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第2話「零れ落ちた雫」
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学園の喧騒が嘘のように静まり返った夜。ケイトは自室を抜け出し、月明かりだけが照らす中庭を歩いていた。昼間の貴族たちの甲高い声や、見せかけだけの笑顔に疲れると、彼はこうして一人で夜の空気を吸うのが習慣になっていた。
向かった先は、学園の敷地の外れにある古い温室だ。管理が行き届いていないため、今では誰も寄り付かない場所。だが、ケイトにとっては、唯一心が安らぐ場所だった。ガラス張りの天井からは、満月がすぐそこにあるかのように大きく見え、星々の瞬きが静かに降り注いでいた。
温室の中に一歩足を踏み入れた瞬間、ケイトは息を飲んだ。
そこに、先客がいたのだ。
月の光を一身に浴び、見たこともない夜咲きの白い花の前に、セシリア・クラインフェルトが一人、静かに佇んでいた。昼間の完璧な令嬢の姿とは違う。髪はまとめられず、白いネグリジェ一枚という簡素な姿。その横顔は、張り詰めた糸が切れそうなほどに儚く、白い頬をきらきらと光る雫が伝っていた。
彼女は泣いていた。声を殺し、ただ静かに涙を流していた。その姿は、ケイトが昼間に感じた「危うさ」そのものだった。
声をかけるべきか、それとも見なかったことにして立ち去るべきか。ケイトが逡巡していると、不意に下卑た笑い声が静寂を破った。
「これはこれは、セシリア様。こんな夜更けに一人とは、寂しいのですか?」
温室の入り口に、三人の男子生徒が立っていた。いずれも見覚えのある、上級生のアルファたちだ。彼らの目は欲望に濁り、獲物を見つけた獣のように粘りつくような視線をセシリアに送っている。
セシリアの肩がびくりと震え、彼女は慌てて涙を拭った。しかし、動揺は隠せない。「ごきげんよう。私はもう戻りますので」と気丈に振る舞い、その場を去ろうとするが、男たちは道を塞ぐように立ちふさがった。
「まあ、そうおっしゃらず。我々が慰めて差し上げますよ」
「あなたのその甘い香りを、もっと近くで嗅がせてほしいものですな」
一人が彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。セシリアの顔が恐怖に引きつった。
その瞬間、ケイトは影の中から飛び出していた。
「その汚い手をどけろ」
低く、怒りを抑えた声。突然現れたケイトに、アルファたちは一瞬たじろいだが、すぐに侮蔑の笑みを浮かべた。
「なんだ、平民の特待生か。英雄気取りか?」
「身の程をわきまえろ。お前のような下賤の者が、我々に逆らうというのか!」
ケイトは何も答えなかった。ただ、冷たい瞳で彼らを睨みつけ、指先一つで風の刃を巻き起こす。それは威嚇だけの、ごく小さな魔術。しかし、あまりにも練り上げられた魔力の純度に、アルファたちの顔色が変わった。実力の差は歴然だった。
「……っ、覚えていろよ!」
捨て台詞を残し、彼らは慌てて温室から逃げ去っていった。
嵐が去った温室に、再び静寂が戻る。ケイトはセシリアの方を振り返った。
「大丈夫か?」
「あ……はい。ありがとうございます、アシュトン様」
セシリアは震える声で礼を述べ、深く頭を下げた。だが、その拍子に、彼女が強く握りしめていた小さなガラスの小瓶が手から滑り落ちた。
パリン、と硬質な音が響く。
床に散らばったガラス片から、透明な液体が流れ出し、気化していく。
次の瞬間、ケイトは呼吸を忘れた。
むせ返るほどに、甘く、濃厚な香りが温室を満たしたのだ。熟した果実のようであり、咲き誇る花々の蜜のようでもあり、それでいてどこか心を蕩かすような、抗いがたい香り。今まで嗅いだどんなオメガのフェロモンとも違う。脳の芯を直接揺さぶるような、極上の香りだった。
「あ……ぁ……」
セシリアの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。抑制剤が割れてしまったのだ。彼女の瞳は潤み、頬は熱に浮かされたように赤く染まっている。隠しようのないオメガの本能が、その華奢な身体を支配し始めていた。
ケイトもアルファの本能を強く刺激され、くらりと眩暈がした。しかし、目の前で苦しむ彼女を見て、必死で理性の綱を握りしめる。
「しっかりしろ! クラインフェルト嬢!」
意識が朦朧とし始めた彼女の身体を抱きかかえる。驚くほどに軽く、そして熱い。このままでは、他のアルファを引き寄せてしまうかもしれない。一刻も早く、安全な場所へ。
ケイトは彼女を腕に抱いたまま、自分の寮の自室へと全力で走った。誰にも見つからないように、息を潜めて。
部屋に着き、ベッドにそっと彼女を横たえる。セシリアは苦しげに喘ぎ、シーツを掻きむしっていた。熱にうなされ、呼吸が浅くなっている。せめて楽にしてやろうと、ケイトは彼女のドレスの胸元を緩めようと手をかけた。
その時、指先に硬い感触が伝わった。
ドレスの下、彼女の胸元には、分厚い晒しがきつく、何重にも巻かれていたのだ。女性特有の胸の膨らみを、無理やり押しつぶすかのように。
ケイトの頭が混乱で真っ白になる。これは一体、どういうことだ?
その時、苦しげな吐息と共に、セシリアの唇からか細い声が漏れた。
それは、ケイトが今まで聞いてきた、鈴を転がすような可憐な少女の声ではなかった。少しだけ低く、掠れた、紛れもない青年の声だった。
「お願い……誰にも、言わないで……」
その言葉を最後に、彼女――いや、彼の意識は完全に途切れた。
部屋を満たす甘い香りと、腕の中に横たわる少年の体温だけが、そこにある唯一の現実だった。
向かった先は、学園の敷地の外れにある古い温室だ。管理が行き届いていないため、今では誰も寄り付かない場所。だが、ケイトにとっては、唯一心が安らぐ場所だった。ガラス張りの天井からは、満月がすぐそこにあるかのように大きく見え、星々の瞬きが静かに降り注いでいた。
温室の中に一歩足を踏み入れた瞬間、ケイトは息を飲んだ。
そこに、先客がいたのだ。
月の光を一身に浴び、見たこともない夜咲きの白い花の前に、セシリア・クラインフェルトが一人、静かに佇んでいた。昼間の完璧な令嬢の姿とは違う。髪はまとめられず、白いネグリジェ一枚という簡素な姿。その横顔は、張り詰めた糸が切れそうなほどに儚く、白い頬をきらきらと光る雫が伝っていた。
彼女は泣いていた。声を殺し、ただ静かに涙を流していた。その姿は、ケイトが昼間に感じた「危うさ」そのものだった。
声をかけるべきか、それとも見なかったことにして立ち去るべきか。ケイトが逡巡していると、不意に下卑た笑い声が静寂を破った。
「これはこれは、セシリア様。こんな夜更けに一人とは、寂しいのですか?」
温室の入り口に、三人の男子生徒が立っていた。いずれも見覚えのある、上級生のアルファたちだ。彼らの目は欲望に濁り、獲物を見つけた獣のように粘りつくような視線をセシリアに送っている。
セシリアの肩がびくりと震え、彼女は慌てて涙を拭った。しかし、動揺は隠せない。「ごきげんよう。私はもう戻りますので」と気丈に振る舞い、その場を去ろうとするが、男たちは道を塞ぐように立ちふさがった。
「まあ、そうおっしゃらず。我々が慰めて差し上げますよ」
「あなたのその甘い香りを、もっと近くで嗅がせてほしいものですな」
一人が彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。セシリアの顔が恐怖に引きつった。
その瞬間、ケイトは影の中から飛び出していた。
「その汚い手をどけろ」
低く、怒りを抑えた声。突然現れたケイトに、アルファたちは一瞬たじろいだが、すぐに侮蔑の笑みを浮かべた。
「なんだ、平民の特待生か。英雄気取りか?」
「身の程をわきまえろ。お前のような下賤の者が、我々に逆らうというのか!」
ケイトは何も答えなかった。ただ、冷たい瞳で彼らを睨みつけ、指先一つで風の刃を巻き起こす。それは威嚇だけの、ごく小さな魔術。しかし、あまりにも練り上げられた魔力の純度に、アルファたちの顔色が変わった。実力の差は歴然だった。
「……っ、覚えていろよ!」
捨て台詞を残し、彼らは慌てて温室から逃げ去っていった。
嵐が去った温室に、再び静寂が戻る。ケイトはセシリアの方を振り返った。
「大丈夫か?」
「あ……はい。ありがとうございます、アシュトン様」
セシリアは震える声で礼を述べ、深く頭を下げた。だが、その拍子に、彼女が強く握りしめていた小さなガラスの小瓶が手から滑り落ちた。
パリン、と硬質な音が響く。
床に散らばったガラス片から、透明な液体が流れ出し、気化していく。
次の瞬間、ケイトは呼吸を忘れた。
むせ返るほどに、甘く、濃厚な香りが温室を満たしたのだ。熟した果実のようであり、咲き誇る花々の蜜のようでもあり、それでいてどこか心を蕩かすような、抗いがたい香り。今まで嗅いだどんなオメガのフェロモンとも違う。脳の芯を直接揺さぶるような、極上の香りだった。
「あ……ぁ……」
セシリアの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。抑制剤が割れてしまったのだ。彼女の瞳は潤み、頬は熱に浮かされたように赤く染まっている。隠しようのないオメガの本能が、その華奢な身体を支配し始めていた。
ケイトもアルファの本能を強く刺激され、くらりと眩暈がした。しかし、目の前で苦しむ彼女を見て、必死で理性の綱を握りしめる。
「しっかりしろ! クラインフェルト嬢!」
意識が朦朧とし始めた彼女の身体を抱きかかえる。驚くほどに軽く、そして熱い。このままでは、他のアルファを引き寄せてしまうかもしれない。一刻も早く、安全な場所へ。
ケイトは彼女を腕に抱いたまま、自分の寮の自室へと全力で走った。誰にも見つからないように、息を潜めて。
部屋に着き、ベッドにそっと彼女を横たえる。セシリアは苦しげに喘ぎ、シーツを掻きむしっていた。熱にうなされ、呼吸が浅くなっている。せめて楽にしてやろうと、ケイトは彼女のドレスの胸元を緩めようと手をかけた。
その時、指先に硬い感触が伝わった。
ドレスの下、彼女の胸元には、分厚い晒しがきつく、何重にも巻かれていたのだ。女性特有の胸の膨らみを、無理やり押しつぶすかのように。
ケイトの頭が混乱で真っ白になる。これは一体、どういうことだ?
その時、苦しげな吐息と共に、セシリアの唇からか細い声が漏れた。
それは、ケイトが今まで聞いてきた、鈴を転がすような可憐な少女の声ではなかった。少しだけ低く、掠れた、紛れもない青年の声だった。
「お願い……誰にも、言わないで……」
その言葉を最後に、彼女――いや、彼の意識は完全に途切れた。
部屋を満たす甘い香りと、腕の中に横たわる少年の体温だけが、そこにある唯一の現実だった。
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