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第01話「確率ゼロの再会」
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「夏目社長、お久しぶりです」
静かな声が、淀んだ会議室の空気を震わせた。
夏目慎一は、重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。目の前には、見慣れない青年が一人、涼やかな表情で立っている。仕立ての良いグレーのスーツが、彼の知的な雰囲気を際立たせていた。
どこかで会ったことがあるような、ないような。霞がかった記憶の海を探るが、答えは見つからない。
「……どちら様でしたっけ?」
絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。連日の資金繰りと業績不振の報告で、心身ともに限界だった。
創業十年目を迎えた自らの会社、株式会社ネクストリープは、今、静かに沈みゆく船のようだった。情熱と勢いだけで駆け抜けてきた十年。だが、時代の波はあまりに速く、かつてブルーオーシャンだと信じた海は、今や競合という名の鮫がひしめくレッドオーシャンへと変貌していた。
「大学の一学年後輩でした。冬月理人です」
青年――冬月理人は、感情の読めない声で名乗った。その名前に、慎一の記憶の扉がようやく開く。
そうだ、いた。いつも研究室の隅で分厚い専門書を読んでいた、天才と噂された後輩。ほとんど話した記憶はないが、その鋭い眼光だけはなぜか鮮明に覚えていた。
「ああ、冬月くんか。すまんな、思い出せんかった。それで、今日はどうしたん? OB訪問には少し歳を取りすぎてるやろ」
少しだけ気安い口調で、慎一は努めて明るく言った。
だが、理人の表情は変わらない。彼は手にしていたタブレットのスリープを解除すると、無機質な動作で慎一の前に差し出した。画面には、複雑なグラフや数値がびっしりと並んでいる。
「単刀直入に言います。あなたの会社、株式会社ネクストリープは、このままいけば三年以内に倒産します。確率にして九十七パーセントです」
氷のように冷たい宣告だった。
慎一の全身から、すっと血の気が引いていく。冗談かと思ったが、理人の目は真剣そのものだった。怒りがこみ上げるよりも先に、体の芯が凍るような感覚に襲われる。
九十七パーセント。その数字が、ずしりと肩にのしかかった。
「……なんやて? ほとんど話したこともない後輩に、いきなり失礼なこと言うなや」
腹の底から湧き上がる怒りを抑えつけ、慎一は低い声で返した。
だが、理人は意にも介さない。タブレットの画面をスワイプし、別のグラフを提示する。
「これは、貴社の顧客維持率と新規顧客獲得数の推移を、競合他社のデータと比較した回帰分析の結果です。見ての通り、顧客離れは加速し、新規獲得数は二年前にピークアウトしている。この相関関係から導き出される未来予測は、極めて悲観的です。あなたの直感や経験則は、もはや市場の変化に対応できていません」
淡々と、しかし容赦なく突きつけられる事実。それは、慎一が心のどこかで気づいていながら、目を背けてきた現実そのものだった。社員の前では「大丈夫だ」「これからが勝負だ」と鼓舞し続けてきたが、一人になれば、沈みゆく船の船長としての孤独と恐怖に苛まれていた。
理人の言葉は、その傷口に塩を塗り込むような行為だ。だが、不思議と憎しみは湧いてこなかった。彼の示すデータがあまりにも雄弁だったからだ。
「……何が言いたいんや」
慎一がかろうじてそれだけを口にすると、理人は初めて表情をわずかに緩めた。それは笑みと呼ぶにはあまりに微かで、無機質なものだったが。
「ですが、まだ打つ手はあります」
彼はそう言って、指で画面をタップした。画面には、今までとは違うシンプルな単語がいくつか表示される。
「『行動経済学』。これを使えば、この状況は打開できます」
「行動経済学?」
聞いたことのない言葉に、慎一は眉をひそめる。経済学と名前がつくからには、また難しい理論の話だろう。数字アレルギーの慎一にとっては、それだけで頭痛がしそうだった。
「人間は、常に合理的に判断する生き物ではありません。むしろ、感情や思い込み、その場の雰囲気で不合理な選択をしてしまうことの方が多い。その人間の心理的なクセ、いわゆる『認知バイアス』を理解し、ビジネスに応用するのが行動経済学です。例えば……」
理人はすらすらと説明を続ける。その口調は、まるで大学の講義のようだった。
「人は何かを得る喜びよりも、失う痛みの方を二倍以上強く感じる、という性質があります。これを『プロスペクト理論』の損失回避性と呼びます。今の貴社の顧客は、サービスを使い続けるメリットよりも、解約して失うものを恐れて惰性で契約している層が多い。しかし、競合がより魅力的な『損失回避』の選択肢を提示すれば、彼らは一斉に流れていくでしょう」
理人の説明は難解なようでいて、不思議とすんなり頭に入ってきた。それは彼の言葉が、慎一が肌で感じてきた顧客の動きと一致していたからだろう。
慎一は机に肘をつき、深くため息をついた。目の前の後輩は、会って数十分でこの会社の病巣を的確に見抜き、診断を下している。プライドはズタズタだった。だが、それ以上に藁にもすがる思いが勝っていた。
「……君を信じると、どうなるんや」
「倒産確率を、限りなくゼロに近づけることができます。もちろん、私の提案を実行するという条件付きですが」
理人は自信に満ちた声で言い切った。その揺るぎない態度に、慎一の中の何かが動いた。もう、自分の直感だけでは戦えない。それはここ数ヶ月で嫌というほど思い知らされたことだ。ならば、この天才の頭脳に賭けてみるしかないのではないか。
「わかった。君を、コンサルタントとして雇う」
慎一の決断に、理人は小さくうなずいた。感情を見せない理人の横顔に、ほんの一瞬、安堵の色がよぎったのを慎一は見逃さなかった。
「契約は成果報酬で結構です。ただし、私には全権限を与えていただきます。あなたのこれまでのやり方は、一度すべて捨てていただくことになりますが、よろしいですね?」
「……ああ、ええよ。好きにやったらええ」
慎一は差し出された理人の手を、力強く握り返した。理人の手は、見た目の華奢な印象とは裏腹に、少し冷たくて硬かった。
この握手が会社の、そして自分自身の運命を大きく変えることになるなど、この時の慎一は知る由もなかった。ただ、目の前の男が持つ数字という名の羅針盤が、荒れ狂う海の中で唯一の希望のように思えたのだ。
会議室の窓から差し込む西日が、二人の影を長く、長く伸ばしていた。
静かな声が、淀んだ会議室の空気を震わせた。
夏目慎一は、重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。目の前には、見慣れない青年が一人、涼やかな表情で立っている。仕立ての良いグレーのスーツが、彼の知的な雰囲気を際立たせていた。
どこかで会ったことがあるような、ないような。霞がかった記憶の海を探るが、答えは見つからない。
「……どちら様でしたっけ?」
絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。連日の資金繰りと業績不振の報告で、心身ともに限界だった。
創業十年目を迎えた自らの会社、株式会社ネクストリープは、今、静かに沈みゆく船のようだった。情熱と勢いだけで駆け抜けてきた十年。だが、時代の波はあまりに速く、かつてブルーオーシャンだと信じた海は、今や競合という名の鮫がひしめくレッドオーシャンへと変貌していた。
「大学の一学年後輩でした。冬月理人です」
青年――冬月理人は、感情の読めない声で名乗った。その名前に、慎一の記憶の扉がようやく開く。
そうだ、いた。いつも研究室の隅で分厚い専門書を読んでいた、天才と噂された後輩。ほとんど話した記憶はないが、その鋭い眼光だけはなぜか鮮明に覚えていた。
「ああ、冬月くんか。すまんな、思い出せんかった。それで、今日はどうしたん? OB訪問には少し歳を取りすぎてるやろ」
少しだけ気安い口調で、慎一は努めて明るく言った。
だが、理人の表情は変わらない。彼は手にしていたタブレットのスリープを解除すると、無機質な動作で慎一の前に差し出した。画面には、複雑なグラフや数値がびっしりと並んでいる。
「単刀直入に言います。あなたの会社、株式会社ネクストリープは、このままいけば三年以内に倒産します。確率にして九十七パーセントです」
氷のように冷たい宣告だった。
慎一の全身から、すっと血の気が引いていく。冗談かと思ったが、理人の目は真剣そのものだった。怒りがこみ上げるよりも先に、体の芯が凍るような感覚に襲われる。
九十七パーセント。その数字が、ずしりと肩にのしかかった。
「……なんやて? ほとんど話したこともない後輩に、いきなり失礼なこと言うなや」
腹の底から湧き上がる怒りを抑えつけ、慎一は低い声で返した。
だが、理人は意にも介さない。タブレットの画面をスワイプし、別のグラフを提示する。
「これは、貴社の顧客維持率と新規顧客獲得数の推移を、競合他社のデータと比較した回帰分析の結果です。見ての通り、顧客離れは加速し、新規獲得数は二年前にピークアウトしている。この相関関係から導き出される未来予測は、極めて悲観的です。あなたの直感や経験則は、もはや市場の変化に対応できていません」
淡々と、しかし容赦なく突きつけられる事実。それは、慎一が心のどこかで気づいていながら、目を背けてきた現実そのものだった。社員の前では「大丈夫だ」「これからが勝負だ」と鼓舞し続けてきたが、一人になれば、沈みゆく船の船長としての孤独と恐怖に苛まれていた。
理人の言葉は、その傷口に塩を塗り込むような行為だ。だが、不思議と憎しみは湧いてこなかった。彼の示すデータがあまりにも雄弁だったからだ。
「……何が言いたいんや」
慎一がかろうじてそれだけを口にすると、理人は初めて表情をわずかに緩めた。それは笑みと呼ぶにはあまりに微かで、無機質なものだったが。
「ですが、まだ打つ手はあります」
彼はそう言って、指で画面をタップした。画面には、今までとは違うシンプルな単語がいくつか表示される。
「『行動経済学』。これを使えば、この状況は打開できます」
「行動経済学?」
聞いたことのない言葉に、慎一は眉をひそめる。経済学と名前がつくからには、また難しい理論の話だろう。数字アレルギーの慎一にとっては、それだけで頭痛がしそうだった。
「人間は、常に合理的に判断する生き物ではありません。むしろ、感情や思い込み、その場の雰囲気で不合理な選択をしてしまうことの方が多い。その人間の心理的なクセ、いわゆる『認知バイアス』を理解し、ビジネスに応用するのが行動経済学です。例えば……」
理人はすらすらと説明を続ける。その口調は、まるで大学の講義のようだった。
「人は何かを得る喜びよりも、失う痛みの方を二倍以上強く感じる、という性質があります。これを『プロスペクト理論』の損失回避性と呼びます。今の貴社の顧客は、サービスを使い続けるメリットよりも、解約して失うものを恐れて惰性で契約している層が多い。しかし、競合がより魅力的な『損失回避』の選択肢を提示すれば、彼らは一斉に流れていくでしょう」
理人の説明は難解なようでいて、不思議とすんなり頭に入ってきた。それは彼の言葉が、慎一が肌で感じてきた顧客の動きと一致していたからだろう。
慎一は机に肘をつき、深くため息をついた。目の前の後輩は、会って数十分でこの会社の病巣を的確に見抜き、診断を下している。プライドはズタズタだった。だが、それ以上に藁にもすがる思いが勝っていた。
「……君を信じると、どうなるんや」
「倒産確率を、限りなくゼロに近づけることができます。もちろん、私の提案を実行するという条件付きですが」
理人は自信に満ちた声で言い切った。その揺るぎない態度に、慎一の中の何かが動いた。もう、自分の直感だけでは戦えない。それはここ数ヶ月で嫌というほど思い知らされたことだ。ならば、この天才の頭脳に賭けてみるしかないのではないか。
「わかった。君を、コンサルタントとして雇う」
慎一の決断に、理人は小さくうなずいた。感情を見せない理人の横顔に、ほんの一瞬、安堵の色がよぎったのを慎一は見逃さなかった。
「契約は成果報酬で結構です。ただし、私には全権限を与えていただきます。あなたのこれまでのやり方は、一度すべて捨てていただくことになりますが、よろしいですね?」
「……ああ、ええよ。好きにやったらええ」
慎一は差し出された理人の手を、力強く握り返した。理人の手は、見た目の華奢な印象とは裏腹に、少し冷たくて硬かった。
この握手が会社の、そして自分自身の運命を大きく変えることになるなど、この時の慎一は知る由もなかった。ただ、目の前の男が持つ数字という名の羅針盤が、荒れ狂う海の中で唯一の希望のように思えたのだ。
会議室の窓から差し込む西日が、二人の影を長く、長く伸ばしていた。
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