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第08話「雨音のアルゴリズム」
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慎一の腕の中で、理人の体は小さく、そして冷たく震えていた。ずぶ濡れのスーツから滴り落ちる雨水が、慎一のシャツを濡らしていく。だが、そんなことはどうでもよかった。ただ、この腕の中にいる存在が現実であることを確かめたかった。
「……離してください」
理人が、くぐもった声で言った。だが、その声に以前のような拒絶の響きはない。むしろ、戸惑いとほんの少しの安堵が混じっているように聞こえる。
慎一は、ゆっくりと腕を解いた。改めて向き合った理人の顔は、雨のせいか、それとも別の理由か、ひどく濡れていた。
「風邪、ひくぞ。とりあえず、これ着とけ」
慎一は社長室のクローゼットから予備で置いていた自分のシャツとタオルを取り出し、理人に手渡した。理人はしばらくためらった後、無言でそれを受け取り給湯室へと消えた。
着替えを終えて戻ってきた理人は、慎一の少し大きめのシャツを着ていた。その姿は、彼の年齢よりもさらに幼く見え、慎一の胸を締め付けた。
慎一は温かいコーヒーを二つ淹れ、一つを理人の前に置いた。
「……どこに行ってたんや」
慎一が尋ねると、理人はマグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと答えた。
「少し、頭を冷やしていました。それと……これを集めに」
理人は、持っていた鞄の中から一つのUSBメモリを取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは?」
「ギガ・ソリューションズが、不正な手段で顧客データを収集し、自社のAI開発に利用している証拠です。私が会社を辞めた、本当の理由です」
理人は、静かに語り始めた。
彼がギガ社に在籍していた時、社内で極秘に進められているプロジェクトの存在に気づいたという。それは、ユーザーの同意を得ずに提携先のアプリから個人情報を違法に収集し、それを分析してターゲット広告やサービス開発に悪用するという、悪質なものだった。
正義感の強い理人はその非倫理的な行為を許せず、内部告発しようとした。だが、彼の動きを察知した上層部によって、逆に企業秘密を持ち出したという濡れ衣を着せられ、会社を追い出されてしまったのだ。
「私は、無力でした。彼らの前では、一個人のデータサイエンティストなど何の力も持たなかった。だから、一度身を引いて証拠を集め、いつか彼らの不正を白日の下に晒そうと決めたんです」
「それで、うちに来たんは……」
「偶然ではありません」
理人は、はっきりとそう言った。
「ギガ社のような巨大企業と戦うには、信頼できるパートナーが必要でした。私は様々な企業の経営データを分析し、経営者を探していました。利益だけでなく確固たる倫理観を持ち、正しいやり方でビジネスを成功させようとしている人間を。……そして、あなたを見つけたんです、夏目慎一」
理人の瞳が、まっすぐに慎一を射抜く。
「あなたの経営は、データだけ見れば非効率で旧時代的かもしれない。でも、その根底には人を信じ、社会を良くしたいという純粋な思いがある。私は、それに賭けてみたかった。あなたなら、正しいやり方でギガ社を超えることができると思ったから」
すべてが、繋がった。彼がネクストリープに現れた理由、時折見せた焦りの意味、そして慎一に失望した時のあの悲しい瞳。
慎一は、言葉を失った。自分は、この青年の覚悟と信頼を無下にしてしまったのだ。彼は、ただ自分を、この会社を利用しようとしていたわけではない。共に戦うパートナーとして、選んでくれたのだ。
「……そうか。そうやったんか……」
慎一の目から、熱いものがこぼれ落ちた。それは後悔の涙であり、同時に、彼の真実を知ることができた安堵の涙でもあった。
「なんで、それを先に言うてくれへんかったんや」
「言えませんでした。確たる証拠もなしにそんなことを言えば、あなたの会社まで危険に晒すことになる。それに……あなたに、余計な重荷を背負わせたくなかった」
そう言う理人の声は、少しだけ震えていた。
「俺は君を疑った。最低や……」
「いいえ」
理人は、静かに首を振った。
「あなたが私を疑ったのは当然です。状況証拠はすべて、私が犯人だと示していました。あなたが経営者として会社を守ろうとするのは合理的な判断です。私があなたの立場でも、同じ決断をしたでしょう」
その言葉は、慰めではなく彼の心からの本心なのだろう。だが、それがかえって慎一の胸を痛ませた。
慎一は、ゆっくりと立ち上がり、理人の前に膝をついた。そして、彼の冷たい手を両手で包み込んだ。
「なあ、理人。統計的に見て、俺たちがこうして再会してパートナーになる確率って、どれくらいやったんやろな」
慎一は、理人の名を初めて呼んだ。理人の肩が、小さく震える。
理人は、しばらく黙ってうつむいていたが、やがて顔を上げた。その濡れた瞳は、決意の光を宿していた。
「……限りなく、ゼロに近いです」
一粒の涙が、彼の頬を伝う。
「でも……起きてしまった以上、これはもう確率論ではありません。必然です」
その言葉が、引き金になった。
慎一は、理人を引き寄せ、強く、強く抱きしめた。今度は、もう離さないと誓うように。理人もまた、おそるおそる慎一の背中に手を回した。二人の震えが、一つに重なる。
雨は、まだ降り続いていた。だが、社長室の中だけは確かな温もりに満たされていた。
これから始まる戦いは、決して楽なものではないだろう。だが、もう一人ではない。最高のパートナーが隣にいる。
二人は、巨大な敵に立ち向かうための最初の一歩を、今、確かに踏み出したのだ。
「……離してください」
理人が、くぐもった声で言った。だが、その声に以前のような拒絶の響きはない。むしろ、戸惑いとほんの少しの安堵が混じっているように聞こえる。
慎一は、ゆっくりと腕を解いた。改めて向き合った理人の顔は、雨のせいか、それとも別の理由か、ひどく濡れていた。
「風邪、ひくぞ。とりあえず、これ着とけ」
慎一は社長室のクローゼットから予備で置いていた自分のシャツとタオルを取り出し、理人に手渡した。理人はしばらくためらった後、無言でそれを受け取り給湯室へと消えた。
着替えを終えて戻ってきた理人は、慎一の少し大きめのシャツを着ていた。その姿は、彼の年齢よりもさらに幼く見え、慎一の胸を締め付けた。
慎一は温かいコーヒーを二つ淹れ、一つを理人の前に置いた。
「……どこに行ってたんや」
慎一が尋ねると、理人はマグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと答えた。
「少し、頭を冷やしていました。それと……これを集めに」
理人は、持っていた鞄の中から一つのUSBメモリを取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは?」
「ギガ・ソリューションズが、不正な手段で顧客データを収集し、自社のAI開発に利用している証拠です。私が会社を辞めた、本当の理由です」
理人は、静かに語り始めた。
彼がギガ社に在籍していた時、社内で極秘に進められているプロジェクトの存在に気づいたという。それは、ユーザーの同意を得ずに提携先のアプリから個人情報を違法に収集し、それを分析してターゲット広告やサービス開発に悪用するという、悪質なものだった。
正義感の強い理人はその非倫理的な行為を許せず、内部告発しようとした。だが、彼の動きを察知した上層部によって、逆に企業秘密を持ち出したという濡れ衣を着せられ、会社を追い出されてしまったのだ。
「私は、無力でした。彼らの前では、一個人のデータサイエンティストなど何の力も持たなかった。だから、一度身を引いて証拠を集め、いつか彼らの不正を白日の下に晒そうと決めたんです」
「それで、うちに来たんは……」
「偶然ではありません」
理人は、はっきりとそう言った。
「ギガ社のような巨大企業と戦うには、信頼できるパートナーが必要でした。私は様々な企業の経営データを分析し、経営者を探していました。利益だけでなく確固たる倫理観を持ち、正しいやり方でビジネスを成功させようとしている人間を。……そして、あなたを見つけたんです、夏目慎一」
理人の瞳が、まっすぐに慎一を射抜く。
「あなたの経営は、データだけ見れば非効率で旧時代的かもしれない。でも、その根底には人を信じ、社会を良くしたいという純粋な思いがある。私は、それに賭けてみたかった。あなたなら、正しいやり方でギガ社を超えることができると思ったから」
すべてが、繋がった。彼がネクストリープに現れた理由、時折見せた焦りの意味、そして慎一に失望した時のあの悲しい瞳。
慎一は、言葉を失った。自分は、この青年の覚悟と信頼を無下にしてしまったのだ。彼は、ただ自分を、この会社を利用しようとしていたわけではない。共に戦うパートナーとして、選んでくれたのだ。
「……そうか。そうやったんか……」
慎一の目から、熱いものがこぼれ落ちた。それは後悔の涙であり、同時に、彼の真実を知ることができた安堵の涙でもあった。
「なんで、それを先に言うてくれへんかったんや」
「言えませんでした。確たる証拠もなしにそんなことを言えば、あなたの会社まで危険に晒すことになる。それに……あなたに、余計な重荷を背負わせたくなかった」
そう言う理人の声は、少しだけ震えていた。
「俺は君を疑った。最低や……」
「いいえ」
理人は、静かに首を振った。
「あなたが私を疑ったのは当然です。状況証拠はすべて、私が犯人だと示していました。あなたが経営者として会社を守ろうとするのは合理的な判断です。私があなたの立場でも、同じ決断をしたでしょう」
その言葉は、慰めではなく彼の心からの本心なのだろう。だが、それがかえって慎一の胸を痛ませた。
慎一は、ゆっくりと立ち上がり、理人の前に膝をついた。そして、彼の冷たい手を両手で包み込んだ。
「なあ、理人。統計的に見て、俺たちがこうして再会してパートナーになる確率って、どれくらいやったんやろな」
慎一は、理人の名を初めて呼んだ。理人の肩が、小さく震える。
理人は、しばらく黙ってうつむいていたが、やがて顔を上げた。その濡れた瞳は、決意の光を宿していた。
「……限りなく、ゼロに近いです」
一粒の涙が、彼の頬を伝う。
「でも……起きてしまった以上、これはもう確率論ではありません。必然です」
その言葉が、引き金になった。
慎一は、理人を引き寄せ、強く、強く抱きしめた。今度は、もう離さないと誓うように。理人もまた、おそるおそる慎一の背中に手を回した。二人の震えが、一つに重なる。
雨は、まだ降り続いていた。だが、社長室の中だけは確かな温もりに満たされていた。
これから始まる戦いは、決して楽なものではないだろう。だが、もう一人ではない。最高のパートナーが隣にいる。
二人は、巨大な敵に立ち向かうための最初の一歩を、今、確かに踏み出したのだ。
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