その出会いは確率ゼロ。倒産寸前の会社を舞台に、情熱社長とクールな天才が仕掛ける、恋とビジネスの壮大な逆転劇。

水凪しおん

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第02話「不合理な心の地図」

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 翌朝、慎一は全社員を会議室に集め、冬月理人を外部コンサルタントとして紹介した。社員たちの反応は様々だった。古参の営業部長はあからさまに不快感を顔に浮かべ、若手のエンジニアたちは興味深そうに理人を観察している。無理もない。突然現れた年下のコンサルタントに、会社の命運を委ねるというのだから。

「皆さん、今日からここで働くことになった冬月理人です。専門はデータサイエンスと行動経済学。まず手始めに、皆さんの『非合理性』を可視化することから始めます」

 理人の第一声は、会議室に冷や水を浴びせるようなものだった。案の定、営業部長の田中が椅子から立ち上がった。

「非合理性、だと? 俺たちはあんたみたいに頭でっかちじゃないが、この会社のために必死で働いてきたんだ。それを捕まえて、非合理的とはどういう意味だ!」
「田中部長、落ち着いてください」

 慎一がなだめるが、田中の怒りは収まらない。他の社員たちも、不安と不満が入り混じった表情で理人を見つめている。
 理人は、そんな空気をものともせず、淡々と続けた。

「お言葉ですが田中部長、必死に働くことと合理的に働くことは、イコールではありません。むしろ、人間は頑張れば頑張るほど『サンクコスト効果』に陥りやすい。つまり、これまで費やした労力や時間、お金を惜しんで、明らかに失敗だとわかっているプロジェクトから撤退できなくなるのです」

 サンクコスト、という言葉に、何人かの社員がはっとした顔になる。ネクストリープには、まさにそんなプロジェクトがあった。数年前から多額の投資を続けているにもかかわらず、一向に芽が出ない自社開発のソフトウェアだ。誰もが「もう潮時だ」と感じていながら、社長である慎一への忖度と、これまでの苦労を無駄にしたくないという思いから、誰も中止を言い出せずにいた。

「そんなことは……」

 反論しようとした田中の言葉を遮り、理人はスクリーンに一枚のアンケート結果を映し出した。そこには、匿名で実施された社内アンケートで、例のソフトウェア開発について「中止すべき」と考えている社員が八割以上にのぼるという、衝撃的なデータが示されていた。

「これは……いつの間に」

 慎一は絶句した。理人が会社に来たのは、昨日が初めてのはずだ。

「昨夜、皆さんの過去の業務日報やチャットツールでの会話ログをテキストマイニングにかけさせていただきました。プライバシーには配慮し、あくまで特定のキーワードに対する感情値を分析したものです。結果、このプロジェクトに対するネガティブな感情が、ポジティブな感情を圧倒的に上回っていることが判明しました」

 会議室は静まり返った。誰もが、自分たちの本音を自分たち以上に正確に把握している目の前の青年に、畏怖の念を抱いていた。理人は、人を数字としてしか見ていないのではない。その数字の裏にある、人の心の動きまでをも読み解いているのだ。
 慎一は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。自分は、社長として社員の心を理解しているつもりでいた。だが、それはただの思い込みだったのかもしれない。この会社を覆っていたのは風通しの良い信頼関係ではなく、変化を恐れる「現状維持バイアス」の塊だったのだ。

「人間は、得をすることよりも損をしないことを優先する『損失回避』の傾向が強い。そして、何かを変えることで未知のリスクを負うよりも、現状のままの方が安全だと感じてしまう。これが現状維持バイアスです。この二つが組み合わさることで、組織は変化を拒み、緩やかに衰退していく。今のネクストリープは、まさにその典型的なパターンに陥っています」

 理人の指摘は、ぐうの音も出ないほど的確だった。彼は、慎一が長年かけて築き上げてきたものを、たった一日で鮮やかに解体して見せた。
 会議が終わると、慎一は理人を社長室に呼び出した。

「冬月くん。さっきの資料、見事やった。正直、へこんだけどな」

 慎一が苦笑しながら言うと、理人は無表情のままうなずいた。

「事実を述べたまでです。まずは現状認識を共有しなければ、改革は始まりません」
「それにしても、ようここまで調べたな。俺が十年かけても見えんかったもんが、君には一日で見えるんか」

 その言葉には、賞賛と、ほんの少しの嫉妬が混じっていた。慎一が人の顔色をうかがい、酒を酌み交わして築いてきた人間関係。それを、理人はデータという無機質なツールでいとも簡単に丸裸にしてしまう。
 理人は、慎一の複雑な心境を見透かしたように、静かに口を開いた。

「夏目社長。あなたが築いてきたものが無駄だったわけではありません。その証拠に、アンケートの自由記述欄には、あなたのリーダーシップを評価し、会社を愛しているという言葉が数多く見られました。だからこそ、皆、変化を恐れていたんです。あなたの期待を裏切りたくない、この居心地の良い場所を失いたくない、と」

 その言葉は、意外なほど慎一の胸に響いた。この青年は、ただ冷徹なだけではない。数字の向こう側にいる人間の感情を、確かに理解しようとしている。

「……そうか」

 慎一は椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。

「俺は、良かれと思って社員が働きやすい環境を作ってきたつもりやった。でも、それが逆にみんなを縛り付ける檻になってたのかもしれんな」
「居心地の良い環境は、時として『コンフォートゾーン』、つまり成長を妨げる安全地帯になります。そこから一歩踏み出すためには、少しだけ背中を押してあげる『ナッジ』が必要です」
「ナッジ……?」
「はい。『肘でそっと突く』という意味の言葉です。強制するのではなく、人々がより良い選択を自発的に取れるように、そっと促すアプローチのこと。これから私たちがやるべきことは、まさにそれです」

 理人はそう言うと、一枚の企画書をテーブルの上に置いた。

「まずは、手始めに。来月から発売する新サービスの価格設定を見直しましょう。ここに、最初の『ナッジ』を仕掛けます」

 企画書に書かれたタイトルは、「価格アンカリング戦略の提案」。その隣には、またしても慎一の知らない専門用語が並んでいた。
 だが、今の慎一には以前のような拒否反応はなかった。むしろ、この青年がこれからどんな魔法を見せてくれるのか、期待に胸が膨らむのを感じていた。

「わかった。やってみよう」

 慎一が力強くうなずくと、理人は初めて、ほんのわずかに口角を上げたように見えた。それはまだ、信頼とは呼べないかもしれない。だが、同じ未来を見据える共犯者としての、確かな絆の始まりを予感させた。
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