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第2話「片隅の甘い香り」
黒狼商会での日々は、奴隷市場にいた頃と大差なかった。
いや、屋根のある場所で眠れて、毎日食事が与えられるだけ、ずっとマシなのかもしれない。与えられるのは、スープの残りと硬くなったパンの切れ端だけれど。
厨房での仕事は、想像以上に過酷だった。
朝は誰よりも早く起きて窯に火を入れ、夜は皆が帰った後に床を磨く。日中は、絶え間なく運び込まれる汚れた食器を、ひたすら洗い続ける。
休憩する暇なんて、ほとんどなかった。
それでも、一番辛かったのは、他の使用人たちからの冷たい視線と、あからさまな嫌がらせだった。
「おい、奴隷。そこの通路、邪魔だ」
「うわ、汚い。こっちに来ないでくれる?」
すれ違いざまにわざと肩をぶつけられたり、僕が洗ったばかりの鍋に泥を入れられたりした。
理由はわかっていた。当主であるリオード様が直々に連れてきた、得体の知れない奴隷。それが僕だったからだ。
嫉妬と好奇心、そして侮蔑が入り混じった視線が、常に僕の背中に突き刺さっていた。
僕はただ、ひたすらに耐えた。反論したって、どうせ誰も聞いてくれない。波風を立てれば、ここにいられなくなるだけだ。居場所なんてどこにもないくせに、追い出されるのが怖かった。
そんな日々の中で、僕には一つだけ、秘密の楽しみができた。
それは、皆が寝静まった深夜、厨房の片隅で、こっそりと焼き菓子を作ることだった。
使える材料は限られている。廃棄される予定だった小麦粉の残りカスや、少し傷んだ果物、砂糖壺の底に固まったひとかけらだ。
それでも、僕にとっては宝物だった。
前世の記憶。
現代日本で、ごく普通の家庭で育った記憶。母と一緒にキッチンに立って、クッキーやケーキを焼いた、温かくて甘い思い出だ。
その記憶だけが、今の僕を支えてくれていた。
この世界にはない、簡単なレシピ。
材料を混ぜて形を整え、窯の余熱でじっくりと焼く。
やがて、厨房の片隅に、ふわりと甘い香りが立ち上る。その香りだけが、僕を惨めな現実から、ほんの少しだけ解放してくれた。
焼きあがったクッキーは不格好で、見た目も悪い。
でも、口に入れると、さくさくとした食感と素朴な甘さが広がった。それは、僕だけの、ささやかな幸せの味だった。
もちろん、誰にも見つかるわけにはいかない。作ったクッキーは、いつも使い古した布に包んで、自分の寝床である物置部屋の隅に隠した。
***
ある日の夜。
その日も、僕はいつものように厨房で皿を洗っていた。今日は大きな晩餐会があったらしく、食器の量はいつもよりずっと多い。全てを洗い終える頃には、とっくに日付が変わっていた。
疲労困憊の体を引きずって、僕はいつものように、自分へのご褒美を作ることにした。
今日は、少しだけ余っていた木の実を砕いて、生地に混ぜ込んでみた。きっと、香ばしくて美味しいはずだ。
生地をこねて、小さな丸い形に整える。
それを鉄板に並べて、まだ温かい窯の中に入れた。焼きあがるまでの間、僕は窯の前に座り込み、ぼんやりと炎の残滓を眺めていた。
甘い香りが、僕の鼻をくすぐる。
ああ、今日も美味しくできたかな。
そんなことを考えていた、その時だった。
「……何の匂いだ」
背後から、低い声が聞こえた。
心臓が凍り付くかと思った。慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、リオード様だった。
月の光を背にした彼の姿は、まるで黒い狼そのものだった。なぜ、こんな時間に、ここに。
僕の思考は完全に停止した。
「答えろ。この甘い匂いはなんだ」
リオード様は、ゆっくりと僕に近づいてくる。その金色の瞳が、僕と僕の後ろにある窯を射抜いていた。
まずい。見つかった。
盗み食いをしていたと、思われるかもしれない。そうなったら、きっと追い出される。いや、それだけじゃ済まないかもしれない。
恐怖で体が震える。声が出ない。
僕が黙っていることに苛立ったのか、リオード様は舌打ちをすると、僕の横を通り過ぎて、窯の扉に手をかけた。
「や、……だめです」
思わず、か細い声が出た。
僕の制止も聞かず、リオード様は窯の扉を開ける。中から、香ばしい木の実の香りが、ぶわりと溢れ出した。
鉄板の上には、こんがりと焼き色のついたクッキーが並んでいる。
リオード様は、それを無言で見下ろしていた。
『終わった』
僕はぎゅっと目を瞑った。
どんな罰が下されるんだろう。鞭で打たれるだろうか。それとも、もっと酷いことを……。
だけど、いつまで経っても衝撃はやってこなかった。
おそるおそる目を開けると、リオード様は鉄板からクッキーを一つ、指でつまみ上げていた。そして、躊躇うことなく、それを自分の口へと運んだ。
さくり、と小さな音が響く。
リオード様の金色の瞳が、わずかに見開かれた。
彼は、しばらくの間、口の中のクッキーを味わうように黙っていたが、やがて、信じられないものを見るような目で、僕の方を振り返った。
「……これを、お前が?」
僕は、ただ小さく頷くことしかできなかった。
クッキーを飲み込んだリオード様は、何も言わずに、もう一つクッキーを手に取って口に入れた。そして、また一つ。
まるで、初めてお菓子を食べた子供みたいに。
あっという間に、鉄板の上のクッキーが三つ、彼の胃の中に消えていた。
たっぷり十秒はあっただろうか。重い沈黙の後、リオード様は、ようやく口を開いた。
「明日から、お前は俺の専属になれ」
「……え?」
「聞き間違いか?明日から、お前は俺のためだけに菓子を作れ。いいな」
一方的な命令だった。
でも、その声には、いつもみたいな冷たさは少しも含まれていなかった。
いや、屋根のある場所で眠れて、毎日食事が与えられるだけ、ずっとマシなのかもしれない。与えられるのは、スープの残りと硬くなったパンの切れ端だけれど。
厨房での仕事は、想像以上に過酷だった。
朝は誰よりも早く起きて窯に火を入れ、夜は皆が帰った後に床を磨く。日中は、絶え間なく運び込まれる汚れた食器を、ひたすら洗い続ける。
休憩する暇なんて、ほとんどなかった。
それでも、一番辛かったのは、他の使用人たちからの冷たい視線と、あからさまな嫌がらせだった。
「おい、奴隷。そこの通路、邪魔だ」
「うわ、汚い。こっちに来ないでくれる?」
すれ違いざまにわざと肩をぶつけられたり、僕が洗ったばかりの鍋に泥を入れられたりした。
理由はわかっていた。当主であるリオード様が直々に連れてきた、得体の知れない奴隷。それが僕だったからだ。
嫉妬と好奇心、そして侮蔑が入り混じった視線が、常に僕の背中に突き刺さっていた。
僕はただ、ひたすらに耐えた。反論したって、どうせ誰も聞いてくれない。波風を立てれば、ここにいられなくなるだけだ。居場所なんてどこにもないくせに、追い出されるのが怖かった。
そんな日々の中で、僕には一つだけ、秘密の楽しみができた。
それは、皆が寝静まった深夜、厨房の片隅で、こっそりと焼き菓子を作ることだった。
使える材料は限られている。廃棄される予定だった小麦粉の残りカスや、少し傷んだ果物、砂糖壺の底に固まったひとかけらだ。
それでも、僕にとっては宝物だった。
前世の記憶。
現代日本で、ごく普通の家庭で育った記憶。母と一緒にキッチンに立って、クッキーやケーキを焼いた、温かくて甘い思い出だ。
その記憶だけが、今の僕を支えてくれていた。
この世界にはない、簡単なレシピ。
材料を混ぜて形を整え、窯の余熱でじっくりと焼く。
やがて、厨房の片隅に、ふわりと甘い香りが立ち上る。その香りだけが、僕を惨めな現実から、ほんの少しだけ解放してくれた。
焼きあがったクッキーは不格好で、見た目も悪い。
でも、口に入れると、さくさくとした食感と素朴な甘さが広がった。それは、僕だけの、ささやかな幸せの味だった。
もちろん、誰にも見つかるわけにはいかない。作ったクッキーは、いつも使い古した布に包んで、自分の寝床である物置部屋の隅に隠した。
***
ある日の夜。
その日も、僕はいつものように厨房で皿を洗っていた。今日は大きな晩餐会があったらしく、食器の量はいつもよりずっと多い。全てを洗い終える頃には、とっくに日付が変わっていた。
疲労困憊の体を引きずって、僕はいつものように、自分へのご褒美を作ることにした。
今日は、少しだけ余っていた木の実を砕いて、生地に混ぜ込んでみた。きっと、香ばしくて美味しいはずだ。
生地をこねて、小さな丸い形に整える。
それを鉄板に並べて、まだ温かい窯の中に入れた。焼きあがるまでの間、僕は窯の前に座り込み、ぼんやりと炎の残滓を眺めていた。
甘い香りが、僕の鼻をくすぐる。
ああ、今日も美味しくできたかな。
そんなことを考えていた、その時だった。
「……何の匂いだ」
背後から、低い声が聞こえた。
心臓が凍り付くかと思った。慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、リオード様だった。
月の光を背にした彼の姿は、まるで黒い狼そのものだった。なぜ、こんな時間に、ここに。
僕の思考は完全に停止した。
「答えろ。この甘い匂いはなんだ」
リオード様は、ゆっくりと僕に近づいてくる。その金色の瞳が、僕と僕の後ろにある窯を射抜いていた。
まずい。見つかった。
盗み食いをしていたと、思われるかもしれない。そうなったら、きっと追い出される。いや、それだけじゃ済まないかもしれない。
恐怖で体が震える。声が出ない。
僕が黙っていることに苛立ったのか、リオード様は舌打ちをすると、僕の横を通り過ぎて、窯の扉に手をかけた。
「や、……だめです」
思わず、か細い声が出た。
僕の制止も聞かず、リオード様は窯の扉を開ける。中から、香ばしい木の実の香りが、ぶわりと溢れ出した。
鉄板の上には、こんがりと焼き色のついたクッキーが並んでいる。
リオード様は、それを無言で見下ろしていた。
『終わった』
僕はぎゅっと目を瞑った。
どんな罰が下されるんだろう。鞭で打たれるだろうか。それとも、もっと酷いことを……。
だけど、いつまで経っても衝撃はやってこなかった。
おそるおそる目を開けると、リオード様は鉄板からクッキーを一つ、指でつまみ上げていた。そして、躊躇うことなく、それを自分の口へと運んだ。
さくり、と小さな音が響く。
リオード様の金色の瞳が、わずかに見開かれた。
彼は、しばらくの間、口の中のクッキーを味わうように黙っていたが、やがて、信じられないものを見るような目で、僕の方を振り返った。
「……これを、お前が?」
僕は、ただ小さく頷くことしかできなかった。
クッキーを飲み込んだリオード様は、何も言わずに、もう一つクッキーを手に取って口に入れた。そして、また一つ。
まるで、初めてお菓子を食べた子供みたいに。
あっという間に、鉄板の上のクッキーが三つ、彼の胃の中に消えていた。
たっぷり十秒はあっただろうか。重い沈黙の後、リオード様は、ようやく口を開いた。
「明日から、お前は俺の専属になれ」
「……え?」
「聞き間違いか?明日から、お前は俺のためだけに菓子を作れ。いいな」
一方的な命令だった。
でも、その声には、いつもみたいな冷たさは少しも含まれていなかった。
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