借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん

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第1話「箱庭の鳥」

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 重厚な鉄の門が音もなく開かれていく。
 伊織を乗せた黒塗りの車は滑るように広大な敷地へと吸い込まれた。まるでこれから始まる未来を暗示するかのように空は厚い雲に覆われ、陽の光はどこにも見当たらない。

 車窓から見えるのは手入れの行き届いた、しかしどこか生命感の希薄な庭園と、その先にそびえる灰色の洋館。ここが今日から彼の「家」になる場所だった。

「伊織様、お着きになりました」

 運転手の事務的な声に、伊織は小さく「はい」と答えるのが精一杯だった。
 心臓が鉛のように重く、指先は氷のように冷たい。十八年間育った家を出る時、父は一度も彼の目を見ようとはしなかった。ただ「久遠様にご迷惑をおかけするな」とそれだけを繰り返した。

 会社の経営不振を救うための事実上の人身売買。Ωとして生まれた自分がいつか家のための道具になる日が来るとは思っていたが、それがこんなにも早くそして無慈悲な形で訪れるとは想像もしていなかった。

 車が玄関ポーチに停まると、年配の執事と思しき男性が深々と頭を下げてドアを開けた。

「ようこそおいでくださいました、伊織様。長旅でお疲れでしょう。主がお待ちかねです」

 その丁寧な物腰はかえって伊織の心を孤独にさせた。自分は客ではない。これからこの屋敷に囚われる一羽の鳥なのだから。

 案内されたのは磨き上げられた長い廊下の突き当たりにある書斎だった。重々しい樫の扉が開き、伊織は息を呑む。壁一面を埋め尽くす本棚、蝋を引いた床に落ちるシャンデリアの硬質な光。
 そして部屋の中央、大きな執務机の向こう側に一人の男が座っていた。

 久遠征四郎。
 それがこれから伊織の全てを支配する男の名前だった。

 立ち上がった男の姿に、伊織は思わず後ずさりそうになるのを必死でこらえた。噂には聞いていたが、これほどまでの威圧感を放つαに出会ったのは初めてだった。三十代後半とは思えないほど若々しく、隙のないスーツに身を包んだ身体は鍛え抜かれているのが一目でわかる。
 そして何より伊織を射抜くその黒い瞳は、温度というものを一切感じさせなかった。

「君が藍沢伊織君か」

 低くよく通る声だった。だがその声色には何の感情も含まれていない。

「……はい。藍沢伊織です」

 絞り出すように答えるのが精一杯だった。彼の前に立つだけでΩの本能が警鐘を鳴らし、全身の血が凍りつくような感覚に陥る。

「長旅ご苦労だった。話は聞いているね」

「はい……」

「そうか」

 征四郎はそれだけ言うと伊織から視線を外し、手元の書類に目を落とした。まるで道端の石ころにでも話しかけているかのような無関心な態度。
 沈黙が重くのしかかる。伊織はどうすればいいのかわからず、ただその場で立ち尽くすしかなかった。

 やがて征四郎は再び顔を上げた。
 その瞳は値踏みするように伊織の全身をゆっくりと眺め、やがて冷たい光を宿して伊織の顔で静止した。

「一つ勘違いしないでほしい」

 静かに、しかし有無を言わせぬ響きで彼は言った。

「君を私の番にする気はない」

 その言葉は鋭い氷の刃となって伊織の胸を突き刺した。
 予想していたことではあった。政略的な関係に愛など期待していなかった。それでも真正面から突きつけられた拒絶は、伊織の脆い自尊心を容赦なく砕いた。

「君の父親とは取引をした。君を一年間この屋敷で預かる。その対価として私は彼の会社を援助する」

 征四郎は淡々と続ける。

「君にしてもらうことは何もない。ただ私に迷惑をかけず、この屋敷で静かに暮らしてくれればいい。言うなれば君は一年間、俺の『鳥』だ。美しい鳥かごを用意した。そこで大人しくしていれば君の家族は救われる」

 鳥。鳥かご。
 その言葉が伊織の頭の中で反響する。彼はこれから一年、この美しく広大な屋敷という名の鳥かごの中でただ息を潜めて生きることを求められているのだ。
 Ωとしての役割も妻としての務めも何一つ求められない。ただ美しい置物として存在するだけでいい、と。それはあまりにも屈辱的な宣告だった。

 唇を噛み締めてうつむく伊織に、征四郎はさらに追い打ちをかけるように言った。

「Ωとしてのヒートは抑制剤で完全にコントロールすること。私のフェロモンに影響されるような醜態を晒すことは許さない。それが君が守るべきたった一つの契約だ」

 顔を上げることができなかった。涙が零れ落ちそうになるのを、奥歯を強く噛み締めて必死にこらえる。自分は人間としてではなく、ただ一つの道具としてここに連れてこられたのだ。その事実が冷たい絶望となって伊織の心を支配した。

「……承知いたしました」

 消え入りそうな声でそう答えると、征四郎は「よろしい」と短く言った。彼の中ではもう伊織との会話は終わっているようだった。

「部屋へ案内させよう。何か必要なものがあれば執事の田所に言えばいい」

 再び書類に視線を落とした征四郎に背を向け、伊織は書斎を後にした。扉が閉まる瞬間、彼の心もまた固く閉ざされた気がした。

 案内されたのは二階の東の角にある日当たりの良い広い部屋だった。天蓋付きのベッド、猫脚のドレッサー、豪奢な調度品。どれもが一流品であることは伊織にもわかった。けれどそのどれもが冷たく温かみを感じさせなかった。

 一人きりになった部屋で伊織は窓辺に歩み寄った。窓の外には幾何学的に整えられた庭園が広がっている。しかしその完璧な美しさはまるで作り物のようだった。生きている花の香りも鳥のさえずりも聞こえてこない。

 まさしく箱庭。
 これから自分が生きる世界。

 ぽつりと窓ガラスに冷たい滴が当たった。雨が降り始めたのだ。それはまるで伊織の心を映しているかのようだった。声を殺して泣くこともできず、ただ静かに頬を伝う涙を拭うことしかできなかった。

「氷の帝王」と呼ばれた男の孤独な瞳。
 そして自分に告げられた残酷な契約。

 一年後自分はどうなっているのだろう。この箱庭から解放された時、自分の心には何が残っているのだろうか。
 答えの出ない問いだけが静まり返った部屋の中に溶けていった。
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