隠れオメガの騎士は、極北の砦で秘密の野菜を作りたい~抑制剤が切れたら、冷徹王子に胃袋ごと溺愛されました~

水凪しおん

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第1話「騎士団員の秘密とキャベツの種」

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 王都の朝は早い。東の空が白む頃には、石畳を踏みしめる軍靴の音が響き始める。王宮騎士団の宿舎も例外ではない。起床ラッパが鳴り響く前に目を覚ましたルカは、寝台の下に隠していた小さな木箱をそっと引き出した。

 指先で触れるのは、冷たい金属の剣ではなく、カサカサとした紙袋の束だ。
『ほうれん草、ラディッシュ、それから早生のキャベツ……よし、全部ある』

 ルカ・フェンネルは、騎士団の中でも指折りの剣術使いとして知られている。だが、彼の真の情熱は剣技にはない。この小さな紙袋の中に眠る、生命の源に向けられていた。
 ルカは深く息を吸い込む。湿った土の匂いが恋しい。彼の体には、ある秘密が隠されている。

 この世界には男女という性別の他に、第二の性と呼ばれる区分が存在する。支配者層に多いアルファ、大多数を占めるベータ、そして希少で守られるべき存在とされるオメガ。
 ルカは、その希少なオメガだった。

 本来ならば、オメガは守護されるべき対象として、あるいは政略結婚の道具として育てられる。だが、ルカはそれを拒んだ。煌びやかな屋敷で着飾って座っているよりも、泥にまみれて土を耕したい。その一心で性別をベータと偽り、騎士団に入団したのだ。

 通常、オメガには「巣作り」と呼ばれる本能がある。発情期が近づくと、自分の居場所を安全で快適なものにするために、布類や柔らかいものを集めて自分だけの空間を作りたがる習性のことだ。
 しかしルカの場合、その本能は少々特殊な形で表れていた。
「快適な環境」すなわち、植物にとっての最高の環境を整えること。
 ルカにとっての巣作りとは、農業そのものだったのだ。

「ルカ、起きているか? 出発の準備はできたか」

 扉の向こうから同室の先輩騎士、ガルドの声が掛かる。ルカは慌てて木箱を鞄の底に押し込み、その上から着替えや携帯食料を詰め込んだ。

「はい、今行きます!」

 居住まいを正し、鏡の前で自分の姿を確認する。銀色のブレストプレートに、紺色の制服。首元には、フェロモンを隠すための特殊な首輪型のチョーカーを巻いている。これは魔道具の一種で、オメガ特有の甘い匂いを完全に遮断するものだ。さらに念のため、抑制剤の小瓶を腰のポーチに忍ばせる。

 今回の任務は過酷だ。北方の国境線にある「黒鉄の砦」への長期遠征。魔物の活動が活発化しており、最前線の兵士たちが疲弊しているという。その援軍としての派遣だった。
 死と隣り合わせの戦場へ向かうというのに、ルカの心臓が高鳴っているのは別の理由からだった。

『北方の黒土……噂によれば、養分をたっぷり含んだ未開の土地だとか』

 不謹慎極まりないが、ルカの頭の中は、未知の土壌への期待でいっぱいだった。もし向こうで自由な時間ができたら、こっそりとあのキャベツの種を蒔けるかもしれない。
 そんな甘い考えが、どれほど現実離れしたものか、ルカはこの時のんきに考えていた。

 集合場所である中庭には、すでに多くの騎士たちが整列していた。冷たい風が頬を叩く。団長の厳しい訓示が続き、皆の顔が引き締まる。
 ルカもまた、表情を引き締めた。オメガだとバレれば、即刻除隊だ。それどころか、軍規違反で投獄される可能性すらある。
 絶対にバレてはいけない。
 そう自分に言い聞かせるルカの鼻先を、不意に強烈な威圧感がかすめた。

「総司令官閣下、到着!」

 ざっと、音を立てて騎士たちが敬礼する。
 現れたのは、漆黒の軍馬に跨った一人の男だった。
 プラチナブロンドの髪を風になびかせ、氷のように冷たい碧眼で騎士たちを見下ろす男。この国の第二王子にして、大陸最強のアルファと謳われるアレクセイ・ヴァン・エルドラドだ。

 その姿を見た瞬間、ルカの背筋に冷たいものが走った。
 恐怖ではない。もっと根本的な、生物としての警鐘だ。
 チョーカー越しでさえ、彼の放つ圧倒的なアルファの覇気が肌を刺す。

『これが、王族のアルファ……』

 アレクセイは何も言わず、ただ視線を騎士たちに走らせた。その視線が、一瞬だけルカの辺りで止まった気がした。
 ルカは思わず息を止める。
 まさか、気づかれた? いや、そんなはずはない。最新式の遮断チョーカーをしているし、抑制剤も飲んでいる。
 アレクセイはすぐに視線を外し、馬を進めた。

「全軍、出発する。遅れるな」

 低く、よく通る声が腹の底に響く。
 ルカは安堵の息を吐き出すと同時に、奇妙な高揚感を覚えていた。
 あの声を聞いただけで、体の奥が熱くなるような感覚。
 これが本能的な反応なのだとしたら、オメガというのは何と厄介な生き物なのだろう。

 ルカは馬に飛び乗り、隊列に加わった。
 鞄の底の種たちだけが、彼の心の支えだった。北への旅路は長い。そして、彼の運命を大きく変える出会いが待っていることを、ルカはまだ知らない。
 ただ、今は揺れる馬の背で、ポーチの中の抑制剤の瓶がカチリと音を立てるのを不安げに聞いていた。
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