地味なβのふりをする僕。ある日助けたのは憧れのαだった。記憶を失った彼は僕にだけ懐き甘えてくるが、その瞳の奥には強すぎる独占欲が宿っていて…

水凪しおん

文字の大きさ
2 / 30

第1話「灰色の世界と、色彩の君」

しおりを挟む
 僕の世界は、ずっと灰色だった。
 色のない音のない、ただ息を潜めてやり過ごすだけの毎日。青葉学院大学のキャンパスは春に桜が咲き誇り、秋には黄金の絨毯のように銀杏の葉が敷き詰められる美しい場所だ。けれど僕の目にはそのどれもが、くすんだモノクロームにしか映らなかった。

 水瀬湊、二十歳、文学部二年生。属性はベータ。
 もちろん、それは偽りの姿だ。本当の僕は男性としては極めて希少なオメガ。だが、その事実を知る者は誰もいない。強力な抑制剤で本来の性を捻じ曲げ、僕は平凡なベータとしてこの広大なキャンパスの片隅で石ころのように転がっている。

『今日も、綺麗だな』

 講義室の窓から中庭を横切るひとつの影を見つめ、僕は小さくため息をついた。
 その影の名は、神楽坂蓮。
 経営学部の二年生で、僕と同じ学年。しかし彼と僕とでは、住む世界が違いすぎた。プラチナブロンドの髪は陽の光を浴びてきらきらと輝き、彫刻のように整った顔立ちはすれ違う誰もが思わず振り返るほどだ。背が高く、モデルのようなスタイルで着こなすブランド物のシャツは嫌味なくらい彼に似合っていた。

 彼は、選ばれしアルファ。それも特に優れた血統の。
 彼が歩くだけで周囲の空気は色めき立つ。女子学生たちは熱のこもった視線を送り、男子学生たちでさえ憧れと少しの嫉妬が混じった眼差しで彼を遠巻きに見ていた。僕も、その他大勢と同じ。ただ少し違うのは、僕が彼の姿を盗み見る時間がきっと誰よりも長いことくらいだろうか。

 彼に近づきたいなんて、おこがましいことは考えない。僕のような地味で存在感のないベータ(偽りだが)が、彼の隣に立つことなど許されるはずもないのだから。それに万が一僕がオメガだと知られたらどうなるか。アルファの本能を刺激して、面倒なことになるのは目に見えている。
 だからこうして遠くから眺めているだけで十分だった。灰色だった僕の世界に、彼という色彩がほんの一瞬だけ差し込んでくれる。それだけで、僕は満たされていた。

「湊、また見てんの? 神楽坂のこと」

 隣の席から、呆れたような声がした。振り返ると、親友の高槻健太がニヤニヤしながら僕の顔をのぞき込んでいる。

「べ、別に見てないよ」

「嘘つけ。穴が開くほどガン見してたじゃん。お前、ほんと好きだよな、あいつのこと」

「好きとかじゃなくて、憧れだって言ってるだろ。芸術品を鑑賞するのと同じ感覚だよ」

「はいはい。その芸術品サマ、今日は一段と機嫌悪そうだな。なんか近寄りがたいオーラ出てるぞ」

 健太の言葉に、僕はもう一度中庭に視線を戻す。確かに、今日の神楽坂蓮はいつも以上にクールで人を寄せ付けない雰囲気をまとっていた。数人の取り巻きらしき学生が話しかけているが、彼は一瞥もくれずただ無表情に前を見据えて歩いている。
 あの美しい顔が、少しでも綻ぶところを見てみたい。そんな叶わぬ願いを抱きながら、僕は講義の開始を告げるチャイムの音に思考を現実へと引き戻された。

 講義が終わり、健太と別れて一人で帰路につく。
 空はいつの間にか、僕の心の中を映したかのような厚い灰色の雲に覆われていた。天気予報は午後から雨だと言っていた。折り畳み傘は持ってきたけれど、気分は一層重くなる。

 大学の最寄り駅へと向かう途中、僕はいつもとあるカフェの前を通り過ぎる。ガラス張りの洒落た店内で、神楽坂蓮が友人たちと談笑している姿をこれまで何度か見かけたことがあった。今日ももしかしたら、なんて淡い期待を抱いて店の前を通りかかったが、そこに彼の姿はなかった。
 当たり前だ。そう自分に言い聞かせ、僕は歩みを速めた。

 ぽつり、と冷たい雫が鼻先に落ちてきた。
 見上げると、灰色の空から雨粒が糸を引くように落ちてきている。あっという間にその勢いは増し、ざあざあと音を立ててアスファルトを叩き始めた。僕は慌てて鞄から折り畳み傘を取り出し、それを開く。

 駅までは、あと少し。横断歩道で信号待ちをしていると、すぐ近くで甲高いブレーキ音と何かが強くぶつかる鈍い音が響き渡った。
 何事かと周囲を見回すと、僕が渡ろうとしていた横断歩道の少し先で一台の乗用車が不自然な角度で停まっている。そして、その車のすぐそばの路上に誰かが倒れていた。

『人身事故…?』

 周囲の人々が悲鳴を上げ、遠巻きに様子をうかがっている。僕も、その野次馬の一人になるはずだった。けれど、倒れている人物が着ている服に見覚えがあって、足が縫い付けられたように動かなくなった。
 上質な生地の、チャコールグレーのシャツ。雨に濡れて、色が濃くなっている。そしてその人物から流れ出たであろう血が、雨水に混じって赤黒くアスファルトに広がっていく。

 まさか。
 そんなはずはない。
 心臓が嫌な音を立てて脈打つのを感じながら、僕は傘を放り出し雨の中に飛び出していた。降りしきる雨が容赦なく僕の体を濡らしていくが、そんなことはどうでもよかった。

 倒れているその人のそばに駆け寄り、僕は息をのんだ。
 雨に濡れて額に張り付いたプラチナブロンドの髪。閉じられた瞼。いつも自信に満ち溢れていたその顔は、今は苦痛に歪み血の気を失っている。

「かぐらざか、くん…?」

 僕の世界に唯一、色彩を与えてくれる人。
 神楽坂蓮が、そこに倒れていた。
 彼の頭部から流れる血は、雨に混じって僕の手を赤く染めていく。
 僕は震える手でスマートフォンを取り出し、救急車を呼ぶために番号をダイヤルした。遠くでサイレンの音が聞こえ始めるまでの時間が、まるで永遠のように長く感じられた。

 灰色だった僕の世界が、彼の血の色で真っ赤に染まっていく。
 僕はただ、彼の名前を呼び続けるしかなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

のほほんオメガは、同期アルファの執着に気付いていませんでした

こたま
BL
オメガの品川拓海(しながわ たくみ)は、現在祖母宅で祖母と飼い猫とのほほんと暮らしている社会人のオメガだ。雇用機会均等法以来門戸の開かれたオメガ枠で某企業に就職している。同期のアルファで営業の高輪響矢(たかなわ きょうや)とは彼の営業サポートとして共に働いている。同期社会人同士のオメガバース、ハッピーエンドです。両片想い、後両想い。攻の愛が重めです。

森で助けた記憶喪失の青年は、実は敵国の王子様だった!? 身分に引き裂かれた運命の番が、王宮の陰謀を乗り越え再会するまで

水凪しおん
BL
記憶を失った王子×森の奥で暮らす薬師。 身分違いの二人が織りなす、切なくも温かい再会と愛の物語。 人里離れた深い森の奥、ひっそりと暮らす薬師のフィンは、ある嵐の夜、傷つき倒れていた赤髪の青年を助ける。 記憶を失っていた彼に「アッシュ」と名付け、共に暮らすうちに、二人は互いになくてはならない存在となり、心を通わせていく。 しかし、幸せな日々は突如として終わりを告げた。 彼は隣国ヴァレンティスの第一王子、アシュレイだったのだ。 記憶を取り戻し、王宮へと連れ戻されるアッシュ。残されたフィン。 身分という巨大な壁と、王宮に渦巻く陰謀が二人を引き裂く。 それでも、運命の番(つがい)の魂は、呼び合うことをやめなかった――。

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *本編完結しました

欠陥αは運命を追う

豆ちよこ
BL
「宗次さんから番の匂いがします」 従兄弟の番からそう言われたアルファの宝条宗次は、全く心当たりの無いその言葉に微かな期待を抱く。忘れ去られた記憶の中に、自分の求める運命の人がいるかもしれないーー。 けれどその匂いは日に日に薄れていく。早く探し出さないと二度と会えなくなってしまう。匂いが消える時…それは、番の命が尽きる時。 ※自己解釈・自己設定有り ※R指定はほぼ無し ※アルファ(攻め)視点

竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜

レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」 魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。 彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。

運命を知らないアルファ

riiko
BL
オメガ嫌いの西条司は女性アルファとしか付き合わない、そんな中やたらと気になるオメガを見つけた。 運命やフェロモンという不確かなモノではなく、初めて本気で惹かれた唯一のオメガにはとんでもない秘密があった!? オメガ嫌い御曹司α×ベータとして育った平凡Ω オメガ主人公がお好きな方は『運命を知っているオメガ』をお読みくださいませ。こちらはその物語のアルファ側のお話です。このお話だけでも物語は完結しますが、両方読まれると答え合わせが楽しめます。 性描写が入るシーンは ※マークをタイトルにつけます、ご注意くださいませ。 コメント欄はそのまま載せておりますので、ネタバレ大丈夫な方のみご覧くださいませ。 物語、お楽しみいただけたら幸いです。

今からレンタルアルファシステムを利用します

夜鳥すぱり
BL
大学2年の鳴水《なるみ》は、ずっと自分がオメガであることを隠して生きてきた。でも、年々つらくなる発情期にもう一人は耐えられない。恋愛対象は男性だし、男のアルファに会ってみたい。誰でも良いから、定期的に安全に話し相手をしてくれる人が欲しい。でもそんな都合のいい人いなくて、考えあぐねた結果たどり着いた、アプリ、レンタルアルファシステム。安全……だと思う、評価も星5で良いし。うん、じゃ、お問い合わせをしてみるか。なるみは、恐る恐るボタンを押すが───。 ◆完結済みです。ありがとうございました。 ◆表紙絵を花々緒さんが描いてくださりました。カッコいい雪夜君と、おどおど鳴水くんです。可愛すぎますね!

幼馴染みのハイスペックαから離れようとしたら、Ωに転化するほどの愛を示されたβの話。

叶崎みお
BL
平凡なβに生まれた千秋には、顔も頭も運動神経もいいハイスペックなαの幼馴染みがいる。 幼馴染みというだけでその隣にいるのがいたたまれなくなり、距離をとろうとするのだが、完璧なαとして周りから期待を集める幼馴染みαは「失敗できないから練習に付き合って」と千秋を頼ってきた。 大事な幼馴染みの願いならと了承すれば、「まずキスの練習がしたい」と言い出して──。 幼馴染みαの執着により、βから転化し後天性Ωになる話です。両片想いのハピエンです。 他サイト様にも投稿しております。

処理中です...