捨てられた花屋のオメガは、雨の日に現れたスパダリ社長に溺愛される~抑制剤をやめたら、運命の番に捕まりました~

水凪しおん

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第2話「招かれざる客の香り」

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 翌日、俺はいつもより早く店に来て、換気扇を最大にして回した。昨日のアルファが残した香りを、少しでも追い出したかったからだ。深い森のような、落ち着いた香り。それは俺がずっと昔に憧れた、理想のアルファの香りに少しだけ似ていて、だからこそ腹立たしかった。

『もう来ないだろう』

 気まぐれで立ち寄っただけだ。そう自分に言い聞かせ、開店準備を進める。だが、心のどこかで、あのドアベルが鳴るのを待っている自分もいた。矛盾した感情に吐き気がする。

 午後になり、雨足が強くなってきた頃。
 チリン、と澄んだ音が鳴った。
 恐る恐る顔を上げると、昨日と同じスーツ姿の男が立っていた。手には黒い傘。雨の雫を丁寧に払いながら、静かに店内に入ってくる。

「こんにちは」

 昨日と同じ、低く落ち着いた声。心臓が大きく脈打った。
 なんで、また来たんだ。

「……いらっしゃいませ」

 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
 男はカウンターに近づくと、小さな鉢植えを指差した。テーブルヤシだ。

「これを一つ」

「……はい」

 言われるがままにレジを打つ。昨日と同じように、彼はカードで支払った。また指先が触れ合いそうになり、俺は咄嗟に手を引っこめた。不自然な動きだっただろう。でも、もう触れられたくなかった。

 男はそんな俺の様子に気づいたのか、何も言わず、静かにカードを受け取った。

「あの……」

 店を出ていこうとする男の背中に、俺は思わず声をかけていた。自分でもどうかしていると思う。関わりたくないはずなのに。

「どうして、また来たんですか」

 男はゆっくりと振り返る。その灰色の瞳が、まっすぐに俺を射抜いた。

「ここの花が、気に入ったので」

 嘘だ、と思った。彼の視線は、花には向いていない。ずっと、俺だけを見ている。

「俺は、橘蓮と言います」

 突然の自己紹介に、俺は戸惑う。名乗る義理などないはずだ。

「あなたは?」

「……」

 答えたくなかった。名前を知られれば、関係ができてしまう。これ以上、このアルファと関わるのは危険だ。本能がそう告げている。

 俺が黙っていると、蓮と名乗った男は少しだけ寂しそうに目を伏せた。

「無理にとは言いません。でも、また来てもいいですか」

「お客さんを拒む権利は、俺にはありませんから」

 突き放すような、冷たい言い方。自分でも嫌になる。でも、こうするしかなかった。俺の心を守るためには。

 男……蓮は、それ以上何も言わず、軽く会釈して店を出ていった。
 ドアが閉まった瞬間、俺はまたその場に座り込んだ。呼吸が浅くなっている。

『なんでだ……』

 他のアルファの客なら、ここまで動揺しない。抑制剤のおかげで、フェロモンに当てられることもほとんどない。
 なのに、橘蓮という男だけは違う。彼の存在そのものが、俺の身体の奥深くをざわつかせる。

 その日を境に、橘蓮は本当に毎日店に現れるようになった。
 日中は仕事で来られないのか、決まって閉店間際の、客足が途絶えた時間帯にやってくる。そして、何か一つ、小さな花や鉢植えを買っていくのだ。

 彼は余計なことは話さない。ただ、花を選ぶ間、静かに俺の仕事ぶりを眺めている。その視線が痛いほどに突き刺さる。
 三日目、彼は言った。

「昨日のガーベラ、会社の受付に飾ったら、雰囲気が明るくなったと評判でした」

「……それは、よかったです」

 五日目、彼は尋ねた。

「あなたは、どんな花が好きなんですか」

「……特に、ありません。仕事ですから」

 嘘だ。俺は、雨に濡れる紫陽花が好きだ。けれど、そんな個人的なことを、このアルファに知られたくなかった。

 一週間が経った頃には、彼の存在は俺の日常の一部になりつつあった。毎日、あの時間が近づくと、落ち着かなくなる。ドアベルの音に、心臓が跳ねる。
 彼が店にいるわずかな時間、店内の空気は彼のフェロモンで満たされる。深い森の香り。それはもう、俺にとって警戒すべき匂いではなく、どこか心を落ち着かせるものに変わりつつあった。

 その変化が、何より恐ろしかった。
 絆されかけている。アルファの優しさに、また騙されようとしている。

『ダメだ、思い出せ』

 俺は自分に鞭打つ。灰都に裏切られたあの日のことを。信じれば信じるほど、失った時の痛みは大きくなる。もう、あんな思いはしたくない。

 その夜、俺は薬箱から抑制剤のシートを取り出した。いつもは一日一錠。それを、二錠、口の中に放り込んだ。水でのみ下すと、強い苦味が広がった。
 これでいい。これで、俺の心も身体も、何も感じなくなる。

 橘蓮という男がもたらす、小さな波紋。それを無理やり押さえつけるように、俺は目を閉じた。
 彼の灰色の瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
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