偽りの令嬢を演じるオメガ(♂)を救うため、平民アルファの俺が傲慢な大公爵家に喧嘩を売って、二人で自由を掴み取る物語

水凪しおん

文字の大きさ
10 / 11

番外編「ありふれた食卓」

しおりを挟む
 港町アクアリアでの暮らしにも、少しずつ慣れてきたある日の夕暮れ。ケイトは「仕事」と称して出かけていた街のギルドから、上機嫌で二人が暮らす小さな家に帰ってきた。その手には、見たこともない奇妙な形をしたハーブの束が握られていた。
「セシル、ただいま! 見ろよこれ、西の果てから来た珍しいハーブだってさ。シチューに入れたら絶対美味いって、ギルドの親父が言ってた!」
「おかえり、ケイト。ふふ、本当? すごくいい香りだね。じゃあ、今夜は試してみようか」
 キッチンでは、セシルがエプロンをかけ、夕食の準備をしているところだった。市場で買ったばかりの新鮮な魚と、色とりどりの野菜がテーブルの上に並んでいる。学園にいた頃、豪華な食事を前にしても全く食が進まなかった彼が、今ではこうして自分の手で料理をし、それを「美味しい」と言ってくれる人がいる日常を、心から楽しんでいた。
 二人は狭いキッチンに並んで立ち、一緒に料理を始めた。ケイトが少し乱暴に野菜の皮をむき、セシルがそれを苦笑しながら手直しする。ケイトが味見をしては「うまい!」と騒ぎ、セシルが「まだ煮込んでる途中だよ」と笑う。
 それは、貴族の令嬢を演じていた頃には想像もできなかった、温かく、光に満ちた、ありふれた幸せの光景だった。
 やがて、ハーブの香りが食欲をそそる特製のシチューが完成し、二人は小さなテーブルに向かい合って座った。
「いただきます」
「いただきます」
 熱々のシチューを口に運び、二人は顔を見合わせて微笑んだ。特別に豪華なわけではない。それでも、世界で一番美味しい食事だと、心からそう思えた。
 食事の後、二人は暖炉の前に置かれた古いソファに寄り添って座り、揺れる炎を眺めていた。ケイトは、すっかり自分の身体に馴染んだセシルの肩を抱き、その柔らかな髪を優しく撫でる。
「……幸せだな」
 ケイトがぽつりと呟くと、セシルは彼の胸にこてんと頭を預けた。
「うん。僕も、今が一番幸せだよ」
 その穏やかな時間は、しかし、予期せぬ形で変化を迎えた。セシルの身体が、突然びくりと震えたのだ。そして、彼の身体から、ふわりと甘い香りが漂い始めた。それは、あの夜、温室で感じた香りよりもさらに濃密で、抗い難いフェロモンだった。
「……ぁ、けい、と……なんだか、からだが、あつ……」
 セシルの瞳が潤み、呼吸が荒くなる。初めて経験する、本格的な発情期(ヒート)。抑制剤に頼らず、ありのままのオメガとして生きることを選んだ彼に、当然訪れるべき体の変化だった。
 ケイトはゴクリと喉を鳴らした。アルファの本能が、目の前の番(つがい)を求めろと激しく叫んでいる。だが彼は、戸惑いと不安に揺れるセシルの顔を見て、必死に理性を保った。
「大丈夫だ、セシル。俺がいる」
 ケイトは彼を優しく横抱きにすると、寝室のベッドへと運んだ。甘いフェロモンが部屋中に満たされ、二人の理性を溶かしていく。
「怖いか?」
 ベッドの上で、ケイトは熱に浮かされたセシルの瞳を覗き込み、優しく尋ねた。セシルは、小さく首を横に振る。
「君とだから……怖くない」
 その言葉が、最後の合図だった。
 ケイトは、戸惑うセシルを優しく、そして丁寧に導いていく。何度も愛を囁き、不安を取り除くように全身に口づけを落とした。やがて、二つの身体は、互いの全てを受け入れるように、自然に、そして深く結ばれた。
 それは、ただ本能に任せただけの行為ではない。魂と魂が触れ合い、溶け合って、完全に一つになるための、神聖な儀式。
 互いの名前を呼び合い、快感と愛情の涙を流しながら、二人は夜が明けるまで何度も体を重ねた。
 もう、誰にも壊すことはできない。誰にも引き裂くことはできない。
 二人の絆は、本当の意味で「番」となったこの夜、永遠のものとなったのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *不定期連載です。

追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜

あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。 行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。 異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?

禁書庫の管理人は次期宰相様のお気に入り

結衣可
BL
オルフェリス王国の王立図書館で、禁書庫を預かる司書カミル・ローレンは、過去の傷を抱え、静かな孤独の中で生きていた。 そこへ次期宰相と目される若き貴族、セドリック・ヴァレンティスが訪れ、知識を求める名目で彼のもとに通い始める。 冷静で無表情なカミルに興味を惹かれたセドリックは、やがて彼の心の奥にある痛みに気づいていく。 愛されることへの恐れに縛られていたカミルは、彼の真っ直ぐな想いに少しずつ心を開き、初めて“痛みではない愛”を知る。 禁書庫という静寂の中で、カミルの孤独を、過去を癒し、共に歩む未来を誓う。

【完結】巷で噂の国宝級イケメンの辺境伯は冷徹なので、まっっったくモテませんが、この度婚約者ができました。

明太子
BL
オーディスは国宝級イケメンであるにも関わらず、冷徹な性格のせいで婚約破棄されてばかり。 新たな婚約者を探していたところ、パーティーで給仕をしていた貧乏貴族の次男セシルと出会い、一目惚れしてしまう。 しかし、恋愛偏差値がほぼ0のオーディスのアプローチは空回りするわ、前婚約者のフランチェスカの邪魔が入るわとセシルとの距離は縮まったり遠ざかったり…? 冷徹だったはずなのに溺愛まっしぐらのオーディスと元気だけどおっちょこちょいなセシルのドタバタラブコメです。

沈黙のΩ、冷血宰相に拾われて溺愛されました

ホワイトヴァイス
BL
声を奪われ、競売にかけられたΩ《オメガ》――ノア。 落札したのは、冷血と呼ばれる宰相アルマン・ヴァルナティス。 “番契約”を偽装した取引から始まったふたりの関係は、 やがて国を揺るがす“真実”へとつながっていく。 喋れぬΩと、血を信じない宰相。 ただの契約だったはずの絆が、 互いの傷と孤独を少しずつ融かしていく。 だが、王都の夜に潜む副宰相ルシアンの影が、 彼らの「嘘」を暴こうとしていた――。 沈黙が祈りに変わるとき、 血の支配が終わりを告げ、 “番”の意味が書き換えられる。 冷血宰相×沈黙のΩ、 偽りの契約から始まる救済と革命の物語。

勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される

八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。 蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。 リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。 ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい…… スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)

処理中です...