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第1話「森の檻、花の溜息」
鬱蒼と茂る木々の隙間から、細い光の束がカーテンのように降り注いでいる。湿り気を帯びた苔の匂いと、腐葉土の深い香り。それらが混ざり合う森の空気は重く、肺に入れるたびに身体の芯まで冷やしていくようだった。
エリアルは古びた木の机に肘をつき、震える指先で小さなガラス瓶を見つめていた。瓶の中では、琥珀色の液体が揺れている。それは街の薬屋で手に入れた、オメガの発情を抑えるための抑制剤だ。
本来ならば、これを一本飲み干せば、体内で暴れ回る熱は嘘のように引くはずだった。呼吸は整い、思考はクリアになり、ただの人間として一日を過ごせるはずなのだ。
けれど、エリアルの身体は違った。
彼はゆっくりと、祈るような気持ちで瓶の栓を抜いた。鼻を刺す独特の薬臭さが広がる。一気に煽るようにして飲み干すと、喉の奥がカッと熱くなった。
苦い。舌が痺れるほどの苦味だ。
エリアルは目を閉じ、効果が現れるのを待った。一秒、十秒、一分。
やがて、彼は深いため息をついた。
効果がない。
身体の奥底、へその下のあたりでくすぶり続けている熾火のような熱は、消えるどころか、じりじりとその範囲を広げているようだった。肌が粟立ち、指先が微かに痺れる。視界の端がわずかに揺らぎ、世界が水彩画のように滲んで見える。
「……また、だめか」
つぶやく声は、枯れた葉のように乾いていた。
エリアルは空になった小瓶を机の端に置いた。そこには既に、何本もの空き瓶が並んでいる。どれも高価な薬だったが、彼にとってはただの色付きの水と変わらなかった。
彼の身体は、あらゆる薬を拒絶する。まるで、この身に宿る呪いを解くことなど許さないと言わんばかりに。
エリアルはふらつく足取りで窓辺へと向かった。窓の外には、彼が丹精込めて育てている薬草畑が広がっている。
青、紫、黄色。色とりどりの花々が風に揺れている。彼はその美しさに目を細めつつも、胸の奥に鉛のような重さを感じていた。
この森は、彼の家であり、職場であり、そして檻だった。
エリアルの身体から放たれる香りは、あまりにも特殊すぎた。それは万病を癒やす奇跡の光であり、同時に、理性のタガを外させる甘い毒でもある。
かつて、彼がまだ自分の特異さを知らなかった頃、不用意に街へ出たことがあった。その時、周囲のアルファたちがどのような反応を示したか、思い出すだけで背筋が凍る。
充血した目。荒い呼吸。まるで飢えた獣を見るような、粘り着く視線。
彼らは理性を失い、エリアルを奪い合おうとした。あの恐怖は、今も悪夢となって彼を苛む。
だから、エリアルは逃げた。誰も来ない、誰も自分を見つけられない、この深い森の奥へと。
「……誰にも、迷惑をかけたくないのに」
窓枠に額を押し付け、エリアルは独り言を言った。
熱い。身体が芯から熱い。
抑制剤の効かない発情期が近づいている予兆だった。これから数日間、彼は誰にも触れられることのない情欲の波に、たった一人で耐え続けなければならない。
自分の肌を自分で抱きしめるように、エリアルは両腕を擦った。
その時、風向きが変わった。
開け放たれた窓から、森の香りに混じって、彼の鼻腔をくすぐるものがあった。
それは、彼自身が放つ香りだった。
甘く、脳が痺れるような薬草と花の香り。完熟した果実が崩れる寸前のような、濃厚で妖艶な匂い。
自分の匂いなのに、それに当てられて頭がくらくらする。
癒やしの力を持つこの香りは、皮肉なことに、持ち主であるエリアル自身には何の救いももたらさない。ただ、孤独を際立たせるだけだ。
(この香りが、誰かに届いてしまったら……)
不安が胸をよぎる。この森には強力な結界を張っているつもりだが、それでも完全に遮断できているわけではない。
もしも、この香りを嗅ぎつけた獣や、あるいは人間が迷い込んできたとしたら。
エリアルは身震いをした。
そんなことはあってはならない。自分はここで、誰にも知られず、静かに朽ちていくべき存在なのだ。
彼は窓を閉め、鍵をかけた。外界とのつながりを絶つように。
だが、閉ざされた室内には、彼自身の香りがより一層濃く充満していく。
逃げ場など、どこにもなかった。
エリアルは部屋の隅にある粗末なベッドに倒れ込んだ。古びたシーツを頭から被り、小さく丸まる。
世界から隠れてしまいたかった。
自分の存在そのものが、間違いであるかのように感じられた。
涙が滲み、枕を濡らす。
外では、鳥たちのさえずりさえ聞こえなくなっていた。まるで森全体が、これから訪れる何かを予感して、息を潜めているかのようだった。
孤独の檻の中で、エリアルはただ、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように震えていた。
その静寂を破る足音が、すぐそこまで迫っていることになど、気づきもしないまま。
***
森の入り口付近。
そこには、数頭の馬と、金属の鎧をまとった男たちの姿があった。
「団長、この森は……妙ですね」
若い騎士が、不安げに周囲を見回しながら言った。
先頭を進む男、ジークフリートは手綱を握る手を休めず、鋭い視線を前方に向けていた。
「ああ。空気が違う」
ジークフリートの声は低く、よく響く。
彼の身体を包む白銀の鎧は、使い込まれているが手入れが行き届いており、木漏れ日を反射して鈍く光っている。
整った顔立ちには、常に厳格な色が浮かんでいるが、その奥にある瞳は深い湖のように静かだ。
だが、今、その瞳にはわずかな警戒心が宿っていた。
王都では、原因不明の流行り病が猛威を振るっていた。高熱と激痛をもたらし、多くの民が苦しんでいる。医師たちの懸命な治療も虚しく、特効薬は見つかっていない。
そんな中、古い文献に記された「森の奥に住む聖なる癒やし手」の伝説だけが、唯一の希望だった。
王命を受けたジークフリート率いる精鋭部隊は、藁にもすがる思いでこの森へ足を踏み入れたのだ。
「魔物の気配もありません。静かすぎます」
「油断するな。静けさは、時に雄弁に危険を語る」
ジークフリートは短く答え、腰の剣に手を添えた。
その時だった。
風に乗って、微かな、しかし強烈な香りが漂ってきたのは。
「……なんだ、この匂いは」
部下の一人が鼻をひくつかせた。
ジークフリートもまた、その香りを感じ取っていた。
それは、今まで嗅いだことのない香りだった。
清涼な薬草のようでいて、胸の奥を鷲掴みにするような甘さがある。脳髄に直接響くような、抗いがたい引力。
(これは……)
ジークフリートの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
騎士として鍛え上げられた強靭な精神が、一瞬だけ揺らいだ。
ただの良い匂いではない。これは、もっと根源的な、生物としての本能を揺さぶる何かだ。
「団長、なんだか……熱くなってきました」
後ろの騎士が、妙に艶っぽい声で言った。
振り返ると、部下たちの目が少し潤み、頬が紅潮しているのが見て取れた。
「口を閉じろ。鼻で呼吸をするな」
ジークフリートは鋭く命じた。
「正気を保て。何かに、誘われている」
彼は自分自身にも言い聞かせるように言った。
額にじわりと汗が滲む。血管の中を流れる血が、沸騰したように騒ぎ出している。
行かなければならない。この香りの発生源へ。
そこに何があるのかはわからない。だが、本能が叫んでいる。
そこに行けば、求めている「答え」があると。
そして、それ以上に危険な「何か」もまた、そこで待っていると。
ジークフリートは愛馬の腹を蹴った。
馬もまた、何かに怯えるように、あるいは興奮するように鼻息を荒くしている。
「行くぞ。遅れるな」
一行は速度を上げ、森の深部へと突き進んでいった。
その先に待ち受ける運命の出会いが、国を、そして彼ら自身の人生を大きく変えることになるなどとは知らずに。
静謐な森は、彼らを飲み込むように深く、暗く、口を開けていた。
甘い毒のような香りを、道しるべとして。
エリアルは古びた木の机に肘をつき、震える指先で小さなガラス瓶を見つめていた。瓶の中では、琥珀色の液体が揺れている。それは街の薬屋で手に入れた、オメガの発情を抑えるための抑制剤だ。
本来ならば、これを一本飲み干せば、体内で暴れ回る熱は嘘のように引くはずだった。呼吸は整い、思考はクリアになり、ただの人間として一日を過ごせるはずなのだ。
けれど、エリアルの身体は違った。
彼はゆっくりと、祈るような気持ちで瓶の栓を抜いた。鼻を刺す独特の薬臭さが広がる。一気に煽るようにして飲み干すと、喉の奥がカッと熱くなった。
苦い。舌が痺れるほどの苦味だ。
エリアルは目を閉じ、効果が現れるのを待った。一秒、十秒、一分。
やがて、彼は深いため息をついた。
効果がない。
身体の奥底、へその下のあたりでくすぶり続けている熾火のような熱は、消えるどころか、じりじりとその範囲を広げているようだった。肌が粟立ち、指先が微かに痺れる。視界の端がわずかに揺らぎ、世界が水彩画のように滲んで見える。
「……また、だめか」
つぶやく声は、枯れた葉のように乾いていた。
エリアルは空になった小瓶を机の端に置いた。そこには既に、何本もの空き瓶が並んでいる。どれも高価な薬だったが、彼にとってはただの色付きの水と変わらなかった。
彼の身体は、あらゆる薬を拒絶する。まるで、この身に宿る呪いを解くことなど許さないと言わんばかりに。
エリアルはふらつく足取りで窓辺へと向かった。窓の外には、彼が丹精込めて育てている薬草畑が広がっている。
青、紫、黄色。色とりどりの花々が風に揺れている。彼はその美しさに目を細めつつも、胸の奥に鉛のような重さを感じていた。
この森は、彼の家であり、職場であり、そして檻だった。
エリアルの身体から放たれる香りは、あまりにも特殊すぎた。それは万病を癒やす奇跡の光であり、同時に、理性のタガを外させる甘い毒でもある。
かつて、彼がまだ自分の特異さを知らなかった頃、不用意に街へ出たことがあった。その時、周囲のアルファたちがどのような反応を示したか、思い出すだけで背筋が凍る。
充血した目。荒い呼吸。まるで飢えた獣を見るような、粘り着く視線。
彼らは理性を失い、エリアルを奪い合おうとした。あの恐怖は、今も悪夢となって彼を苛む。
だから、エリアルは逃げた。誰も来ない、誰も自分を見つけられない、この深い森の奥へと。
「……誰にも、迷惑をかけたくないのに」
窓枠に額を押し付け、エリアルは独り言を言った。
熱い。身体が芯から熱い。
抑制剤の効かない発情期が近づいている予兆だった。これから数日間、彼は誰にも触れられることのない情欲の波に、たった一人で耐え続けなければならない。
自分の肌を自分で抱きしめるように、エリアルは両腕を擦った。
その時、風向きが変わった。
開け放たれた窓から、森の香りに混じって、彼の鼻腔をくすぐるものがあった。
それは、彼自身が放つ香りだった。
甘く、脳が痺れるような薬草と花の香り。完熟した果実が崩れる寸前のような、濃厚で妖艶な匂い。
自分の匂いなのに、それに当てられて頭がくらくらする。
癒やしの力を持つこの香りは、皮肉なことに、持ち主であるエリアル自身には何の救いももたらさない。ただ、孤独を際立たせるだけだ。
(この香りが、誰かに届いてしまったら……)
不安が胸をよぎる。この森には強力な結界を張っているつもりだが、それでも完全に遮断できているわけではない。
もしも、この香りを嗅ぎつけた獣や、あるいは人間が迷い込んできたとしたら。
エリアルは身震いをした。
そんなことはあってはならない。自分はここで、誰にも知られず、静かに朽ちていくべき存在なのだ。
彼は窓を閉め、鍵をかけた。外界とのつながりを絶つように。
だが、閉ざされた室内には、彼自身の香りがより一層濃く充満していく。
逃げ場など、どこにもなかった。
エリアルは部屋の隅にある粗末なベッドに倒れ込んだ。古びたシーツを頭から被り、小さく丸まる。
世界から隠れてしまいたかった。
自分の存在そのものが、間違いであるかのように感じられた。
涙が滲み、枕を濡らす。
外では、鳥たちのさえずりさえ聞こえなくなっていた。まるで森全体が、これから訪れる何かを予感して、息を潜めているかのようだった。
孤独の檻の中で、エリアルはただ、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように震えていた。
その静寂を破る足音が、すぐそこまで迫っていることになど、気づきもしないまま。
***
森の入り口付近。
そこには、数頭の馬と、金属の鎧をまとった男たちの姿があった。
「団長、この森は……妙ですね」
若い騎士が、不安げに周囲を見回しながら言った。
先頭を進む男、ジークフリートは手綱を握る手を休めず、鋭い視線を前方に向けていた。
「ああ。空気が違う」
ジークフリートの声は低く、よく響く。
彼の身体を包む白銀の鎧は、使い込まれているが手入れが行き届いており、木漏れ日を反射して鈍く光っている。
整った顔立ちには、常に厳格な色が浮かんでいるが、その奥にある瞳は深い湖のように静かだ。
だが、今、その瞳にはわずかな警戒心が宿っていた。
王都では、原因不明の流行り病が猛威を振るっていた。高熱と激痛をもたらし、多くの民が苦しんでいる。医師たちの懸命な治療も虚しく、特効薬は見つかっていない。
そんな中、古い文献に記された「森の奥に住む聖なる癒やし手」の伝説だけが、唯一の希望だった。
王命を受けたジークフリート率いる精鋭部隊は、藁にもすがる思いでこの森へ足を踏み入れたのだ。
「魔物の気配もありません。静かすぎます」
「油断するな。静けさは、時に雄弁に危険を語る」
ジークフリートは短く答え、腰の剣に手を添えた。
その時だった。
風に乗って、微かな、しかし強烈な香りが漂ってきたのは。
「……なんだ、この匂いは」
部下の一人が鼻をひくつかせた。
ジークフリートもまた、その香りを感じ取っていた。
それは、今まで嗅いだことのない香りだった。
清涼な薬草のようでいて、胸の奥を鷲掴みにするような甘さがある。脳髄に直接響くような、抗いがたい引力。
(これは……)
ジークフリートの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
騎士として鍛え上げられた強靭な精神が、一瞬だけ揺らいだ。
ただの良い匂いではない。これは、もっと根源的な、生物としての本能を揺さぶる何かだ。
「団長、なんだか……熱くなってきました」
後ろの騎士が、妙に艶っぽい声で言った。
振り返ると、部下たちの目が少し潤み、頬が紅潮しているのが見て取れた。
「口を閉じろ。鼻で呼吸をするな」
ジークフリートは鋭く命じた。
「正気を保て。何かに、誘われている」
彼は自分自身にも言い聞かせるように言った。
額にじわりと汗が滲む。血管の中を流れる血が、沸騰したように騒ぎ出している。
行かなければならない。この香りの発生源へ。
そこに何があるのかはわからない。だが、本能が叫んでいる。
そこに行けば、求めている「答え」があると。
そして、それ以上に危険な「何か」もまた、そこで待っていると。
ジークフリートは愛馬の腹を蹴った。
馬もまた、何かに怯えるように、あるいは興奮するように鼻息を荒くしている。
「行くぞ。遅れるな」
一行は速度を上げ、森の深部へと突き進んでいった。
その先に待ち受ける運命の出会いが、国を、そして彼ら自身の人生を大きく変えることになるなどとは知らずに。
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甘い毒のような香りを、道しるべとして。
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