モブ従者はオメガを隠して平穏に暮らしたいのに!最強のアルファ王子に正体がバレて、なぜか王宮で溺愛されながら農業することになりました

水凪しおん

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第1話「覚醒と絶望の朝」

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 鏡の向こうに映る青年は、色素の薄い亜麻色の髪と、どこか頼りなげな翠色の瞳をしていた。
 わたしは自分の顔をまじまじと見つめ、頬をつねり、そして大きくため息をついた。
 痛覚がある。
 夢ではない。
 この世界は、前世でわたしがプレイしていたボーイズラブ要素を含む乙女ゲーム『銀の聖騎士と薔薇の誓い』の中だ。
 そしてわたしは、主人公でも攻略対象でもなく、悪役令嬢ならぬ悪役令息の取り巻きですらない、ただの従者Aこと、リアン・キャンベルになっていた。

『嘘だろ……』

 心の声が漏れそうになるのを必死で飲み込む。
 洗面台の縁を掴む指先が白くなるほど力を込めた。
 記憶が戻ったのは今朝のことだ。
 高熱にうなされ、死ぬかと思った瞬間に、前世の記憶が雪崩のように押し寄せてきたのだ。
 ブラック企業で働き詰めだった前世。
 唯一の癒やしが、寝る前に少しずつ進めていたこのゲームだった。
 王道ファンタジーの世界観に、近年流行のオメガバース設定を組み込んだ意欲作。
 支配的な性であるアルファ、一般的なベータ、そして希少で被支配的なオメガ。
 この三つの性が織りなす重厚な人間ドラマと、甘く激しい恋愛模様が売りだったはずだ。
 だが、問題はそこではない。
 わたし、リアン・キャンベルの設定だ。

『なんでオメガなんだよ!』

 そう、このリアンというキャラクター、ゲーム本編には名前すら出てこないモブなのだが、裏設定が存在した。
 公式ファンブックの片隅に書かれていた「没設定」だ。
 悪役令息カイルの従者でありながら、実は身分を偽ったオメガであり、カイルの破滅とともに人身売買ルートへ売り飛ばされるという、あまりにも救いのない結末を迎えるキャラクター。
 それがわたしだ。
 冷や汗が背中を伝う。
 この世界において、後ろ盾のない平民のオメガがどういう扱いを受けるか、わたしはゲームの知識として知っている。
 アルファの慰み者にされるか、子供を産むための道具として扱われるか。
 どちらにせよ、人間としての尊厳はそこにはない。

『冗談じゃない。二度目の人生くらい、平穏無事に生かせてくれ』

 わたしは震える手で、洗面台の棚を開けた。
 そこには見慣れない小瓶が入っている。
 ラベルには『抑制薬・ベータ偽装用』と記されていた。
 どうやら覚醒前のリアンも、自分の身を守るために必死だったらしい。
 わたしは小瓶から錠剤を一粒取り出し、水なしでのみ込んだ。
 喉の奥に苦い味が広がる。
 これがわたしの命綱だ。
 この薬を飲み続けている限り、わたしはベータとして認識される。
 フェロモンも抑制され、発情期であるヒートも来ない。
 ただ、副作用として魔法の使用時に制御が難しくなるという欠点があるらしいが、背に腹は代えられない。

『目標は一つ。カイル様の破滅フラグをへし折り、学園を無事に卒業すること。そして田舎に引っ込んで、誰にも見つからないように農業でもして暮らすんだ』

 決意を固め、わたしは顔を洗った。
 冷たい水が火照った肌を引き締める。
 タオルで顔を拭き、深呼吸を一つ。
 鏡の中の自分に向かって、わたしは力強くつぶやいた。

「よし、行こう。今日も完璧なモブ従者を演じ切るんだ」

 ドアを開けると、朝の光が廊下に差し込んでいた。
 カイル・ヴァイオレットの屋敷は無駄に豪華で、廊下ひとつとっても庶民の家が一軒建つほどの広さがある。
 わたしは足音を忍ばせ、主人の部屋へと向かった。
 カイル様は典型的なわがままお坊ちゃんだ。
 朝の支度が少しでも遅れれば、ヒステリックに叫び散らす。
 ゲームでは、その傲慢さが災いして王太子殿下の不興を買い、最終的には家ごと取り潰しになるのだが、今のわたしには彼のご機嫌を取ることが最優先事項だ。

「カイル様、朝でございます。お目覚めの時間です」

 ノックをして部屋に入ると、豪奢な天蓋付きベッドの中で、栗色の髪をした青年が不機嫌そうに身じろぎした。
 布団を頭までかぶり、拒絶の意思を示している。

「……うるさい。あと五分」

「五分後には朝食の時間です。本日は王立学園の入学式ですよ。遅刻なされば、ヴァイオレット家の名折れになります」

 わたしは手際よくカーテンを開け放った。
 強烈な朝日が部屋に満ちる。
 カイル様はうめき声を上げながら、しぶしぶ起き上がった。

「お前は本当に可愛げがないな、リアン。もっと優しく起こせないのか」

「優しく起こして二度寝をされたら、困るのはカイル様ご自身です」

 淡々と答えながら、わたしは用意しておいた制服を手に取る。
 王立学園の制服は、深い紺色を基調とした洗練されたデザインだった。
 金色の刺繍が施されたジャケットは、貴族の威厳を示しているようでもあり、同時に生徒たちを縛る鎖のようにも見えた。
 着替えを手伝いながら、わたしはカイル様の顔色をうかがう。
 今のところ、機嫌はそこまで悪くないようだ。

『この調子なら、今日の入学式も無事に乗り切れるか?』

 甘かった。
 その考えが、いかに楽観的であったかを、わたしは数時間後に思い知ることになる。
 王立学園には、魔物が住んでいる。
 いや、魔物よりも恐ろしい存在が。
 それは、この世界の絶対的な捕食者であるアルファたち。
 その頂点に君臨する、あの男との出会いが待っていたのだ。
 ネクタイを結び終えたわたしは、一歩下がって頭を下げた。

「完璧です、カイル様。誰よりも輝いておいでです」

「ふん、当然だ。僕は選ばれた人間だからな」

 鼻を鳴らすカイル様の後ろ姿を見送りながら、わたしはこっそりと胃のあたりを押さえた。
 キリキリと痛む。
 これがストレスなのか、それとも抑制薬の副作用なのか。
 どちらにせよ、わたしの前途は多難だ。
 それでも生き残るために、わたしはこの泥沼のような貴族社会を、偽りの仮面を被って泳ぎ切らなければならない。
 たとえそれが、薄氷の上を歩くような行為だとしても。
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