捨てられた花屋のオメガは、雨の日に現れたスパダリ社長に溺愛される~抑制剤をやめたら、運命の番に捕まりました~

水凪しおん

文字の大きさ
2 / 16

第1話「紫陽花の咲く片隅で」

しおりを挟む
 湿ったアスファルトの匂いが、開け放った店のドアから流れ込んでくる。梅雨時の重たい空気は、ガラスケースに並んだ花々の甘い香りと混じり合い、独特の気怠さを生んでいた。
 俺、藍沢湊は、カウンターの奥で黙々と紫陽花の葉を剪定していた。客のいない午後の時間は、いつもこうして過ぎていく。

『フルール・リリエン』。
 この小さな花屋が、今の俺の世界の全てだ。
 色とりどりの花に囲まれ、土の匂いを嗅いでいる時だけ、俺は自分がただの「藍沢湊」でいられる気がした。オメガであることも、あの忌まわしい過去も、ほんの少しだけ忘れられる。

 チリン、とドアベルが鳴った。顔を上げると、上質なスーツに身を包んだ男が立っていた。梅雨空をそのまま閉じ込めたような、静かな灰色の瞳。整いすぎた顔立ちは、まるで作り物のようだと思った。
 こんな場違いな高級スーツの客は珍しい。

「いらっしゃいませ」

 感情を乗せない、いつもの声で告げる。男は店内をゆっくりと見渡すと、まっすぐにこちらへ歩いてきた。一歩近づくごとに、空気が張り詰めていくのを感じる。アルファだ。それも、相当に格の高い。

 抑制剤は飲んでいる。だが、本能が警鐘を鳴らしていた。逃げろ、と。
 指先が微かに震えるのを、固く握りしめて隠した。

「贈り物用の花束を。落ち着いた雰囲気で、あまり派手ではないものを」

 低く、よく通る声だった。落ち着いているのに、不思議な圧がある。俺は頷き、花を選ぶためにガラスケースへと向かった。
 彼の視線が、ずっと背中に突き刺さっている。息が詰まりそうだ。

 デルフィニウムの青、トルコキキョウの紫、そして白いカラー。雨の日の静けさをイメージして、手早く束ねていく。花の茎を切りそろえるカッターの音が、やけに大きく店内に響いた。

『お前みたいな出来損ないのオメガ、うちの家に入る資格なんてない』

 不意に、脳裏であの声が蘇る。蔑むような目。一方的に番の関係を破棄された、あの日の絶望。
 カッターを持つ手に力が入りすぎた。指先に、ぷつりと赤い玉が浮かぶ。

「あっ……」

 慌てて指を隠したが、遅かった。男の灰色の瞳が、俺の指先を捉えている。

「大丈夫ですか」

「いえ、平気です。よくあることなので」

 愛想笑いすら浮かべられない。早くこの場から立ち去ってほしかった。ラッピングを済ませ、震える手で花束を差し出す。

「……とても、いい」

 男は花束を受け取ると、ふっと息をのむようにつぶやいた。その視線は花束ではなく、俺に向けられている気がした。

「あなたのようです」

「え?」

「この花、あなたに似ている。静かで、凛としていて……どこか儚い」

 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。何を言っているんだ、この男は。
 アルファ特有の、心の中を見透かすような言葉。俺は顔を伏せた。

「お会計、5000円になります」

 事務的に告げると、男は黒いレザーの財布からカードを取り出した。その指先が、会計の際に俺の指に触れる。びくりと肩が跳ねた。触れた箇所から、熱が伝わってくるようだ。

「また来ます」

 カードを受け取り、男はそう言い残して店を出ていった。
 ドアベルの音が遠ざかると同時に、俺はその場にへたり込んだ。全身から力が抜けていく。

『抑制剤、ちゃんと効いてるよな……?』

 フェロモンは漏れていないはずだ。それなのに、あのアルファの存在感は、俺の奥底に眠るオメガの本能を無理やり揺さぶってくる。
 あの静かな瞳。低い声。そして、俺に似ていると言った、あの花束。

 もう二度と、アルファとなんて関わらない。
 運命だとか、番だとか、そんなものに騙されない。
 そう固く誓ったはずなのに。

 店の窓から外を見ると、雨がまた降り始めていた。ガラス窓を伝う雨粒が、まるで泣いているように見えた。
 俺は、切った指先をぎゅっと握りしめる。痛みだけが、今の俺がここにいる唯一の証だった。あの男が残していった、深く落ち着いた森のような香りが、まだ店内に漂っている気がして、俺は息を詰めた。
 明日から、どうしよう。
 ただ、明日もまた、いつもと同じ日が来ることだけを願っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】精霊に選ばれなかった私は…

まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。 しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。 選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。 選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。 貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…? ☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

処理中です...