地味なβのふりをする僕。ある日助けたのは憧れのαだった。記憶を失った彼は僕にだけ懐き甘えてくるが、その瞳の奥には強すぎる独占欲が宿っていて…

水凪しおん

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番外編 第1話「記憶喪失前のプロローグ〜獅子は静かに獲物を見つめる〜」

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 神楽坂蓮は、苛立っていた。
 大学の広大なキャンパス。その群衆の中である一点を見つめながら。
 彼の視線の先には、一人の地味な青年がいた。
 栗色の、少し癖のある髪。少し猫背気味の、華奢な背中。
 文学部の、水瀬湊。
 それが、蓮が何年も探し続けてきた、運命の相手の名前だった。

 高校を卒業し青葉学院大学への進学が決まった時、蓮は微かな期待を抱いていた。
 もしかしたらこの大学で、あいつに会えるかもしれない、と。
 根拠はなかった。
 ただの直感だ。
 けれど蓮は、自分のアルファとしての直感を信じていた。

 そして入学して数ヶ月が経った頃。
 蓮は、ついに彼を見つけたのだ。
 図書館で難しい専門書を熱心に読みふけっている、その横顔。
 一目見ただけで、分かった。
 あの夏の日、ひまわり畑で出会った少年だと。
 蓮の心臓は大きく高鳴った。
 やっと、会えた。
 何年も夢にまで見た、運命の相手に。

 しかし、蓮はすぐに彼に声をかけることができなかった。
 なぜなら湊は、自分のことをベータだと偽っていたからだ。
 彼の体からは抑制剤の僅かな匂いと、それを突き抜けてくる微かな、しかし間違いなくオメガの甘い香りがした。
 蓮の優れたアルファの本能は、それを正確に嗅ぎ分けていた。
 なぜ、隠しているんだ?
 俺から、逃げるためにか?
 それとも、俺のことを忘れてしまったのか?

 蓮は、悩んだ。
 どうやって彼に近づけばいいのか。
 いきなり「お前は、俺の番だ」なんて言っても、気味悪がられるだけだろう。
 かといって普通の友人のように接するのも、違う気がした。
 蓮はいつものクールな仮面の下で、一人葛藤していた。
 周りにはたくさんの人間が群がってくる。
 男も女も、アルファもベータもオメガも。
 誰もが神楽坂蓮という存在に興味を持ち、媚びを売り、あるいは嫉妬の視線を向けてくる。
 そんなくだらない人間関係に、蓮は辟易していた。
 彼が欲しいのは、たった一人。
 水瀬湊、ただ一人だけなのだ。

 蓮は遠くから、湊を観察することにした。
 彼がどの講義を取っているのか。
 誰と親しくしているのか。
 どんな本を読むのが好きなのか。
 まるでストーカーのようだと自分でも思ったが、仕方がなかった。
 知れば知るほど、湊という人間への愛しさが募っていく。
 地味で目立たないが。
 その瞳の奥には、優しくて強い光が宿っている。
 一度でいいからあの瞳に、自分だけを映してほしい。
 そう、願わずにはいられなかった。

 ある雨の日。
 蓮は、ついに決意した。
 もう、待つのはやめだ。
 どんな形でもいい。彼との接点を持とう。
 そう思って、湊がいつも通る帰り道を先回りして待っていた。
 雨の中、傘もささずに一人佇む。
 やがて向こうから、湊が歩いてくるのが見えた。
 小さな折り畳み傘をさして、少しうつむき加減に。
 今だ。
 今、声をかけるんだ。
 蓮が一歩踏み出そうとした、その時。

 甲高い、ブレーキ音。
 そして、体に突き刺さるような衝撃。
 蓮の意識は、そこでぷつりと途切れた。
 最後に彼の目に映ったのは、驚きに目を見開いてこちらに駆け寄ってくる、湊の姿だった。

(ああ、最悪だ…)

 薄れゆく意識の中で、蓮は思った。

(一番、かっこ悪い再会の仕方じゃないか…)

 獅子は静かに獲物を見つめ、完璧な狩りの計画を練っていたはずだった。
 しかし運命の女神は、時として残酷な悪戯をするらしい。
 この事故が結果的に彼らの運命を大きく動かすことになるなど、この時の蓮は知る由もなかった。
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