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第2話「獣と騎士」
静寂は、唐突に破られた。
ベッドで浅い眠りに落ちていたエリアルの耳に、不快な音が飛び込んできた。
ガサガサ、バキバキと、枝が折れ、下草が踏みしだかれる音。
風の音ではない。もっと重く、粗雑な、何かが無理やり森を切り裂いて進む音だ。
エリアルは弾かれたように身を起こした。心臓が早鐘を打つ。
「……なに?」
窓の外に目を向ける。薬草畑の向こう、森の木陰から、巨大な影がヌラリと現れた。
それは、猪に似ていたが、大きさは牛ほどもある異形の魔獣だった。全身の毛は針金のように硬く逆立ち、口からは涎が垂れている。
その濁った赤い瞳が、真っすぐにエリアルの小屋を捉えていた。
「ひっ……」
息を飲む。
魔獣の鼻がひくひくと動く。その動きは、明らかに匂いを追っていた。
エリアルのフェロモンだ。抑制剤が効かず、垂れ流しになっている濃厚な香りが、この怪物を呼び寄せてしまったのだ。
「グルゥァ……」
低い唸り声とともに、魔獣が地面を蹴った。
ドスン、ドスンと地響きが鳴る。小屋が揺れた。
エリアルは震える足で立ち上がり、裏口へと走った。
ここにいてはいけない。小屋が壊されるだけではない。自分自身が食い殺されるか、あるいはもっと酷い目に遭うか。
魔獣は食欲だけでなく、歪んだ性欲も持ち合わせていることが多い。オメガのフェロモンに刺激された魔獣が何をするか、想像するだけで吐き気がした。
裏口の扉を開け、エリアルは森の中へ飛び出した。
靴を履く暇もなかった。裸足の裏に小石や枝が食い込み、痛みで顔が歪む。だが、立ち止まることはできない。
背後で凄まじい破壊音が響いた。小屋の壁が突き破られた音だ。
「アァッ!」
短い悲鳴を上げて、エリアルは転んだ。木の根に足を取られたのだ。
痛みに耐えて起き上がろうとした瞬間、頭上を巨大な影が覆った。
「グルルルゥ……!」
魔獣が、目の前にいた。
涎が糸を引き、鼻先からは生臭い息が吐き出される。
近い。あまりにも近い。
エリアルは後ずさりしようとしたが、背中は太い幹に阻まれた。
逃げ場はない。
(終わりだ……)
絶望が胸を覆う。こんな森の奥で、誰にも知られずに喰われて死ぬ。それが自分の運命だったのか。
薬師として人を助けたいと願いながら、結局は自分の体質に殺される。
なんて滑稽な人生だろう。
エリアルはギュッと目を閉じた。せめて、痛みだけは一瞬であってほしいと願いながら。
魔獣が大きく口を開け、鋭い牙を剥き出しにした。
その時だった。
「――頭を垂れろ、下種が」
冷たく、透き通った声が響いた。
次の瞬間、風を切る音と、何か硬いものが肉を断つ水音が重なった。
「ギャアアアッ!」
魔獣の絶叫。
エリアルが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
さっきまでエリアルを威圧していた魔獣の巨体が、横薙ぎに吹き飛ばされていたのだ。
舞い散る血飛沫の中で、一人の男が立っていた。
白銀の鎧。手には、身の丈ほどもある大剣。
その剣身からは、まだ魔獣の血が滴っているはずなのに、刃は雪のように白く輝いていた。
男はゆっくりと、倒れ伏して痙攣する魔獣に歩み寄ると、無造作に剣を振り上げた。
ためらいのない一撃。
ドスッ、という鈍い音がして、魔獣は完全に動かなくなった。
圧倒的な暴力。けれど、その所作は舞踏のように洗練されていて、見惚れるほどに美しかった。
男は剣を一振りして血糊を払い、鞘に納めた。カチン、という澄んだ音が森に響く。
そして、彼はゆっくりと振り返った。
エリアルは息をするのも忘れて、その姿を見つめた。
輝くような金髪。意志の強さを感じさせる眉。そして、宝石のアメジストのような紫色の瞳。
今まで見た誰よりも美しい人だった。けれど、その美しさは鋭利な刃物のようで、触れれば切れそうなほどの冷たさを孕んでいた。
(騎士様……?)
なぜ、こんな森の奥に。
男、ジークフリートは、エリアルの方へと歩き出した。
カシャ、カシャと、鎧が擦れる音が近づいてくる。
エリアルは身を縮こまらせた。助けてもらったとはいえ、相手はアルファだ。自分のフェロモンが彼にどう影響するか、わかったものではない。
ジークフリートはエリアルの目の前、数メートルの位置で立ち止まった。
そして、その端正な顔をわずかに歪めた。
「……ッ」
彼は口元を手で覆い、苦しげに眉間にしわを寄せた。
エリアルは「しまった」と思った。
やはり、匂いだ。発情期前の濃厚なフェロモンが、彼を刺激しているのだ。
「申し訳、ありません……!」
エリアルは咄嗟に謝った。
「私の匂いが、不快で……今すぐ、離れますから……」
はうような状態で立ち上がり、逃げようとした。
だが、ジークフリートの声がそれを引き止めた。
「待て」
低く、押し殺したような声だった。怒気を含んでいるようにも聞こえる。
エリアルは凍りついた。
殺されるのか。それとも、襲われるのか。
ジークフリートは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その瞳は揺らぎ、額には玉のような脂汗が浮いている。
彼は限界まで我慢していた。
体内で暴れ狂う獣の本能が、「目の前のオメガを組み敷け」「その喉元に噛みつき、自分のものだと刻み込め」と叫び続けているのだ。
エリアルの香りは、彼にとって劇薬だった。
吸い込むたびに、理性の壁がガラガラと崩れ落ちそうになる。脳が痺れ、目の前がチカチカするほどの快楽と衝動。
だが、ジークフリートは「最強の騎士」だ。
彼は自らの舌を噛み切りそうなほどの力で奥歯を噛み締め、その衝動をねじ伏せた。
そして、震える手でエリアルの手首を掴んだ。
「ひっ……!」
エリアルが小さな悲鳴を上げる。
しかし、その手は優しかった。拘束するためではなく、支えるための強さだった。
ジークフリートは、その場に膝をついた。
泥と枯れ葉の上に、白銀の鎧が音を立てて接地する。
彼はエリアルの手首から、手の甲へと指を滑らせ、恭しくその手を持ち上げた。
まるで、女神に許しを請う信徒のように。
エリアルは呆然と見下ろしていた。
見上げているジークフリートの瞳は、情欲の熱を帯びながらも、どこまでも澄んでいた。
「……見つけた」
ジークフリートは、うわごとのように言った。
「ずっと、探していた気がする」
その言葉の意味を、エリアルは理解できなかった。
ただ、繋がれた手から伝わってくる彼の体温が、火傷しそうなほど熱いことだけがわかった。
森の木々がざわめく中、二人の視線が絡み合う。
それは、捕食者と被食者の関係ではなく、もっと別の、魂と魂が引かれ合うような、運命の始まりの瞬間だった。
ベッドで浅い眠りに落ちていたエリアルの耳に、不快な音が飛び込んできた。
ガサガサ、バキバキと、枝が折れ、下草が踏みしだかれる音。
風の音ではない。もっと重く、粗雑な、何かが無理やり森を切り裂いて進む音だ。
エリアルは弾かれたように身を起こした。心臓が早鐘を打つ。
「……なに?」
窓の外に目を向ける。薬草畑の向こう、森の木陰から、巨大な影がヌラリと現れた。
それは、猪に似ていたが、大きさは牛ほどもある異形の魔獣だった。全身の毛は針金のように硬く逆立ち、口からは涎が垂れている。
その濁った赤い瞳が、真っすぐにエリアルの小屋を捉えていた。
「ひっ……」
息を飲む。
魔獣の鼻がひくひくと動く。その動きは、明らかに匂いを追っていた。
エリアルのフェロモンだ。抑制剤が効かず、垂れ流しになっている濃厚な香りが、この怪物を呼び寄せてしまったのだ。
「グルゥァ……」
低い唸り声とともに、魔獣が地面を蹴った。
ドスン、ドスンと地響きが鳴る。小屋が揺れた。
エリアルは震える足で立ち上がり、裏口へと走った。
ここにいてはいけない。小屋が壊されるだけではない。自分自身が食い殺されるか、あるいはもっと酷い目に遭うか。
魔獣は食欲だけでなく、歪んだ性欲も持ち合わせていることが多い。オメガのフェロモンに刺激された魔獣が何をするか、想像するだけで吐き気がした。
裏口の扉を開け、エリアルは森の中へ飛び出した。
靴を履く暇もなかった。裸足の裏に小石や枝が食い込み、痛みで顔が歪む。だが、立ち止まることはできない。
背後で凄まじい破壊音が響いた。小屋の壁が突き破られた音だ。
「アァッ!」
短い悲鳴を上げて、エリアルは転んだ。木の根に足を取られたのだ。
痛みに耐えて起き上がろうとした瞬間、頭上を巨大な影が覆った。
「グルルルゥ……!」
魔獣が、目の前にいた。
涎が糸を引き、鼻先からは生臭い息が吐き出される。
近い。あまりにも近い。
エリアルは後ずさりしようとしたが、背中は太い幹に阻まれた。
逃げ場はない。
(終わりだ……)
絶望が胸を覆う。こんな森の奥で、誰にも知られずに喰われて死ぬ。それが自分の運命だったのか。
薬師として人を助けたいと願いながら、結局は自分の体質に殺される。
なんて滑稽な人生だろう。
エリアルはギュッと目を閉じた。せめて、痛みだけは一瞬であってほしいと願いながら。
魔獣が大きく口を開け、鋭い牙を剥き出しにした。
その時だった。
「――頭を垂れろ、下種が」
冷たく、透き通った声が響いた。
次の瞬間、風を切る音と、何か硬いものが肉を断つ水音が重なった。
「ギャアアアッ!」
魔獣の絶叫。
エリアルが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
さっきまでエリアルを威圧していた魔獣の巨体が、横薙ぎに吹き飛ばされていたのだ。
舞い散る血飛沫の中で、一人の男が立っていた。
白銀の鎧。手には、身の丈ほどもある大剣。
その剣身からは、まだ魔獣の血が滴っているはずなのに、刃は雪のように白く輝いていた。
男はゆっくりと、倒れ伏して痙攣する魔獣に歩み寄ると、無造作に剣を振り上げた。
ためらいのない一撃。
ドスッ、という鈍い音がして、魔獣は完全に動かなくなった。
圧倒的な暴力。けれど、その所作は舞踏のように洗練されていて、見惚れるほどに美しかった。
男は剣を一振りして血糊を払い、鞘に納めた。カチン、という澄んだ音が森に響く。
そして、彼はゆっくりと振り返った。
エリアルは息をするのも忘れて、その姿を見つめた。
輝くような金髪。意志の強さを感じさせる眉。そして、宝石のアメジストのような紫色の瞳。
今まで見た誰よりも美しい人だった。けれど、その美しさは鋭利な刃物のようで、触れれば切れそうなほどの冷たさを孕んでいた。
(騎士様……?)
なぜ、こんな森の奥に。
男、ジークフリートは、エリアルの方へと歩き出した。
カシャ、カシャと、鎧が擦れる音が近づいてくる。
エリアルは身を縮こまらせた。助けてもらったとはいえ、相手はアルファだ。自分のフェロモンが彼にどう影響するか、わかったものではない。
ジークフリートはエリアルの目の前、数メートルの位置で立ち止まった。
そして、その端正な顔をわずかに歪めた。
「……ッ」
彼は口元を手で覆い、苦しげに眉間にしわを寄せた。
エリアルは「しまった」と思った。
やはり、匂いだ。発情期前の濃厚なフェロモンが、彼を刺激しているのだ。
「申し訳、ありません……!」
エリアルは咄嗟に謝った。
「私の匂いが、不快で……今すぐ、離れますから……」
はうような状態で立ち上がり、逃げようとした。
だが、ジークフリートの声がそれを引き止めた。
「待て」
低く、押し殺したような声だった。怒気を含んでいるようにも聞こえる。
エリアルは凍りついた。
殺されるのか。それとも、襲われるのか。
ジークフリートは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その瞳は揺らぎ、額には玉のような脂汗が浮いている。
彼は限界まで我慢していた。
体内で暴れ狂う獣の本能が、「目の前のオメガを組み敷け」「その喉元に噛みつき、自分のものだと刻み込め」と叫び続けているのだ。
エリアルの香りは、彼にとって劇薬だった。
吸い込むたびに、理性の壁がガラガラと崩れ落ちそうになる。脳が痺れ、目の前がチカチカするほどの快楽と衝動。
だが、ジークフリートは「最強の騎士」だ。
彼は自らの舌を噛み切りそうなほどの力で奥歯を噛み締め、その衝動をねじ伏せた。
そして、震える手でエリアルの手首を掴んだ。
「ひっ……!」
エリアルが小さな悲鳴を上げる。
しかし、その手は優しかった。拘束するためではなく、支えるための強さだった。
ジークフリートは、その場に膝をついた。
泥と枯れ葉の上に、白銀の鎧が音を立てて接地する。
彼はエリアルの手首から、手の甲へと指を滑らせ、恭しくその手を持ち上げた。
まるで、女神に許しを請う信徒のように。
エリアルは呆然と見下ろしていた。
見上げているジークフリートの瞳は、情欲の熱を帯びながらも、どこまでも澄んでいた。
「……見つけた」
ジークフリートは、うわごとのように言った。
「ずっと、探していた気がする」
その言葉の意味を、エリアルは理解できなかった。
ただ、繋がれた手から伝わってくる彼の体温が、火傷しそうなほど熱いことだけがわかった。
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