2 / 16
第1話「覚醒と絶望の朝」
しおりを挟む
鏡の向こうに映る青年は、色素の薄い亜麻色の髪と、どこか頼りなげな翠色の瞳をしていた。
わたしは自分の顔をまじまじと見つめ、頬をつねり、そして大きくため息をついた。
痛覚がある。
夢ではない。
この世界は、前世でわたしがプレイしていたボーイズラブ要素を含む乙女ゲーム『銀の聖騎士と薔薇の誓い』の中だ。
そしてわたしは、主人公でも攻略対象でもなく、悪役令嬢ならぬ悪役令息の取り巻きですらない、ただの従者Aこと、リアン・キャンベルになっていた。
『嘘だろ……』
心の声が漏れそうになるのを必死で飲み込む。
洗面台の縁を掴む指先が白くなるほど力を込めた。
記憶が戻ったのは今朝のことだ。
高熱にうなされ、死ぬかと思った瞬間に、前世の記憶が雪崩のように押し寄せてきたのだ。
ブラック企業で働き詰めだった前世。
唯一の癒やしが、寝る前に少しずつ進めていたこのゲームだった。
王道ファンタジーの世界観に、近年流行のオメガバース設定を組み込んだ意欲作。
支配的な性であるアルファ、一般的なベータ、そして希少で被支配的なオメガ。
この三つの性が織りなす重厚な人間ドラマと、甘く激しい恋愛模様が売りだったはずだ。
だが、問題はそこではない。
わたし、リアン・キャンベルの設定だ。
『なんでオメガなんだよ!』
そう、このリアンというキャラクター、ゲーム本編には名前すら出てこないモブなのだが、裏設定が存在した。
公式ファンブックの片隅に書かれていた「没設定」だ。
悪役令息カイルの従者でありながら、実は身分を偽ったオメガであり、カイルの破滅とともに人身売買ルートへ売り飛ばされるという、あまりにも救いのない結末を迎えるキャラクター。
それがわたしだ。
冷や汗が背中を伝う。
この世界において、後ろ盾のない平民のオメガがどういう扱いを受けるか、わたしはゲームの知識として知っている。
アルファの慰み者にされるか、子供を産むための道具として扱われるか。
どちらにせよ、人間としての尊厳はそこにはない。
『冗談じゃない。二度目の人生くらい、平穏無事に生かせてくれ』
わたしは震える手で、洗面台の棚を開けた。
そこには見慣れない小瓶が入っている。
ラベルには『抑制薬・ベータ偽装用』と記されていた。
どうやら覚醒前のリアンも、自分の身を守るために必死だったらしい。
わたしは小瓶から錠剤を一粒取り出し、水なしでのみ込んだ。
喉の奥に苦い味が広がる。
これがわたしの命綱だ。
この薬を飲み続けている限り、わたしはベータとして認識される。
フェロモンも抑制され、発情期であるヒートも来ない。
ただ、副作用として魔法の使用時に制御が難しくなるという欠点があるらしいが、背に腹は代えられない。
『目標は一つ。カイル様の破滅フラグをへし折り、学園を無事に卒業すること。そして田舎に引っ込んで、誰にも見つからないように農業でもして暮らすんだ』
決意を固め、わたしは顔を洗った。
冷たい水が火照った肌を引き締める。
タオルで顔を拭き、深呼吸を一つ。
鏡の中の自分に向かって、わたしは力強くつぶやいた。
「よし、行こう。今日も完璧なモブ従者を演じ切るんだ」
ドアを開けると、朝の光が廊下に差し込んでいた。
カイル・ヴァイオレットの屋敷は無駄に豪華で、廊下ひとつとっても庶民の家が一軒建つほどの広さがある。
わたしは足音を忍ばせ、主人の部屋へと向かった。
カイル様は典型的なわがままお坊ちゃんだ。
朝の支度が少しでも遅れれば、ヒステリックに叫び散らす。
ゲームでは、その傲慢さが災いして王太子殿下の不興を買い、最終的には家ごと取り潰しになるのだが、今のわたしには彼のご機嫌を取ることが最優先事項だ。
「カイル様、朝でございます。お目覚めの時間です」
ノックをして部屋に入ると、豪奢な天蓋付きベッドの中で、栗色の髪をした青年が不機嫌そうに身じろぎした。
布団を頭までかぶり、拒絶の意思を示している。
「……うるさい。あと五分」
「五分後には朝食の時間です。本日は王立学園の入学式ですよ。遅刻なされば、ヴァイオレット家の名折れになります」
わたしは手際よくカーテンを開け放った。
強烈な朝日が部屋に満ちる。
カイル様はうめき声を上げながら、しぶしぶ起き上がった。
「お前は本当に可愛げがないな、リアン。もっと優しく起こせないのか」
「優しく起こして二度寝をされたら、困るのはカイル様ご自身です」
淡々と答えながら、わたしは用意しておいた制服を手に取る。
王立学園の制服は、深い紺色を基調とした洗練されたデザインだった。
金色の刺繍が施されたジャケットは、貴族の威厳を示しているようでもあり、同時に生徒たちを縛る鎖のようにも見えた。
着替えを手伝いながら、わたしはカイル様の顔色をうかがう。
今のところ、機嫌はそこまで悪くないようだ。
『この調子なら、今日の入学式も無事に乗り切れるか?』
甘かった。
その考えが、いかに楽観的であったかを、わたしは数時間後に思い知ることになる。
王立学園には、魔物が住んでいる。
いや、魔物よりも恐ろしい存在が。
それは、この世界の絶対的な捕食者であるアルファたち。
その頂点に君臨する、あの男との出会いが待っていたのだ。
ネクタイを結び終えたわたしは、一歩下がって頭を下げた。
「完璧です、カイル様。誰よりも輝いておいでです」
「ふん、当然だ。僕は選ばれた人間だからな」
鼻を鳴らすカイル様の後ろ姿を見送りながら、わたしはこっそりと胃のあたりを押さえた。
キリキリと痛む。
これがストレスなのか、それとも抑制薬の副作用なのか。
どちらにせよ、わたしの前途は多難だ。
それでも生き残るために、わたしはこの泥沼のような貴族社会を、偽りの仮面を被って泳ぎ切らなければならない。
たとえそれが、薄氷の上を歩くような行為だとしても。
わたしは自分の顔をまじまじと見つめ、頬をつねり、そして大きくため息をついた。
痛覚がある。
夢ではない。
この世界は、前世でわたしがプレイしていたボーイズラブ要素を含む乙女ゲーム『銀の聖騎士と薔薇の誓い』の中だ。
そしてわたしは、主人公でも攻略対象でもなく、悪役令嬢ならぬ悪役令息の取り巻きですらない、ただの従者Aこと、リアン・キャンベルになっていた。
『嘘だろ……』
心の声が漏れそうになるのを必死で飲み込む。
洗面台の縁を掴む指先が白くなるほど力を込めた。
記憶が戻ったのは今朝のことだ。
高熱にうなされ、死ぬかと思った瞬間に、前世の記憶が雪崩のように押し寄せてきたのだ。
ブラック企業で働き詰めだった前世。
唯一の癒やしが、寝る前に少しずつ進めていたこのゲームだった。
王道ファンタジーの世界観に、近年流行のオメガバース設定を組み込んだ意欲作。
支配的な性であるアルファ、一般的なベータ、そして希少で被支配的なオメガ。
この三つの性が織りなす重厚な人間ドラマと、甘く激しい恋愛模様が売りだったはずだ。
だが、問題はそこではない。
わたし、リアン・キャンベルの設定だ。
『なんでオメガなんだよ!』
そう、このリアンというキャラクター、ゲーム本編には名前すら出てこないモブなのだが、裏設定が存在した。
公式ファンブックの片隅に書かれていた「没設定」だ。
悪役令息カイルの従者でありながら、実は身分を偽ったオメガであり、カイルの破滅とともに人身売買ルートへ売り飛ばされるという、あまりにも救いのない結末を迎えるキャラクター。
それがわたしだ。
冷や汗が背中を伝う。
この世界において、後ろ盾のない平民のオメガがどういう扱いを受けるか、わたしはゲームの知識として知っている。
アルファの慰み者にされるか、子供を産むための道具として扱われるか。
どちらにせよ、人間としての尊厳はそこにはない。
『冗談じゃない。二度目の人生くらい、平穏無事に生かせてくれ』
わたしは震える手で、洗面台の棚を開けた。
そこには見慣れない小瓶が入っている。
ラベルには『抑制薬・ベータ偽装用』と記されていた。
どうやら覚醒前のリアンも、自分の身を守るために必死だったらしい。
わたしは小瓶から錠剤を一粒取り出し、水なしでのみ込んだ。
喉の奥に苦い味が広がる。
これがわたしの命綱だ。
この薬を飲み続けている限り、わたしはベータとして認識される。
フェロモンも抑制され、発情期であるヒートも来ない。
ただ、副作用として魔法の使用時に制御が難しくなるという欠点があるらしいが、背に腹は代えられない。
『目標は一つ。カイル様の破滅フラグをへし折り、学園を無事に卒業すること。そして田舎に引っ込んで、誰にも見つからないように農業でもして暮らすんだ』
決意を固め、わたしは顔を洗った。
冷たい水が火照った肌を引き締める。
タオルで顔を拭き、深呼吸を一つ。
鏡の中の自分に向かって、わたしは力強くつぶやいた。
「よし、行こう。今日も完璧なモブ従者を演じ切るんだ」
ドアを開けると、朝の光が廊下に差し込んでいた。
カイル・ヴァイオレットの屋敷は無駄に豪華で、廊下ひとつとっても庶民の家が一軒建つほどの広さがある。
わたしは足音を忍ばせ、主人の部屋へと向かった。
カイル様は典型的なわがままお坊ちゃんだ。
朝の支度が少しでも遅れれば、ヒステリックに叫び散らす。
ゲームでは、その傲慢さが災いして王太子殿下の不興を買い、最終的には家ごと取り潰しになるのだが、今のわたしには彼のご機嫌を取ることが最優先事項だ。
「カイル様、朝でございます。お目覚めの時間です」
ノックをして部屋に入ると、豪奢な天蓋付きベッドの中で、栗色の髪をした青年が不機嫌そうに身じろぎした。
布団を頭までかぶり、拒絶の意思を示している。
「……うるさい。あと五分」
「五分後には朝食の時間です。本日は王立学園の入学式ですよ。遅刻なされば、ヴァイオレット家の名折れになります」
わたしは手際よくカーテンを開け放った。
強烈な朝日が部屋に満ちる。
カイル様はうめき声を上げながら、しぶしぶ起き上がった。
「お前は本当に可愛げがないな、リアン。もっと優しく起こせないのか」
「優しく起こして二度寝をされたら、困るのはカイル様ご自身です」
淡々と答えながら、わたしは用意しておいた制服を手に取る。
王立学園の制服は、深い紺色を基調とした洗練されたデザインだった。
金色の刺繍が施されたジャケットは、貴族の威厳を示しているようでもあり、同時に生徒たちを縛る鎖のようにも見えた。
着替えを手伝いながら、わたしはカイル様の顔色をうかがう。
今のところ、機嫌はそこまで悪くないようだ。
『この調子なら、今日の入学式も無事に乗り切れるか?』
甘かった。
その考えが、いかに楽観的であったかを、わたしは数時間後に思い知ることになる。
王立学園には、魔物が住んでいる。
いや、魔物よりも恐ろしい存在が。
それは、この世界の絶対的な捕食者であるアルファたち。
その頂点に君臨する、あの男との出会いが待っていたのだ。
ネクタイを結び終えたわたしは、一歩下がって頭を下げた。
「完璧です、カイル様。誰よりも輝いておいでです」
「ふん、当然だ。僕は選ばれた人間だからな」
鼻を鳴らすカイル様の後ろ姿を見送りながら、わたしはこっそりと胃のあたりを押さえた。
キリキリと痛む。
これがストレスなのか、それとも抑制薬の副作用なのか。
どちらにせよ、わたしの前途は多難だ。
それでも生き残るために、わたしはこの泥沼のような貴族社会を、偽りの仮面を被って泳ぎ切らなければならない。
たとえそれが、薄氷の上を歩くような行為だとしても。
227
あなたにおすすめの小説
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
呪われた辺境伯は、異世界転生者を手放さない
波崎 亨璃
BL
ーーー呪われた辺境伯に捕まったのは、俺の方だった。
異世界に迷い込んだ駆真は「呪われた辺境伯」と呼ばれるレオニスの領地に落ちてしまう。
強すぎる魔力のせいで、人を近づけることができないレオニス。
彼に触れれば衰弱し、最悪の場合、命を落とす。
しかしカルマだけはなぜかその影響を一切受けなかった。その事実に気づいたレオニスは次第にカルマを手放さなくなっていく。
「俺に触れられるのは、お前だけだ」
呪いよりも重い執着と孤独から始まる、救済BL。
となります。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学時代後輩から逃げたのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
妖精です、囲われてます
うあゆ
BL
僕は妖精
森で気ままに暮らしていました。
ふと気づいたら人間に囲まれてました。
でもこの人間のそばはとても心地いいし、森に帰るタイミング見つからないなぁ、なんて思いながらダラダラ暮らしてます。
__________
妖精の前だけはドロ甘の冷徹公爵×引きこもり妖精
なんやかんやお互い幸せに暮らします。
記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています
たら昆布
BL
処刑寸前のスパイが事故にあった後、記憶喪失のフリをして皇帝の婚約者だと偽る話
オメガだと隠して魔王討伐隊に入ったら、最強アルファ達に溺愛されています
水凪しおん
BL
前世は、どこにでもいる普通の大学生だった。車に轢かれ、次に目覚めた時、俺はミルクティー色の髪を持つ少年『サナ』として、剣と魔法の異世界にいた。
そこで知らされたのは、衝撃の事実。この世界には男女の他に『アルファ』『ベータ』『オメガ』という第二の性が存在し、俺はその中で最も希少で、男性でありながら子を宿すことができる『オメガ』だという。
アルファに守られ、番になるのが幸せ? そんな決められた道は歩きたくない。俺は、俺自身の力で生きていく。そう決意し、平凡な『ベータ』と身分を偽った俺の前に現れたのは、太陽のように眩しい聖騎士カイル。彼は俺のささやかな機転を「稀代の戦術眼」と絶賛し、半ば強引に魔王討伐隊へと引き入れた。
しかし、そこは最強のアルファたちの巣窟だった!
リーダーのカイルに加え、皮肉屋の天才魔法使いリアム、寡黙な獣人暗殺者ジン。三人の強烈なアルファフェロモンに日々当てられ、俺の身体は甘く疼き始める。
隠し通したい秘密と、抗いがたい本能。偽りのベータとして、俺はこの英雄たちの中で生き残れるのか?
これは運命に抗う一人のオメガが、本当の居場所と愛を見つけるまでの物語。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる