価値なしと捨てられたオメガの僕が、こっそり作ったお菓子を狼獣人の当主様に見つかったら、なぜか溺愛されています

水凪しおん

文字の大きさ
3 / 16

第2話「片隅の甘い香り」

 黒狼商会での日々は、奴隷市場にいた頃と大差なかった。
 いや、屋根のある場所で眠れて、毎日食事が与えられるだけ、ずっとマシなのかもしれない。与えられるのは、スープの残りと硬くなったパンの切れ端だけれど。

 厨房での仕事は、想像以上に過酷だった。
 朝は誰よりも早く起きて窯に火を入れ、夜は皆が帰った後に床を磨く。日中は、絶え間なく運び込まれる汚れた食器を、ひたすら洗い続ける。
 休憩する暇なんて、ほとんどなかった。
 それでも、一番辛かったのは、他の使用人たちからの冷たい視線と、あからさまな嫌がらせだった。

「おい、奴隷。そこの通路、邪魔だ」

「うわ、汚い。こっちに来ないでくれる?」

 すれ違いざまにわざと肩をぶつけられたり、僕が洗ったばかりの鍋に泥を入れられたりした。
 理由はわかっていた。当主であるリオード様が直々に連れてきた、得体の知れない奴隷。それが僕だったからだ。
 嫉妬と好奇心、そして侮蔑が入り混じった視線が、常に僕の背中に突き刺さっていた。
 僕はただ、ひたすらに耐えた。反論したって、どうせ誰も聞いてくれない。波風を立てれば、ここにいられなくなるだけだ。居場所なんてどこにもないくせに、追い出されるのが怖かった。

 そんな日々の中で、僕には一つだけ、秘密の楽しみができた。
 それは、皆が寝静まった深夜、厨房の片隅で、こっそりと焼き菓子を作ることだった。

 使える材料は限られている。廃棄される予定だった小麦粉の残りカスや、少し傷んだ果物、砂糖壺の底に固まったひとかけらだ。
 それでも、僕にとっては宝物だった。
 前世の記憶。
 現代日本で、ごく普通の家庭で育った記憶。母と一緒にキッチンに立って、クッキーやケーキを焼いた、温かくて甘い思い出だ。
 その記憶だけが、今の僕を支えてくれていた。

 この世界にはない、簡単なレシピ。
 材料を混ぜて形を整え、窯の余熱でじっくりと焼く。
 やがて、厨房の片隅に、ふわりと甘い香りが立ち上る。その香りだけが、僕を惨めな現実から、ほんの少しだけ解放してくれた。

 焼きあがったクッキーは不格好で、見た目も悪い。
 でも、口に入れると、さくさくとした食感と素朴な甘さが広がった。それは、僕だけの、ささやかな幸せの味だった。
 もちろん、誰にも見つかるわけにはいかない。作ったクッキーは、いつも使い古した布に包んで、自分の寝床である物置部屋の隅に隠した。

 ***

 ある日の夜。
 その日も、僕はいつものように厨房で皿を洗っていた。今日は大きな晩餐会があったらしく、食器の量はいつもよりずっと多い。全てを洗い終える頃には、とっくに日付が変わっていた。
 疲労困憊の体を引きずって、僕はいつものように、自分へのご褒美を作ることにした。
 今日は、少しだけ余っていた木の実を砕いて、生地に混ぜ込んでみた。きっと、香ばしくて美味しいはずだ。

 生地をこねて、小さな丸い形に整える。
 それを鉄板に並べて、まだ温かい窯の中に入れた。焼きあがるまでの間、僕は窯の前に座り込み、ぼんやりと炎の残滓を眺めていた。
 甘い香りが、僕の鼻をくすぐる。
 ああ、今日も美味しくできたかな。
 そんなことを考えていた、その時だった。

「……何の匂いだ」

 背後から、低い声が聞こえた。
 心臓が凍り付くかと思った。慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、リオード様だった。
 月の光を背にした彼の姿は、まるで黒い狼そのものだった。なぜ、こんな時間に、ここに。
 僕の思考は完全に停止した。

「答えろ。この甘い匂いはなんだ」

 リオード様は、ゆっくりと僕に近づいてくる。その金色の瞳が、僕と僕の後ろにある窯を射抜いていた。
 まずい。見つかった。
 盗み食いをしていたと、思われるかもしれない。そうなったら、きっと追い出される。いや、それだけじゃ済まないかもしれない。
 恐怖で体が震える。声が出ない。
 僕が黙っていることに苛立ったのか、リオード様は舌打ちをすると、僕の横を通り過ぎて、窯の扉に手をかけた。

「や、……だめです」

 思わず、か細い声が出た。
 僕の制止も聞かず、リオード様は窯の扉を開ける。中から、香ばしい木の実の香りが、ぶわりと溢れ出した。
 鉄板の上には、こんがりと焼き色のついたクッキーが並んでいる。
 リオード様は、それを無言で見下ろしていた。

『終わった』

 僕はぎゅっと目を瞑った。
 どんな罰が下されるんだろう。鞭で打たれるだろうか。それとも、もっと酷いことを……。
 だけど、いつまで経っても衝撃はやってこなかった。
 おそるおそる目を開けると、リオード様は鉄板からクッキーを一つ、指でつまみ上げていた。そして、躊躇うことなく、それを自分の口へと運んだ。

 さくり、と小さな音が響く。

 リオード様の金色の瞳が、わずかに見開かれた。
 彼は、しばらくの間、口の中のクッキーを味わうように黙っていたが、やがて、信じられないものを見るような目で、僕の方を振り返った。

「……これを、お前が?」

 僕は、ただ小さく頷くことしかできなかった。
 クッキーを飲み込んだリオード様は、何も言わずに、もう一つクッキーを手に取って口に入れた。そして、また一つ。
 まるで、初めてお菓子を食べた子供みたいに。
 あっという間に、鉄板の上のクッキーが三つ、彼の胃の中に消えていた。

 たっぷり十秒はあっただろうか。重い沈黙の後、リオード様は、ようやく口を開いた。

「明日から、お前は俺の専属になれ」

「……え?」

「聞き間違いか?明日から、お前は俺のためだけに菓子を作れ。いいな」

 一方的な命令だった。
 でも、その声には、いつもみたいな冷たさは少しも含まれていなかった。

あなたにおすすめの小説

当て馬に転生した俺、メインヒーローに懐かれすぎて物語が崩壊しています ~最強の騎士様、俺じゃなくてヒロインを追いかけてください!~

たら昆布
BL
処刑される元貴族に転生していたので婚約破棄して雑用係になった話

「お前を愛する事はない」を信じたので

あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」 お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。

恋人に好きな人が出来たと思ったら、なにやら雲行きが怪しい。

めっちゃ抹茶
BL
突然だが、容姿も中身も平凡な俺には、超絶イケメンの王子と呼ばれる恋人がいる。付き合い始めてそろそろ一年が経つ。といってもまだキスもそれ以上もした事がない健全なお付き合い。王子は優しいけど意地悪で、いつも俺の心臓を高鳴らせてくる——だけどそれだけだ。この前、喧嘩をした。それきり彼と話していない。付き合っているのか定かじゃない関係。挙句に、今遠目から見つけた王子の側には可憐な女の子。彼女が彼に寄り掛かって二人がキスをしている。 その瞬間、目の前が真っ黒になった。もう無理だ。俺がスイッチが切れたようにその場に立ち尽くした、その時だった。前にいる彼から聞いたこともない怒声が俺の耳に届いたのは。 ⚪︎佐藤玲央……微笑みの王子と呼ばれ、常に笑顔を絶やさない。物腰柔らかな姿勢に男女問わずモテる ⚪︎中田真……両親の転勤で引っ越してきた転校生。平凡な容姿で口が悪いがクラスに馴染めず誰とも話さないので王子しか知らないし、これからも多分バレない ※全四話、予約投稿済み。 Rは書こうか悩み中です。本編に攻めの名前が出てこないの書き終わってから気が付いた。3/16タイトル少し変更しました。

追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜

あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。 行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。 異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?

完結·氷の宰相の寝かしつけ係に任命されました

BL
幼い頃から心に穴が空いたような虚無感があった亮。 その穴を埋めた子を探しながら、寂しさから逃げるようにボイス配信をする日々。 そんなある日、亮は突然異世界に召喚された。 その目的は―――――― 異世界召喚された青年が美貌の宰相の寝かしつけをする話 ※小説家になろうにも掲載中

炎の精霊王の愛に満ちて

陽花紫
BL
異世界転移してしまったミヤは、森の中で寒さに震えていた。暖をとるために焚火をすれば、そこから精霊王フレアが姿を現す。 悪しき魔術師によって封印されていたフレアはその礼として「願いをひとつ叶えてやろう」とミヤ告げる。しかし無欲なミヤには、願いなど浮かばなかった。フレアはミヤに欲望を与え、いまいちど願いを尋ねる。 ミヤは答えた。「俺を、愛して」 小説家になろうにも掲載中です。

貧乏子爵のオメガ令息は、王子妃候補になりたくない

こたま
BL
山あいの田舎で、子爵とは名ばかりの殆ど農家な仲良し一家で育ったラリー。男オメガで貧乏子爵。このまま実家で生きていくつもりであったが。王から未婚の貴族オメガにはすべからく王子妃候補の選定のため王宮に集うようお達しが出た。行きたくないしお金も無い。辞退するよう手紙を書いたのに、近くに遠征している騎士団が帰る時、迎えに行って一緒に連れていくと連絡があった。断れないの?高貴なお嬢様にイジメられない?不安だらけのラリーを迎えに来たのは美丈夫な騎士のニールだった。

【完結】第三王子、ただいま輸送中。理由は多分、大臣です

ナポ
BL
ラクス王子、目覚めたら馬車の中。 理由は不明、手紙一通とパン一個。 どうやら「王宮の空気を乱したため、左遷」だそうです。 そんな理由でいいのか!? でもなぜか辺境での暮らしが思いのほか快適! 自由だし、食事は美味しいし、うるさい兄たちもいない! ……と思いきや、襲撃事件に巻き込まれたり、何かの教祖にされたり、ドタバタと騒がしい!!