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第2話「凍てついた時間」
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久遠の屋敷での生活は音もなく始まった。
伊織に与えられた部屋は彼の孤独を際立たせるには十分すぎるほど広く美しかった。朝目が覚めるとメイドが朝食を運び、昼には静かなランチが、夜には豪勢だが一人きりのディナーが用意された。
誰もが伊織を「様」と呼び丁重に扱った。しかしその態度はどこまでも形式的で、彼らの瞳が伊織自身に向けられることは決してなかった。彼らは主人である久遠征四郎の命令に従い「鳥」の世話をしているに過ぎない。
伊織の日常は色のない水のように淡々と過ぎていった。広すぎる屋敷の中で彼が自由に行動できる範囲は限られていた。主人の書斎や私室がある西棟へは決して足を踏み入れてはならないと、執事の田所から固く言い渡されていた。
伊織の生活空間は東棟の自室と一階のいくつかの客間、そして食堂だけ。まるで目に見えない檻に囲われているようだった。
征四郎と顔を合わせることはほとんどなかった。彼は毎朝早くに会社へ向かい、帰りはいつも深夜だった。屋敷の中で彼の気配を感じることはあってもその姿を見ることはない。ただ一度だけ廊下の向こうを歩いていく後ろ姿を見かけたことがあった。その背中は伊織の心を凍らせるには十分なほど冷たく、人を寄せ付けない空気を纏っていた。
「番にする気はない」
あの日に告げられた言葉が何度も胸の中で繰り返される。征四郎にとって伊織は存在しないも同然なのだろう。それは屈辱であると同時に小さな安堵でもあった。
あの氷の瞳で見つめられること、圧倒的なαのフェロモンを間近で感じること。それらは伊織の心を激しくかき乱す。ならばこうして存在を無視されている方がよほど平穏でいられた。
食事を終えると伊織は自室の窓辺に座り、ただぼんやりと外を眺めて過ごすことが多くなった。窓から見える庭は相変わらず完璧に整えられていたが、やはりどこか空虚だった。色とりどりの花が咲いているにもかかわらず、そこからは何の香りも感じられない気がした。
(僕と同じだ)
美しく飾られ何不自由ない環境を与えられている。けれど心は空っぽで誰からも必要とされていない。この庭の花もただそこに在ることだけを求められているのだろうか。
そんなある日の午後、伊織は図書室へ向かった。田所からそこだけは自由に使っていいと言われていたのだ。時間だけは有り余るほどあった。少しでも気を紛らわせることができればと重い扉を開ける。
そこは征四郎の書斎と同じように壁一面が本棚で埋め尽くされていた。革張りの本の背表紙が放つ独特の匂いが伊織の鼻をくすぐる。
歴史書、哲学書、美術全集。並んでいるのは伊織には少し難しい本ばかりだった。それでも片っ端から背表紙を眺めていると、ふと一冊の本が目に留まった。それは他の本とは少し雰囲気の違う植物図鑑だった。
少し古びたその図鑑を伊織はそっと手に取った。
ページをめくると繊細なタッチで描かれた花々の絵と手書きの文字が目に飛び込んできた。それは印刷された文字ではなく、女性らしい丸みを帯びた美しい文字だった。
『白詰草(シロツメクサ)…花言葉は「私を思って」「幸運」。そして「復讐」』
『勿忘草(ワスレナグサ)…花言葉は「私を忘れないで」』
ところどころにそんな風に花言葉が書き添えられている。誰が書いたのだろう。この屋敷にこんな風に花を愛する人がいたのだろうか。
伊織はその図鑑に夢中になった。一つ一つのページを宝物のようにゆっくりとめくっていく。その文字を見ていると不思議と心が安らいだ。まるでこの文字を書いた人と静かな対話をしているような気持ちになる。
その時だった。
「何をしている」
背後からかけられた声に伊織の心臓が大きく跳ねた。
振り向くとそこに立っていたのは久遠征四郎だった。いつの間に部屋に入ってきたのか全く気配を感じなかった。彼は伊織が手にしている図鑑を氷のような瞳で見下ろしていた。
「…っ、申し訳ありません」
慌てて図鑑を閉じ元の場所に戻そうとする伊織の手を、征四郎の大きな手が掴んだ。
αの熱い体温。触れられた手首からまるで電気が走ったかのような衝撃が伊織を襲う。
「誰の許可を得てそれに触れている」
地を這うような低い声。その声には今まで感じたことのない剥き出しの怒りが含まれていた。
「……っ」
伊織は恐怖で声が出なかった。手首を掴む彼の力は骨が軋むほどに強い。なぜ彼がこれほどまでに怒っているのか、伊織には全く理解できなかった。
「それはお前のような者が軽々しく触れていいものではない」
征四郎は伊織の手から図鑑をひったくると、まるで汚れたものでも扱うかのようにその表紙を手のひらで乱暴に払った。そして伊織を睨みつける。
その瞳の奥に揺らめいていたのは怒りだけではなかった。深い、深い哀しみの色。
伊織はその瞳から目が離せなくなった。
「二度とこの図書室に入るな」
吐き捨てるようにそう言うと、征四郎は伊織に背を向けた。その手にはあの植物図鑑が固く握りしめられている。彼の広い背中がひどく寂しげに見えたのは気のせいだろうか。
一人残された図書室で伊織は掴まれた手首をさすりながらその場に立ち尽くした。じんじんと痛む手首よりも胸の方がずっと痛かった。
あの図鑑は彼にとって何か特別なものだったのだろう。そしてあの美しい文字はきっと彼の大切な人が書いたものに違いない。
(僕は彼の時間に土足で踏み込んでしまったんだ)
この屋敷の時間は凍てついている。それはきっと彼が何かを失ったその時から。
伊織は初めて久遠征四郎という男の、氷の仮面の奥にある心の断片に触れた気がした。それは触れてはいけない彼の聖域だったのだ。
自室に戻った伊織はベッドに倒れ込んだ。征四郎に触れられた手首がまだ熱を持っている。彼のフェロモンが微かに肌に残っているような気がして、伊織は落ち着かなかった。
抑制剤を飲んでいるはずなのに身体の奥が疼くような感覚。
(嫌だ……)
彼にだけはΩとしての自分を意識されたくなかった。「醜態は晒すな」と言われた言葉が蘇る。伊織はぎゅっと目を閉じた。
氷の帝王の瞳に宿っていた深い哀しみ。
それはきっと伊織が決して触れることのできない彼の過去。
この屋敷で生きるということは彼の凍てついた時間に触れず、ただ息を潜めていることなのだと伊織は改めて思い知らされた。
伊織に与えられた部屋は彼の孤独を際立たせるには十分すぎるほど広く美しかった。朝目が覚めるとメイドが朝食を運び、昼には静かなランチが、夜には豪勢だが一人きりのディナーが用意された。
誰もが伊織を「様」と呼び丁重に扱った。しかしその態度はどこまでも形式的で、彼らの瞳が伊織自身に向けられることは決してなかった。彼らは主人である久遠征四郎の命令に従い「鳥」の世話をしているに過ぎない。
伊織の日常は色のない水のように淡々と過ぎていった。広すぎる屋敷の中で彼が自由に行動できる範囲は限られていた。主人の書斎や私室がある西棟へは決して足を踏み入れてはならないと、執事の田所から固く言い渡されていた。
伊織の生活空間は東棟の自室と一階のいくつかの客間、そして食堂だけ。まるで目に見えない檻に囲われているようだった。
征四郎と顔を合わせることはほとんどなかった。彼は毎朝早くに会社へ向かい、帰りはいつも深夜だった。屋敷の中で彼の気配を感じることはあってもその姿を見ることはない。ただ一度だけ廊下の向こうを歩いていく後ろ姿を見かけたことがあった。その背中は伊織の心を凍らせるには十分なほど冷たく、人を寄せ付けない空気を纏っていた。
「番にする気はない」
あの日に告げられた言葉が何度も胸の中で繰り返される。征四郎にとって伊織は存在しないも同然なのだろう。それは屈辱であると同時に小さな安堵でもあった。
あの氷の瞳で見つめられること、圧倒的なαのフェロモンを間近で感じること。それらは伊織の心を激しくかき乱す。ならばこうして存在を無視されている方がよほど平穏でいられた。
食事を終えると伊織は自室の窓辺に座り、ただぼんやりと外を眺めて過ごすことが多くなった。窓から見える庭は相変わらず完璧に整えられていたが、やはりどこか空虚だった。色とりどりの花が咲いているにもかかわらず、そこからは何の香りも感じられない気がした。
(僕と同じだ)
美しく飾られ何不自由ない環境を与えられている。けれど心は空っぽで誰からも必要とされていない。この庭の花もただそこに在ることだけを求められているのだろうか。
そんなある日の午後、伊織は図書室へ向かった。田所からそこだけは自由に使っていいと言われていたのだ。時間だけは有り余るほどあった。少しでも気を紛らわせることができればと重い扉を開ける。
そこは征四郎の書斎と同じように壁一面が本棚で埋め尽くされていた。革張りの本の背表紙が放つ独特の匂いが伊織の鼻をくすぐる。
歴史書、哲学書、美術全集。並んでいるのは伊織には少し難しい本ばかりだった。それでも片っ端から背表紙を眺めていると、ふと一冊の本が目に留まった。それは他の本とは少し雰囲気の違う植物図鑑だった。
少し古びたその図鑑を伊織はそっと手に取った。
ページをめくると繊細なタッチで描かれた花々の絵と手書きの文字が目に飛び込んできた。それは印刷された文字ではなく、女性らしい丸みを帯びた美しい文字だった。
『白詰草(シロツメクサ)…花言葉は「私を思って」「幸運」。そして「復讐」』
『勿忘草(ワスレナグサ)…花言葉は「私を忘れないで」』
ところどころにそんな風に花言葉が書き添えられている。誰が書いたのだろう。この屋敷にこんな風に花を愛する人がいたのだろうか。
伊織はその図鑑に夢中になった。一つ一つのページを宝物のようにゆっくりとめくっていく。その文字を見ていると不思議と心が安らいだ。まるでこの文字を書いた人と静かな対話をしているような気持ちになる。
その時だった。
「何をしている」
背後からかけられた声に伊織の心臓が大きく跳ねた。
振り向くとそこに立っていたのは久遠征四郎だった。いつの間に部屋に入ってきたのか全く気配を感じなかった。彼は伊織が手にしている図鑑を氷のような瞳で見下ろしていた。
「…っ、申し訳ありません」
慌てて図鑑を閉じ元の場所に戻そうとする伊織の手を、征四郎の大きな手が掴んだ。
αの熱い体温。触れられた手首からまるで電気が走ったかのような衝撃が伊織を襲う。
「誰の許可を得てそれに触れている」
地を這うような低い声。その声には今まで感じたことのない剥き出しの怒りが含まれていた。
「……っ」
伊織は恐怖で声が出なかった。手首を掴む彼の力は骨が軋むほどに強い。なぜ彼がこれほどまでに怒っているのか、伊織には全く理解できなかった。
「それはお前のような者が軽々しく触れていいものではない」
征四郎は伊織の手から図鑑をひったくると、まるで汚れたものでも扱うかのようにその表紙を手のひらで乱暴に払った。そして伊織を睨みつける。
その瞳の奥に揺らめいていたのは怒りだけではなかった。深い、深い哀しみの色。
伊織はその瞳から目が離せなくなった。
「二度とこの図書室に入るな」
吐き捨てるようにそう言うと、征四郎は伊織に背を向けた。その手にはあの植物図鑑が固く握りしめられている。彼の広い背中がひどく寂しげに見えたのは気のせいだろうか。
一人残された図書室で伊織は掴まれた手首をさすりながらその場に立ち尽くした。じんじんと痛む手首よりも胸の方がずっと痛かった。
あの図鑑は彼にとって何か特別なものだったのだろう。そしてあの美しい文字はきっと彼の大切な人が書いたものに違いない。
(僕は彼の時間に土足で踏み込んでしまったんだ)
この屋敷の時間は凍てついている。それはきっと彼が何かを失ったその時から。
伊織は初めて久遠征四郎という男の、氷の仮面の奥にある心の断片に触れた気がした。それは触れてはいけない彼の聖域だったのだ。
自室に戻った伊織はベッドに倒れ込んだ。征四郎に触れられた手首がまだ熱を持っている。彼のフェロモンが微かに肌に残っているような気がして、伊織は落ち着かなかった。
抑制剤を飲んでいるはずなのに身体の奥が疼くような感覚。
(嫌だ……)
彼にだけはΩとしての自分を意識されたくなかった。「醜態は晒すな」と言われた言葉が蘇る。伊織はぎゅっと目を閉じた。
氷の帝王の瞳に宿っていた深い哀しみ。
それはきっと伊織が決して触れることのできない彼の過去。
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