・・」

 飛鳥は、さらにカタログのページをめくる。バサバサ、とページをめくる音をわざと大きくした。
 男性は、首を縦に振らない。カタログには見向きもしないで声を張る。

「なんや、おいは客ぞ。客の要望ば叶えるとが、わいたちの仕事じゃなかとか」

「しかし、それですと予算が・・」

「なんや、さっきから予算予算て。客の足元見て商売ばしとるとか」

 あたりまえじゃない。

「とんでもございません。お客様のご要望をできる限り叶えたいと考えております。しかし、全てを叶えるのは厳しいです」

 早く折れてよ。時間の無駄よ。

「ふざけるな。いつお前がおいの要望ば叶えようとしたとか。おいは、否定しかされとらんぞ」

 だったら、もっとお金を持ってきてよ。

「申し訳ございません。しかし・・」

 飛鳥が言い終わるのを待たずに、男性は椅子から立ち上がった。

「もうよか。担当者ば変えろ。お前から家は買いたくなか」

 フロア中に響き渡るような怒鳴り声だった。
 飛鳥は萎縮して、身動きが取れなかった。声も、出なかった。
 すぐに、チーフの慎也が飛んできた。

「お客様、いかがされましたでしょうか」

 慎也の声が遠くで聞こえた。宙を浮いてるだけで、飛鳥の耳に届かない。
 男性が、慎也と数回言葉を交わすのを、ただ眺めていた。何を話しているかは、まったく耳に入ってこなかった。
 最後に慎也が頭を下げて、ベテランの中野さんを担当につけた。
 男性と中野さんが席に着いたのを見届けてから、慎也は飛鳥の方を見た。

「ちょっと、こっちに来い」

 険しい顔だった。いつもはムードメーカーで、冗談ばかり言って笑っている慎也しか見たことがなかった。
 慎也は、スタッフルームに入って、飛鳥に座るように指示した。飛鳥はお尻を半分だけ椅子にのせ、背筋を張った。

「先ほどのお客様だが、とりあえずは納得してもらったから」

 飛鳥の向かい側に腰掛けながら慎也が言った。静かに、少し優しさの入った声で、安心した。飛鳥は、小さく息を吐いた。

「はい、すみません。ありがとうございます」

「誰にでも失敗はある。瀬戸内は成績もいいし、がんばっているのは知っている。でも、おれは、もっと根本的なところを瀬戸内に聞きたい。瀬戸内は、家を売るとき、何を考えながらお客様と向き合っている?」

 お金です。自分の営業成績です。
 答えは明確だが、言えるわけがない。

「お客様のことです」

 平べったい声になった。
 慎也の視線が、飛鳥の目を捉えて離さない。すべてを見透かされているように感じて、上辺の言葉が、さらに嘘っぽくなった。

「わかった。では、きょうはなぜお客様があんなに怒ったと思う?」

「私の接客に落ち度があったからです」

「落ち度とは?具体的に」

「お客様の要望に沿えなかったことです」

「本当にそうかな?」

「え?」

 飛鳥は、思わず視線を外した。

「瀬戸内がお客様にどんな提案をしたのかは、直接は聞いていないからわからない。でも、お客様の要望に寄り添っていたとは思えない。確かに、先ほどのお客様は予算の割に無理な要望が目立った。正直、工務店に依頼した方がいいだろう。でも、最初にうちの会社を選んできてくれた。この契約が取れるかはわからない。それでも、きてくれた以上、お客様の要望は最大限叶える提案をするべきだ」

 慎也の言いたいことはわかる。飛鳥は、きちんとそう対応したはずだ。自分に何の落ち度があったのかわからなかった。

「そうだな、もっと具体的に言おう。瀬戸内の接客は、マニュアル通りすぎるんだ。予算が厳しければ標準仕様を織り交ぜながらコストを抑える。その提案は間違っていない。ただし、あまりに無理な仕様のお客様に対してだと、お客さんの案を否定してばかりになってしまう。お客さんからしたら、そんな家望んでいないと怒るだろう。だから、まずはできるかどうかは考えずに、お客さんの要望をすべて図面に起こすんだ。そして、上と相談するよう伝える。不可能であれば、標準仕様に変更する話をする。納得してもらえれば契約だし、断られれば、お客さんは次の店へ行くだけだ。時間はかかるが、お客さんの特徴を見て接客することが大事なんだ。わかるかな?」

 慎也の視線は、飛鳥を捉えたままだ。飛鳥は、目をそらしたまま、まばたきを数回した。無意識に下唇を噛んでいたようで、歯を外すとジーンと鈍い痛みがあった。毒づくことで、心を安定させていた。体の力が抜けたことで、涙腺も緩んだ。涙がジワリと目元に浮かんできた。
 一つでも多くの契約を取ることにだけ専念していた。一人のお客様と親密に向き合っていなかったことを指摘された。慎也は、気づいていたんだと知って、無性に恥ずかしくなった。

「今回のことをこれ以上言うつもりはない。ただ、これからの接客に活かすことは忘れるな。誠意を見せろ。信頼関係があってこその仕事だと言うことを絶対に忘れるなよ」

「はい」

それだけ言うのが精一杯だった。視界がぼやける。これ以上の言葉を発すると、涙が溢れるのを抑えられなかった。

 
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